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束の間の隠遁

作者: 海上 弓張

所々、物騒ですが話中は特に何事もありません。

設定等、急拵えなので、何か抜けてるかもしれませんが深く考えずにお読みください。

 平介は山道を走っていた。でこぼこで一人がやっとの細い道だが、遊び場と家の行き来には便利な近道である。とはいえ、もうすぐ日が暮れるし、おまけに雨まで降ってきた。そうなると山道はたいへん薄暗くて気味が悪い。

 平介はちょっぴり後悔した。もっと早く帰るんだったなあ…。 平介には二つ上の兄と、二つ下の双子の弟たちがいて、いつもなら弟たちに合わせて暗くならないうちに帰るのに、今日に限って一人で遊んでいたのだ。

 と、その時。視界のうちに見慣れぬものが落ちていた。確かに昨日はなかったはずの、何か小さくて、黒いもの。明らかに自然の一部ではない、林に在らざるべき金属の塊だ。

 それは山側の斜面、木の根元で、濡れて夕日を鈍く反射している。平介は立ち止まった…何だろう。

 根元に近づいた平介はあっ!と声を上げた。それは小型の銃――テレビで見たような――だったのだ。この国でも銃刀法が弛んではや十年、しかし銃など簡単には出回らない。護身用としては高威力かつ高額なためだ。

 思わずうしろに下がると、足に何かが当たった。

 …丸太?……いや、人の足だ! 平介は今度こそ飛び上がった。…人が倒れている!肝の冷えた平介は目を凝らした。

 そいつはうつ伏せに倒れていた。落葉に埋もれ、こうして寄るまで気付かないほどには自然に隠されて。平介がけっつまずいた拍子に落葉の毛布が滑り落ち、(あらわ)になったのだ。この銃の持ち主、だろうか。黒い男物のコートの裾から出た真っ白い手が、銃のある方向に向けられたまま、動かない。

 平介にはその人間が生きているとは思えなかった。暗くて分かりにくいが…気付いた。あたりの落葉がどす黒く染まっていることに。そして胃に酸っぱいものが込み上げかけた時、ピクリ、と動いた。死体の指が。うわっ!と平介は叫んで、慌ててまろびつ山を下り、家にいた父を呼んだのだった。


 血相を変えて帰ってきた息子に驚いた台助は、すぐに雨合羽をかぶり、山に登った。父の手伝いをしていた兄の平太も二人についていった。叩き付ける雨の中、三人で落葉をよけると、黒いコートの意外にも小柄な体が出てきた。

 台助が息を確かめると叫んだ。

「こいつぁ、確かにまだ生きとる!早う家まで運んでやらねば」

「うおっ重たい!」

 そいつを二人がかりで担ぎ上げた時、平介はまた驚いた。うつ伏せで黒髪にかくれて見えなかった顔が、よく見ると相当若い。何となくおっさんを予想していたが彼は十代半ばの少年、自分より年上とはいえまだ子供だったのだ。そして、その顔は青白く、まるで生気がなかった。

 台助と平太が少年を担ぎ、その後を平介が銃を、こわごわ持って帰った。少年はすぐに奥の部屋で寝かされて、村にたった一人しかいない医者が呼ばれた。そして少年を診るなり、なじみのその医者は厄介そうに顔をしかめた。

「なんじゃあ、こいつは。あちこちケガだらけだ。いったい何者だね」

 一家もまたぎょっとしていた。明りの下でよく見ると、黒いはずのコートはまだらで、所々血がついていた。

「足を滑らせて落ちたようだが、それだけじゃねぇだろうな」

 と医者が唸る。 

 少年のシャツは(おびただ)しい血で濡れ、左腕には深い切傷があった。

「こりゃぁ、刃物で切ったケガだな。そうだな…これならしっかり縫い合わせれば治るだろうが。あとは打ち身と……だいぶ体が弱っとるが、まあ大丈夫だろう」

 そんで、どうするよ。と問うような視線を医者は向ける。台助はしばし沈黙した。回復すると分かって安堵したのも束の間、この患者をどうするのか悩む。この少年はあまりにも得体が知れないのだ。ここに置いて大丈夫だろうか。すると、平介が言った。

