第36話
やっと土曜日になったが、先週の件があったからか總子は少々気が重い。
ジュールの自分への想いの強さを信じることは出来る。しかしだからと言って彼の父の存在が無くなるわけではなく、自分たちの未来が明るくなるわけでもない。
ジュールの強い誘いを断ることも出来ないし、一緒にいたいのは總子も同じだ。
今は―。
(逃げてると言われてもいい。今は、ジュールと一緒にいたい)
何かから顔をそむけるように、昼前には總子は自宅を出た。
◇◆◇
電車を乗り換える途中にある、チェーン店のカフェ。そこのベーグルがジュールの好物だったことを思い出して、總子は立ち寄った。
「あれ?牧さん?」
ふいに背後から声を掛けられ振り向き、總子は声にならない悲鳴を上げた。
「偶然ですね」
爽やかに微笑むのは、ジュールの父の秘書と名乗った、後藤という男だった。
驚きと恐怖で声も出ない總子の様子も構わず、後藤は話しかけ続ける。
「この辺りにお住まいなんですか?」
「…いいえ」
「そうですか。では、お出かけの途中ですか?今日は天気もいいですしね」
前回の三つ揃えのスーツ姿とは打って変わったラフな服装でメガネも外しているためまるで別人のようにも見えるが、間違いない、後藤だ。
声も出ない總子は、入店した目的も忘れて後藤の横を通り過ぎて出ていこうとしたが、すれ違いざま引き留められた。
「せっかくですから、お茶でもいかがですか?先日のお詫びもしたいので…」
「いえ、結構です」
そう答えるのも精いっぱいの總子の意思を完全に無視し、後藤は店員に席を案内させる。
「あのっ!私、いいです。帰りますので…」
「そうおっしゃらずに」
またにっこり笑って、しかし腕は總子の腰をしっかりつかんで離さない。逃げ場を無くした總子はされるがまま窓際の席へ連れていかれた。
◇◆◇
「何にされますか?」
「私は…」
後藤は頑なに拒否する姿勢を崩さない總子を無視して、前回と同じオーダーを店員へ告げる。メニューを閉じ、改めて總子へ向き直った。
「あれから、体調はいかがですか?」
「…もう大丈夫です」
「本当に申し訳ありませんでした…。あの後、小田切氏からも怒られました。お前はデリカシーがなさすぎると…」
ジュールの父の名前が出たことで、總子の緊張度は更に上がる。ジュールに会うために家を出たのに、今自分はなぜここにいるのか。聞きたくもない名を耳にしているのか。
小さく震えている様子の總子に、後藤は申し訳なさそうに言葉を続けた。
「あの件は、一度お忘れください」
「…あの件?」
「ジュール様のお父上のことです。牧さんに無用の心労をお与えしてしまったようで」
「でも…」
忘れたところで、現実は変わらないのではないか。
「確かに。もしお忘れいただけたとしても事実はその通りです。しかし私は、親子関係とは別に、ジュール様に恋人が出来たことはとても良いことだと考えているのです」
後藤が何を言わんとしているか、意図がつかめず總子は眉根を寄せる。
「ジュール様は基本的に人を信頼していません。父親はもちろん、子供の頃からそばにいる使用人も。ご友人を家に連れてきたこともありません。そのジュール様が牧様のことは別格と考えておられる」
少し身を乗り出して、後藤は告げた。
「ジュール様のために、お力をお貸しいただけますか」
「それは…」
息を飲む總子の様子に、内心満足げに頷きながら、身を引いて背もたれに身を預ける。
「それはまたいずれ…。さあ、冷める前にカフェオレをどうぞ」
いつの間にか供されていた注文に気づき、気持ちを落ち着かせたくて總子はカップに手を伸ばした。
ジュールのため。
行き止まりの道の、更に向こうに違う道が見えたような気がして、總子はその言葉をくるくると頭の中で回し続けていた。