第43話
突然の後藤の登場に、總子は現実感を失うほど驚いた。
後藤は、血の気の引いたような總子の顔色を見はしたが、ふん、と内心呟いただけで話を続けた。
「早朝からお勤め先まで押しかけて申し訳ありません。ですが、是非お話をしたいと思いまして……」
始業時間まであと30分だ。後藤と話をする余裕はさすがに無いが、この男が無駄話をするために来たわけではないことくらいは想定が付いたので、断るのも躊躇していると、
「ああ、そうですよね、これからお仕事ですよね……」
敢えて戸惑う素振りを見せると、案の定總子は申し訳なさそうな顔になった。
「では、本日の夜にお時間頂けますか?先日の続きと申しますか……、牧さんにご相談したい件がありまして」
月曜の夜なのに時間を取れということは、譲歩してもその程度、出来るだけ早く話したいことがあるのだろうと、總子は想定し、提案に頷いた。
「分かりました。大丈夫です」
後藤は眼鏡の奥の瞳を優し気に綻ばせ、心底ほっとしたような表情になり、頷いた。
「ありがとうございます。では、また今夜18時にここで」
「はい」
總子に頭を下げ、後藤は大通りへ出てタクシーを拾い、去って行った。
背が高く姿勢も良く、仕立てのいいスーツを着た後藤はその数秒の間にも人目を奪っていたらしい。そしてその男と夜の約束をしていたらしい總子のことも。
しかし、總子はそれどころではなかった。後藤の急いでいるらしい要件とは何なのか。ジュールに関することなのは確かだろうが、今のところ具体的には想像がつかない。
まだ2回しか会ったことのない後藤だが、会うたびに總子に心的ショックを与える。土曜日は何とかなったが、今夜の話の内容によっては、自分はまた体調を崩すかもしれない。もうジュールに同じ言い訳は効かないだろうし、そう何度もみっともない真似はしたくない。
気持ちを仕事用にスイッチングできないまま、自分の部署のあるフロアへ向かった。
◇◆◇
總子は何とか仕事を定時で終わらせて、約束の時間にビルの外へ出た。
もう後藤は到着して待っていたらしい。
「お疲れ様です」
朝同様、人好きする笑顔を浮かべて總子を出迎えた。しかも車まで待たせてある。
「お勤め先の近所はお嫌かと思い、少し離れた店を用意しました。どうぞ」
後部座席のドアを開け、總子に勧める。他人からこんな扱いをされたことがないので面食らってしまったが、後藤はいたって普通だ。彼にとっては当たり前なのだろう。そのまま乗り込み、後藤は反対側のドアから車に乗った。後藤がドアを閉めたことを確認して、車は発進する。
少し不安になり、總子は後藤に話しかけた。
「あの……」
車で移動となると、もしかしたら遠いのかもしれない。明日も仕事だし、あまり遅くなりたくないので帰宅予定時間を聞こうとしたら、
「大丈夫です。ご家族やジュール様が心配されるような時間まで、牧さんを連れまわすつもりはありませんよ」
皆まで言わずとも察した返事をもらい、總子はホッとした。しかし、一番の関心事はこれからだ。
「あの、私に相談したいこと、って……」
「まあそう焦らずに……。牧さんはイタリアンはお好きですか?」
「は?はぁ、まぁ……」
唐突な話題転換に面食らい、間の抜けた返事をしてしまったことを恥ずかしく思い、總子は口を噤んだ。
「良かった。お仕事の後でお腹空いてるでしょう?大事な話はその後にしましょう。レストランまで1時間ほどかかりますから、車内ですが寛いでください」
都心から一時間、やはり遠い。食事して話を聞いて、帰るのは早くても22時を回る。
ジュールに余計な不安を感じさせたくなくて、前もって連絡しておくことにする。總子がスマホを取り出し操作している姿を、後藤は視界の端で捉えていた。
(ジュール様の執着は相当だな。この女は両刃の剣かもしれない)
利用の仕方如何によっては大炎上しかねない。予定していた提案を取り下げ、ハードルを下げることにする。
(まずはこの女に俺を信用させないといけない)
ジュールという不確定要素が無ければ造作もないが、後藤は珍しく慎重さを自分に求めていた。