「父さん、この人、元気になるまでうちで看てあげようよ。先生の家だって近いから、すぐ来てもらえるし」

 台助は息子の真剣な顔を見てううむ、と唸った。単純に看病だけで済む問題ではない。帰り際になじみの医者は台助にそっと告げた。

「面倒見るのはええが、気ィ付けた方がええ。あの量の血は、あの子のものだけではなかろうよ。…まあ、弱っとるうちは、何も悪さはできんだろうが」 


 ともあれ暫くは動かせない。案の定、その晩少年は熱を出した。適当に止血しただけで山中を歩いたのだろう、細菌が入って化膿しかけていたが、傷口自体は綺麗だった。よほど切れ味の良い刃物だったらしい。

側に落ちていた小銃は少年の物に違いなかろうが、それにしても随分と使い込まれた代物らしい、と台助はみた。薬莢も懐から出てきた。

 最近は物騒で、ナイフなどの武器を携帯する者もいる。現に、台助は猟銃を持っていたし、狩りなどに使ってもいた。このご時世殺傷沙汰とて珍しくない…。

 しかし子供。息子と同年代の少年が銃を持っていることにはぞっとする。それも護身用とも思えない装備。むしろ攻撃する側のもの。そしてそれを強調するような証拠を見つけてしまった。彼は、全身そこかしこに武器を仕込んでいたのだ。剥いだコートとブーツ、それにシャツの下からも大量のナイフやら細針やら。夫婦はさすがに戦いた。こうなるともう、真っ当な町人とは到底思えない。

 そしてやはり決定的なのはあの血とケガ……それから、町から隔たれた山中で倒れていたこと。この少年が何者なのか。只の迷子でないことは確かだが、身元の分かる持物は何もない――恐らくは裏の人間。どうにもきな臭い。

 実は、山あいに存在するこの村自体、半ば隠れ里のようなもので"真っ当な"とは言い難い。住人こそ身元の怪しい者ばかり。この地の祖はかつての落武者や脱走兵とその子孫であり、今でも時折町にいられなくなった者の駆け込み場所として機能している。中には少年のように完全な裏の者も紛れている。下手につつくよりは、とこの火薬村、お上から暗黙のうちに見逃されてはいるものの、だからこそこれ以上火種は欲しくないのだ。ゆえにこの少年に関わるのが危険であることは分かる。

 しかし。

 息子とそう変わりない齢の子供を、見捨てる選択はしたくなかった。




 ふ…と闇底から意識が引き上げられる。とたんに、音と、光の洪水が押し寄せてきた。まぶたの外が眩しい。――人声がする。足音が…バタバタと走り回る子供の声、叫んでいる――。

 目を薄く開けると、天井が見えた。天井を、紙くずやら、ペンやらが飛びかっている。布団の両脇で、双子なのか顔のそっくりな幼児が二人、わめきながら物を投げあっていた。

 ――ケンカしてんのか……

 ケンは、鈍い頭でぼんやりと考えながら、体を起こそうとし、力が入らないことに気付いた。体が石のように重い。そして唐突に、思い出したかのようにずきりと腕が痛む。急に自覚した痛みが、ふわふわ漂っていた意識を叩き起こした。

「………!」

 がばっと跳ね起きた瞬間、顔面にまくらが飛んできた。思わず反射的にかわし、…たところで襖がガラッと引き開けられた。

「おめェらッ、ケガ人がおる部屋で、何騒いどんじゃ!!」

 初老の男が部屋の戸口で仁王立ちしていた。双子はとたんに停止すると、あ!とケンを指差して、

「起きてる!」「起きてるー!」

 男もケンが起きていることに気が付いた。

「おお!気ィ付いたんか。…おーい母さん、水を持ってきてくれ!」女性が慌ててお盆を持ってくる。「生き返ったぁ!生き返った!」と子供が騒ぐ。

 おめぇら出とけ!と男が子供を部屋からほうり出し、ふすまをピシャリとしめてようやく、静かになった。布団の脇にどっしりと腰を下ろした彼が、やれやれとばかりに首を振った。

