第29話
仕事を終え、總子はオフィスを出た。
今宵は満月らしい。輪郭がくっきりとした大きな月がビルの合間に見える。吸い寄せられるような気がして駅への道を歩き出したところへ、声を掛けられた。
「牧總子さん、ですね?」
突然名前を呼ばれて驚いた。知らない男性だ。無意識に警戒心が湧く。
「お仕事帰りでお疲れのところ申し訳ありません。実は、小田切ジュールさんについてご相談がありまして」
名刺を差し出しながら、男はジュールの名を口にして、また驚いた。
「ジュールが、何か…」
「立ち話もなんですから、あちらのカフェはいかがでしょうか」
道路向かいのカフェ―夜はバーになる―を指し示しながら男はニコリと微笑んで總子を促した。
見ず知らずの男性と二つ返事でお茶をする趣味は總子にはない。しかしジュールの名を出されれば従わないわけにはいかなかった。
頷いて、男の後に従った。
◇◆◇
カフェに入り、注文を済ませると男は改めて自己紹介してきた。
「私は後藤と申します。レジーナコーポレーションに勤務しております」
先ほど總子が受け取らなかった名刺を、もう一度差し出した。
「社名を出せば…お分かりですね?」
「は?」
名刺と男を見比べながら、總子はきょとんとした。
「あの…、ジュールのお話と伺ってましたが」
「ええ、だから、です。…レジーナコーポレーションはご存じない?」
「いえ、御社名はもちろん存じています。しかし…」
「ああ、ジュール様は何もお話になってないのですね」
ため息をつきながらそう言う男の様子に、總子は不安を煽られた。そして、『様』?
「レジーナコーポレーションの代表取締役は小田切和彦氏です。ジュール様はそのご子息です」
聞いた途端、タワーマンションの最上階の豪華な部屋と調度、ジュール一人の世話のために何人も配置された使用人達の姿が總子の脳裏を過った。
(お金持ちだと思っていたけど、まさか…)
テーブルの下で握っていた両手が、微かに震え出した。
レジーナグループ。
ファッションと化粧品とジュエリーを中心に、最近ではリゾート開発や不動産開発も行っている。自社ブランドの広告に登場するモデルはすべてグループで育成されたモデルばかりで、中には映画に出演する者も出始め、エンタテイメント業界への進出も噂されている。世界中で展開する、日本でも指折りの大企業だ。
「私は代表の小田切氏の秘書をしております。ジュール様のことは幼いころより存じ上げています。ジュール様は、いずれグループを背負って立つ方ですから」
もう總子は後藤を見ていなかった。話も、ほとんど聞いていなかった。誰より大切に思い、身近に感じて体も任せて不思議に思わなかったジュールが、遠い、遠い存在だと知らされて、眩暈がした。
「貴方を信頼してお話します。使用人から貴方の存在について報告を受けました。ジュール様は未成年なので心配された小田切氏が私に貴方の身元調査を依頼されました」
心拍数が上がる。顔が紅潮していくのが分かる。思ってもみなかったジュールの「父」の存在に押しつぶされそうだ。
「牧さんは信頼に値する方と、私は思います。ただ…父上の小田切氏のご希望は」
もう聞いていられず、後藤に断って立ち去ろうと立ち上がった總子は、本当に貧血を起こしてその場に倒れてしまった。
さすがの後藤もこれには慌てて、店員に救急車の手配を指示した。隣に膝をついて崩れ落ちた總子を抱き上げる。
真っ青な顔色で冷や汗をびっしりかいた總子を見つつ、
(ジュールさんにバレると…厄介だな)
しかしまずは小田切へ報告だ。救急車に總子を乗せ、自分も同乗する。病院へ着いたら電話をしようと決めた。