いっ君の夏休み
いっ君の夏休み
今日も一郎は虫取りに余念が無い。一郎のフィールドは近くの赤十字病院と農業高校である。
黒の半ズボンにランニングシャツ、運動靴に麦藁帽子。それに虫カゴと捕虫網を持ったら準備完了だ。
今日は、先に病院に来た。広い中庭いっぱいに茂っているシロツメグサの中にはバッタが多い。
緑の保護色なので分かりにくいが、よく見るとオンブバッタが見つかる。
図鑑で調べると、大きい方がメス、小さい方がオスで、オスはいつもメスの背におぶさって移動しているらしい。中の良い夫婦に見えるが、オスがメスを監視しているのだと知って驚いた。
「お前、男のくせに情けないな」そう言うと、バッタは『スミマセン』と言ってこそこそ逃げて行った。
時々トノサマバッタが見つかる事もある。田圃などでよく見かけるトノサマバッタは茶褐色なのだが、ここでは緑の体に茶色い斑点のついた前翅を持ったものが多い。
このバッタに近づくのは至難の技だ。警戒心が強く一郎が近付くと、すぐ飛んで行ってしまう。一度飛び立つと十メートルくらいは飛ぶのでなかなか追いつけない。しかもジグザグ飛行をして一郎を翻弄する。『ココマデオイデ』と言って笑っている。
いつか一郎は、素手でこのバッタを捕まえるのが夢である。
しかし、一郎にとっての虫の聖地も、油断していると大変な目にあうのだ。
一度、カナヘビを追いかけて雑草の中に入ったら、ムカデに噛まれてしまった。
突然人差し指に激痛が走り、一瞬何が起こったのか分からなかった。
見ると大きなムカデが草むらに逃げ込んで行った。『オマエガワルインダゾ!』と怒っていた。
ムカデはカナヘビを狙っていたのだ。
みるみる指が腫れて倍くらいに膨らんだ。大声で泣いていると、看護婦さんがやって来た。
「どうしたの?」若い看護婦さんだった。
「ムカデに・・・痛い!」あとは声にならなかった。
「まあ、大変!」看護婦さんは、直ぐに一郎を診察室に連れて行って、先生に診せてくれた。
「ははぁ、こりゃ結構大きなムカデだわ」医師はそう言って、看護婦さんに何事か指示を出した。「かなり痛いけど、我慢しろ!」怖い声で医師が言った。
看護婦さんの持って来た注射器を見て、一郎はぶっ飛んだ。びっくりするくらい太い針が付いている。
「行くぞ!」医師は一郎を睨む。
いっ君は目を瞑って唇を噛み締めた。「グッ!」鼻から息が漏れた。歯を食いしばって激痛に耐える。
針は、指先に突き刺さっていた。
『ムカデの方がマシだ!』一郎はそう思った。
しばらくして声が聞こえた。「終わったぞ。よく我慢した、偉い!」医師は一郎を見て笑っている。
目から涙が、ポロポロこぼれた。指先の感覚が無い。包帯を巻いてもらって家に帰った。
母は、驚いた顔をして包帯を見ていたが、一郎から事情を聞くと笑って言った。
「さ、先生と看護婦さんにお礼に行かなきゃ。ついておいで」
一郎は、今帰って来た道をまた病院まで戻って行った。
その夜は、痛みで一睡も出来なかった。朝方少し眠って目が醒めると、痛みもいつの間にか消えていた。
そんな事があっても、一郎の虫に対する興味は一向に衰えなかった。
*******
別の日、一郎は洋助を誘って農業高校に蝶を捕りに行った。
高校の広い敷地には、牛舎、豚舎、鶏舎、サイロなどが点在している。
野菜農場には夏野菜がたわわに実っていた。
夏休みだけれど、家畜や農作物の世話をする為、何人かの学生が働いている。
「お前たち、虫捕りか?」農場で作業していた学生が訊いた。
「はい、蝶を探しています」一郎が答える。
「蝶なら、牛舎の裏に沢山いるぞ」学生は畜産科の方を指差した。
「えっ!キャベツ畑じゃないんですか?」一郎は驚いて訊いた。
「ああ、キャベツ畑には青虫はたくさんいるが、蝶はあまりいない。成虫はオシッコが大好きなのさ」学生が教えてくれた。
「げ〜本当ですか?」洋助が顔を顰めた。