「騒がしい子らですまんな」

 その言葉にはたとケンは我に返った。寝起き早々の騒ぎに、思いかけず面食らっていたのだ。

 そういえばここはどこか…。

 小さな、民家の一室のようだった。たたみに布団を敷いて、そこにケンは寝かされていたのだった。家主であろう男性と、その妻らしき女性は共によく焼けた肌の頑丈そうな体躯。さっと見た限りでは普通の農家のようだ。


「あの、ここは…」と言いかけたとたん、顔をしかめた。急に飛び起きたせいかひどい眩暈がする。

「おい、まだ体起こしとるのは辛いだろ。無理せんで寝とれ」

「いえ、大丈夫です。それより…」

 男性が息を吐きながら言った。「ここはわしらぁの家だよ。わしは台助だ。こっちは妻の末子」

「…おめぇは、村の裏の山で倒れとったんだ」

 台助の、やや顰められた眉は内心の困惑を表しているようだ。

「うちの次男坊が見つけて、呼ばれて行ってみりゃ驚いたわいな。初めは仏さんか思ったが…。血だらけだったからな、こりゃあとんでもない厄介事だと」

「……」はっとして体が無意識のうちに強張った。

「慌てなさんな」台助がじろりとケンを見据える。

「おめぇを今更どっかに突き出そうなどとは考えとらん」

 台助はケンを眼で制するように睨んだまま、木箱を差し出した。中には黒い銃が鎮座している。

「これ、おめぇのだろ」

 僅か身じろぐケン。しかしすぐに全身の力を抜いて、頷いた。

「拾ってくれたんですね…ありがとうございます」

 そしてしばし逡巡したのち、布団の上で深く頭を下げた。

「……助けていただいたこと、深く感謝いたします。本当に、ありがとうございました。……しかし、なぜ自分を」

明らかに厄介事だとわかった上で。

「この村で倒れてたやつを、見殺しにするわけにはいかんだろうよ。それに、わしらにも(・・)事情があってな。この村にゃ借金取りやら税やらで苦しんで逃げてきた者が、ひっそり集まって暮らしとんだ。いくら怪しい人物だからって憲兵なんぞ、自分から呼ぶこたぁねぇ。ましてや町まで連れてくのもごめんだ。こういうのはさっさと治してこっそり出ていってもらうに限る。

 そんで、村の衆にも相談して助けることにした。医者によれば、出血のわりには傷はたいしたことねえ、と言うんでな」

ケンはしばし瞠目した。親切への感謝と驚きが、申し訳のなさに拍車をかけた。

「……では、オレは早くここを出ていかねばなりませんね。貴方がたが望まぬものを招いてしまう」

 予想通り、台助は苦いものを喰ったような顔をした。

「やはりおめぇは追われてるんだな……いや、事情は聞かん。わしらは何も知らない、ということにしておく」

 隣で妻の末子が、夫を、そしてケンを微苦笑で見ているのだが、そこには幾分の哀しみが見てとれる。その視線に罪悪感を抱きながら、ケンは呟くように答えた。

「そうです、貴方がたは何も知らない…そのほうがいい…。巻き込みたくありませんから」

「…………」

 ふと、ぎょっとしたように目を見開いた。

「…オレはどのくらい眠っていましたか?」


「おめぇを拾ってきてから今日で2日目だ」

「…そんなに!ならなおさら早く行かないと!」

 驚愕と焦燥とが、蒼白い顔をぱっと横切る。それを台助が抑え込むような声音ではっきりと言った。

「熱が出とったんだ、しかたあるまい。それに熱はまだ下がりきっとらんぞ。……とにかくだ。いいか、今すぐ出ていこうなんて無茶な気を起こすんじゃねぇぞ。その辺でまた倒れるにきまっとる。そんなことになってみろ、助けた意味がなくなるだろうが」

