第60編「こんなのチートじゃん!!」
普段はOLという職業に勤しんでいるため、初対面の相手に愛想良く対応できない事は社会人として致命的だと“千”自身も十分理解できている。
だが、恋心を寄せる親友に『キスマーク』と呼ばれる痕を残したであろう人物に笑顔を振りまく余裕など、今の千が持ち合わせているわけもなかった。
「?」
まるで親の仇でも見るかのような鋭い目つきを向けられ、裕一郎は道の端に避けながらいつもの無表情でわずかに首を傾げる。
恋幸と千も裕一郎の行動を見てすぐに自分達が今道のど真ん中に居る事を思い出し、同じように出来る限り体を道の端に寄せた。
「縁人」
「……え? はい」
「はい、ではなく。邪魔になりますから、避けてください」
「あ……ああ、はい。そっすね」
どこか上の空な縁人の態度に、今度は恋幸が首を傾げる番だった。
今までもだが、つい先ほど挨拶を交わした時までは笑顔を咲かせて楽しげに話す所謂『陽キャ』と呼ばれる部類に相応しい言動をとっていたというのに、今は借りてきた猫のように大人しい上なぜかちらちらと千に視線を向けている。
縁人の様子のおかしさには裕一郎も当然気づいていたが、即座に『放っておいて問題ないだろう』と判断して恋幸に向き直った。
「……大丈夫ですか?」
「……! あっ、だい、大丈夫です! えへ、ありがとうございます」
先ほどの突風で乱れてしまった長い黒髪を裕一郎が手櫛で梳くと、恋幸は大人しくなすがままになりつつも気恥ずかしそうに目を泳がせて頬に朱色を浮かべる。
少し傾いていた桜の髪飾りを整え終わるなり、長い指で眼鏡の縁を押し上げつつ裕一郎が改まったように口火を切った。
「はじめまして。彼女には、いつもお世話になっています」
低く落ち着いた声音でそう告げて千に対して軽く頭を下げた姿に、恋幸は一度2人を交互に見やり「あっ!」と思い出した声を出す。
「えっ、えっと! 千ちゃん、この方があのっ、」
「わかってる、ひなこの彼氏さんですよね。こんにちは、はじめまして。大親友の、千と言います」
千の瞳は恋幸を映さず、その鋭い視線は真っ直ぐに裕一郎を射抜いていた。
妙に強調される『大親友』の言葉。
表情の険しさは勿論、どこか棘のある言い方である事にはさすがの恋幸もすぐに気づいたが、その理由まで推測するのは困難を要して恋人と親友の対面をただ静かに見守る。
「あ。大親友と言っても所謂ネット友達なのでハンドルネームでの自己紹介になりますが、ご了承頂けると幸いです」
「なるほど、事情は把握しました。私は倉本裕一郎と申します」
裕一郎は慣れた手つきで胸ポケットから名刺入れを取り出すが、直後に千は片手を前に出して制止をかけた。
「名刺はいりません。気持ちだけ受け取らせてください」
「……では、口頭の挨拶のみで失礼します」
「はい。わざわざありがとうございます」
「いえ、とんでもない」
相変わらず表情の殺風景な裕一郎と、わざとらしいほど明るい笑顔を浮かべる千。しかしその目の奥は一切笑っておらず、先ほどから彼女達の周辺だけ空気がピリついている。
(え、あれ!? なんで!? 初対面だよね? 裕一郎様、別に千ちゃんに嫌われるようなこと言ったりしたりしてないのに……)
千にとっての裕一郎が恋敵である事や、頭の中で「このデカ男、誰の許可を得てひなこに手ぇ出してんの? イケメンだったら何でも許されると思ったら大間違いじゃい!」などと憤怒している事は、とうぜん恋幸は知る由もない。
おろおろと狼狽えつつSOSの目線を向けた先には『心ここに在らず』といった様子で千に見惚れる縁人が立っており、いよいよ縋る藁を失った恋幸は心の中で「広瀬さんのアホ!」と罵る。
そして、ギクシャクとした動きで裕一郎の顔を仰ぎ見て無理矢理に話題を切り替えた。
「えっと、裕……倉本さん達は、どうしてここに?」
今日は土曜日だが、代表取締役である裕一郎が休日出勤するのはすでに『よくある事』だと恋幸も理解できていた。
特にやましい事情を勘繰るわけではないけれど、本来であれば仕事中の時間帯に彼(と、縁人)が社外へ現れた事には驚きを隠し切れない。
なにやら裕一郎を良く思っていないらしい千から二の矢、三の矢を放つが如く威嚇の台詞が続くかと思いきや、当の彼女は恋幸が切り出した話題に触れることなく唇に片手を置いて何か考えるような素振りを見せる。
話を振られた裕一郎は「ああ」と短く呟き、胸ポケットに名刺入れを仕舞いながら空色の瞳をわずかに細めた。
「取引先がこの近くにあるんです。つい先ほど要件を終えたばかりで昼食をとっていなかったので、軽く済ませられる店を縁人と探していた時に貴女達の姿を見かけたんですよ」
「あっ、なるほどです!」
「……ちょうど貴女の事を考えていたので、会えて良かったです」
「!?」
前屈みになった裕一郎は恋幸の耳元に口を寄せ、内緒話でも打ち明けるかのように甘い囁きを落とす。
完全な不意打ちに彼女の顔がじわじわと赤く染まっていく様を確認すると、裕一郎は満足げに喉を鳴らして体を離し、片手でぽんと頭を撫でた。
「では。名残惜しいですが、私達はこれで失礼します」
「っあ、は、はい。お仕事頑張ってください……」
「ありがとうございます。……縁人」
「……え? あ……ああ、はい。失礼しまーす! じゃ、また!」
裕一郎に声をかけられてようやく自我を取り戻したらしい縁人は、いつもの笑顔で恋幸にひらひらと片手を振った後、体ごと千の方を向いて意味ありげに会釈してから小走りで裕一郎の背中を追う。
「千ちゃん、広瀬さんと知り合いなの?」
「いや、初めて会った。と、思うんだけど……」
◇
陽が沈んだ頃。千は恋幸と別れ、帰りの電車に揺られつつスマートフォンで検索エンジンを開いた。
(倉本……)
やはり何度考えても『聞き覚えがある』と脳は主張する。
珍しい苗字ではないため同じ苗字の知人が居るのではないか? と言われたら確かにそうかもしれない。しかし、曖昧な感覚にどうにも胸の辺りがムズムズして仕方がない。
(倉本……ゆう、いちろう)
文字を打ち込み『検索』ボタンをクリックした瞬間――表示された情報を見て、千は反射的に大きな声が出そうになった。
……が。すんでのところで飲み込み、片手で目を擦りもう一度画面を凝視する。
「ど、どおりで」
顔を見たことがある、名前を聞いたことがある。どちらも当たり前の直感だった。
現代日本において、彼の正体を知らなかった恋幸がただただ異例なのだ。
(強敵すぎるでしょ……)
――……倉本裕一郎。大手IT企業・スカイエニックス代表取締役。
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