浦島太郎
浦島太郎
「お父さん、そこの洋館の旦那さん、倒れちゃったんだって、脳卒中らしいわよ」
大家の娘板井歩美は、縁側で新聞を広げてタバコを吸っている作兵衛に話しかけた。
「田中さんだっけ?元気そうに見えたけどな。幾つだい?」
「六十七歳だって」
「まだ若ぇじゃねえか」
「テニスやゴルフもやってらしたのに・・・お父さんも気を付けてよ」
「馬鹿野郎、俺はそんなに柔じゃねえよ」
「それでね、リハビリ頑張ってらっしゃるらしいんだけど、芳しく無いらしいの」
「卒中はそんなに簡単にゃ治りゃしねぇよ」
「ご家族がみんなで励ましているらしいんだけど・・・早く元の元気なお父さんに戻ってって・・・気の毒ねぇ」
「焦ってもしょうがねぇだろう」
「旦那さんますます意気消沈しちゃって・・・」
「あたりめぇだ、応援して良くなるなら医者はいらねぇ」
「冷たいわねぇお父さん、ご家族の気持ちも考えてあげたら?」
「馬鹿、家族の気持ちより本人の気持ちだろうよ。その家族は本人の気持ちをちっとも考えてねぇ」
「本人の気持ちって?」
「浦島太郎だよ」
「えっ、浦島・・・」
太郎だよ、と作兵衛はもう一度言った。
「現実に引き戻されて、老いを知らされたのさ」
「現実・・・」
「そうだろうよ、俺たちは集団催眠にかかっているようなもんだ」
「どうしてよ?」
「テレビを観ると元気な年寄りばかり出て来やがる、健康食品でこんなに元気になりますよ、と宣伝する、年寄り騙くらかして商売してやがるんだ」
「それが何で集団催眠なのよ」
「みんな、幻を見ているからだよ、自分もあんな風でなけりゃいけない、なれるんだって思わされている。人生九十年だなんて言いやがって年寄り働かせようって魂胆だ、馬鹿にすんじゃねぇよ」
「だって、元気で長生きって良い事じゃない」
「まだまだ大丈夫、は、そろそろ危ねぇって事だろうよ。年寄りの仕事取り上げやがって何言ってやがる」
「さっき、年寄り働かせるって・・・」
「年寄りの仕事は、人生の終わり方を若い連中に教えてやるこったよ」
「またそんな暗い事を・・・」
「暗かねぇよ、現実を見ねぇから苦しむんだ。そっちの方がよっぽど暗れぇだろうが」
作兵衛は老眼鏡を外して歩美に向き直った。
「いいか、なぜ若ぇもんが川で溺れるか知ってるか?」
「知らないわよ!」
「慌てて元に戻ろうとするからだ。川は蛇行してるんだ、黙って流されてりゃそのうち岸に着くんだよ」
「それはそうだけど・・・」
「だから、躰の力抜いて浮いていなくちゃならねぇのに、ジタバタしてどうすんだ」
「う〜ん、何だかお父さんの言ってる事の方が正しいように思えて来たわ」歩美が首を捻って唸った。
その時、垣根の向こうから、一郎が顔を覗かせた。
「お母さん、熊先生と洋ちゃんと釣りに行って来て良い?」
「良いわよ。だけど、川に落ちたら流されなさい」
「えっ、どういう事?」一郎が怪訝な顔で訊いた。
「いえ、何でもない・・・行ってらっしゃい」
「変なのぉ?・・・行って来ま〜す」一郎は一目散に駆けて行った。
「今は子供にそんな体験をさせねぇから、いざという時に対処出来ねぇんだよ」
「そうかもね・・・」
歩美は考え込んでしまった。学校では危険な場所には近づかないように指導している。
「分かったらとっとと行って来い」
「えっ、何処に?」
「田中さん家だよ。励ましは逆効果だと教えてやんな。それよりも、気長にリハビリやって戻れるとこまで戻れば良いって、それを家族で見守ってあげるのが一番だって、ま、余計なお世話だけどな」
「それが年寄りの仕事なのね・・・じゃ、行ってくるわ!」
「ああ、そうしろ」
「年寄りも、楽じゃねぇんだよ・・・」
歩美の後ろ姿を見送って、作兵衛が呟いた・・・