「………」

 台助にまたも睨まれて、ケンは押し黙ってしまった。

 その時、柔らかに、末子が口を開いた。

「そうね、せめて、傷がもう少し癒えるまでここに居なさい」

「末子…」

「この人の言う通り。私たちに面倒を描けたくないっていうなら、なおさら、早く治して元気になってから出ていってちょうだい」

「…しかしそこまでお世話になるわけには」

「いいこと?」

 ケンはピタリと口をつぐんだ。

「私たちが勝手にあなたを助けたんだから、良いのよ。

 今はそれより寝てなさいな」末子が微笑んだ。

 ケンにとっては馴染みのない、暖かみのある微笑だった。



 少年が眠っている間、好奇心満々の兄弟はそっとその寝顔を眺めていた。初めは蒼白で死人のようで不気味だった少年。更に、熱が出てからも、時折朦朧としつつも意識が戻った際の瞳はなぜだかとても冷たくて、無機質に何処かを睨んでいた。好奇心が先をいく兄弟でも彼は少し怖かった。


 兄弟が待ち構えるなか目を覚ました少年。両親との話が終わるまで摘まみ出されてしまった兄弟は、恐る恐る、部屋に近づく。

警戒心を分かりやすく顔にのせながらも子供たちが襖の隙間から覗いているのを見付けるや。少年は彼らに手招きした。

「君たちに助けてもらったんだね。ありがとう」と浮かべた笑顔は拍子抜けするほど穏やかであった。


 眠っている間、どこか恐ろしかった少年は、意外なことに優しいやつだった。それに物知りで、村の外のことをせがまれるままに話してくれる。その話がまた、上手くて面白いのだ。ただし彼自身についてははぐらかされた…。そんな不思議な少年を、平太・平介・双子の四人兄弟は気に入った。悪戯を仕掛けてくるやんちゃな双子の扱いも上手い。双子たちなど、血みどろのケガ人が担ぎ込まれた当初は怯えて泣いていたくせに、けろりとしてケンに懐いてしまったほどだ。ケンはするりと兄弟の輪の中に溶け込んだわけである。彼は礼儀正しく、いたって賢明な少年だったが、その順能力も夫婦にとっては、逆に彼の得体の知れなさを際立たせてもいた。


 また、ケンはもともと丈夫なのか、回復は早かった。驚くべきことに三日目にはもう熱も引き、包帯をしつつも歩き回れるようになった。さらに四日目からは家事手伝いを申し出、片腕で器用に庭掃除やら畑仕事を手伝っていた。


 変化が訪れたのは六日目のことである。平介はその日夕方、ケンに頼まれていた新聞を持って行ってやった。「外の状況が知りたい」と言うのだ。

 すると突然。新聞の一面を見るなり、彼は顔色を変えて立ち上がったのだ。そのころには血色も少し戻っていたのが真っ蒼になり、平介が驚いているうちに、何も言わず部屋を出て行く。慌てて追いかけると、「ちょっと出かけてきます」と言うや、まだふらつく体で出て行ってしまった。

 平介が心配していれば、ケンは一時間後にふらりと帰ってきた。そしてそのまま、押し黙ってしまった。それからというもの様子がおかしい。一家の前では普通に振る舞うのだが、一人になるや怖いくらい真剣な顔で空を睨む。何ごとか深く思い悩んでいるようだった。こっそり覗く平介にも気付かず、独りの彼は氷のような眼をしていた。


ケンはいつも、齢より大人びて見えた。父の台助にそのことを言った所、「きっと、大変な経験をしてきたんだろうよ」となぜか少し悲しそうに言った。

 兄の平太は平介より二つ年上だが、父の言った意味が分かったらしく、複雑そうな表情をした。平太は、ケンはいいやつだが、かげがある、と感じていた。その原因はきっとケンが自分たち家族には言えない何かを抱えているせいだろう、と思う。父は何か気づいているようだった。


 その晩平介と平太が部屋を訪れると、ケンは銃をバラして、ひとつひとつ磨いていた。

「何でバラバラにするの」と平介が聞くと、「整備をしているんだ。こうやって綺麗にしておかないと、いざって時に使えなくなるんだよ」と答えた。

「ほんとはもっと早くしなくちゃ、いけなかったんだけどな。こういうのは濡らしたらすぐやらなきゃならない。でも、さぼってたんだ…」と、苦笑いした。

 ケンが銃を磨いている間、平太はじっとケンの手元を眺めた。平太は銃が好きで、よく父の猟銃を触っては怒られていたのだ。平太は「すごい…」と呟いた。ケンは手際よく分解し、汚れを落としている。素人目にも、銃の扱いにとても詳しく、慣れているのだと分かる。ふと、平太はケンに聞いてみようと思った。