「嘘だと思ったら行ってみな」汗を拭きながら学生が言った。
「ありがとうございます」二人は礼を言って牛舎の方に歩き出した。
「腹が減ったら、トマトやキュウリを勝手に捥いで喰っていいぞ。水分を摂らなきゃ日射病になっちまうからな」後ろから声を投げて学生は笑った。
「なんだかガッカリだな。蝶々って綺麗なイメージだったんだけど」洋助が呟いた。
「そう?ウンチにたかる虫もいっぱいいるよ。きっと栄養がたっぷり残っているんだよ」
牛舎の裏に来ると、学生の言った通り、蝶がたくさん地面にとまっている。
「あれ、オシッコを吸っているんだよね?」
「うん、そうだね」
「なんだか、捕る気がなくなっちゃった」
「そう?珍しい蝶もいるよ。ほら、あれアオスジアゲハだよ」
「う〜ん、いっ君捕って来なよ。僕、見てるから」
「分かった」
いっ君は、夢中になって蝶を捕った。その間、洋助はぼんやりと牛を見ていた。
「大漁だ!」蝶をいっぱい捕って一郎が戻ってきた。
「そんなに沢山捕って、どうするんだよ?」
「標本を作るんだ」
「なんだか、可哀想だな」
「そう?」
「洋ちゃんは、何してたの?」
「牛を見てた・・・」
「牛?」
「この牛、どうなっちゃうんだろう?って」
「ふ〜ん、さっきのお兄さんに聞いてみたら?」
「うん・・・」
二人はさっきの農場に戻って学生を探した。学生はトマト畑にいた。
「おっ、たくさん捕れたな!」学生は、一郎を見て笑った。
「はい、ありがとうございます」
「あれ、そっちの坊主は一匹も捕っていないじゃ無いか?」学生が洋助を見た。
「ん、なんだか元気がないが・・・ひょっとして日射病か!早くそのトマトを喰え!」
「違います・・・」洋助が呟くようにいった。
「なんだ?なら、なんでそうしょげている?」
「お兄さん。あの牛達、どうなっちゃうんですか?」
「えっ!どうなるって・・・食用になるんだけど」
「やっぱり殺されちゃうんですね・・・」
「・・・」学生は、暫く洋助の顔を見ていたが、「ちょっと来い」そう言って二人を牛舎の方に連れて行った。
「俺は、桑水流だ。桑水流敏夫」学生は、歩きながら名乗った。
「僕は、平川洋助」
「板井一郎!」
「そうか、よろしくな」
桑水流は二人をサイロの横の休憩小屋に連れて行った。
「まあ、そこに座れ」桑水流は、二人を椅子に座らせ冷たい麦茶を出してくれた。
「さっきの話だがな、君は牛が殺されるとどう思うんだ?」桑水流が洋助に訊いた。
「可哀想だなって・・・」
「そうだよな、俺だって一年の時はそう思った」
「じゃあ、今はそう思わないの?」
「う〜ん、ハッキリ言って分からないんだ」
「分からない?」
「うん、人間だけに限定せず、生き物全体を見てみるといい。みんな他者の命を奪う事で自分の命を繋げているんだ」
「それはそうだけど・・・」
「みんな、いつかは死ぬのに、そうやって少しでも長く生き延びようとする。これはもう、生命に備わった本能としか言いようが無い、理性ではどうすることも出来ないものだ」
「じゃあ、生きる為なら殺していいの?」洋助が泣きそうな顔で訊いた。
「どこまでが良くて、どこからが悪いかなんて、道徳の問題だ。道徳なんて時と場合によってコロコロ変わるルールやマナーみたいなもんだから、その時々の理性でもって判断するしかない」
「じゃあ、僕みたいに標本を作る為に虫を殺すことは?」一郎が尋ねた。
「学校の先生は、生き物を殺しちゃいけないって言うんだけど」
「もうお手上げだよ、俺には分からん。それはもう宗教の問題だろう」
一郎も洋助も、何が何だかわからなくなった。
「人間はずっとその問題を抱えて来たんだ、これからも答えは出ないだろうよ」桑水流は二人に言った。「でも、考え続けていくことは大切な事だよ」
「・・・」
「また、いつでも遊びに来いよ」桑水流はそう言ってまた作業に戻って行った。