「ケンはそれを撃ったこと、あるの?」ケンは頷いた。

「たくさん?」平太はさらに小さく尋ねた。「……人 も?」

 ケンの手が止まった。そしてしばらく平太を探るように見た。何時もより鋭い黒の瞳。時折見せるあの冷たい表情だ。あまりにもじいっと見つめられるので、気圧されて怖くなる。けれど、平太は負けじとケンを見返した。

 すると彼の瞳はふっと揺らいだ。やがて、ケンは細く息を吐きだした。だが続けて出てきた言葉に平太と平介はぎょっとした。


「あるよ、それがオレの仕事さ」

 二人は耳を疑った。―-でも、と平太は思った。これがケンのかげの正体かも。と、頭の隅で納得している自分がいる。

「この世には日の当たらないかげがある。表が明るく平和でも、その分裏は果てなく暗く、残酷なもの」

 その後に続けられたケンの話は、兄弟には到底想像もつかない内容だった。

「オレは捨て子なんだ。小さい時、ある機関に拾われて育てられた。そこではおおぜい同じような仲間がいて、特別な訓練を受ける。それでオレ達は、十歳を越えたやつから、任務を与えられるんだ。…それでその任務ってのが…いわゆる…暗殺。人殺しだよ」

人を殺す…ということがどれほど救いがたい罪であるか、さすがに平介でさえ知っている。

「―-オレだって、組織のこんなやり方正しいとは思わない。でも誰かがするくらいなら、人に押し付けるくらいなら、自分が手を汚したほうがましだと思った。もっとも、もとからオレ達に拒否権はないし失敗も許されないんだけどな。だけどどんな大義名分があろうと、オレはただの人殺しなんだ…人の輪に入ってにこやかに振る舞ってみても、血の匂いが取れないんだよ」


 そのあとこの時を振り返ってみても、ケンが何を思って自分たちにこんな話をしたのかは分からない。

 誰かに漏らすとか、思わなかったのだろうか。

 そんなことしない、と信頼された気もするし、そうでない気もする。ただ、容易に表に晒せない、彼の生き様を、誰かに知っておいて欲しかったのだろうか。

 ケンは、平介と平太に言った。「ありがとう」少し、かげの取れた表情で笑っていた。


 そして次の日、朝食に呼びに行くとケンの姿は消えていた。

 末子が繕っておいた黒いコートも、銃も、危険だからと抽斗に隠していたはずの彼のナイフもすべて、無くなっていた。跡形もなく忽然と、「さようなら」もなく。

 当然、大いに困惑したが…。

 さらにその翌日のことである。近くの町から憲兵が村を訪ねてきたのは。ケンの失踪の意図が分かった瞬間であった。


「一週間前、町長を暗殺した下手人が手傷を負い、この近辺の山に逃げ込んだという目撃情報があった。ついてはこの村に、逃亡犯が潜んでいる疑いがある。この村の実態が隠田集落であることは我々も見逃している事項だが、本件においては容赦できぬ。捜査にご協力願いたい」

 そいつらは黒髪の十五歳の少年を探していて、村中の家を、ずかずかと引っ繰り返して回った。山に近い台助の一家もしつこく聞かれたが、台助はわずかに強張った顔で「知らない」と言い張った。火の粉を恐れてか、はたまた、憲兵なんぞ糞食らえという抵抗からか、他の村人らも、頑として口を割らない。

 ついでに言えば、どこにも、ケンのいた痕跡はさっぱり見つけられなかった。これには憲兵たちも辟易して、舌打ちと共に帰っていった。


 黙って出て行ったケン。何も残さぬように、初めからいなかったように家中の証拠隠滅までしていった。怪しいと知りつつ匿ってくれた家に、害が及ぶのは何としても防ぎたかったのだろう。

 知っていて匿ったとなれば台助たちが罰せられる。だからケンはあえて打ち明けはしなかったのだろうが、当然のごとく台助は、ケンがお尋ね者らしいことは分かっていた。どのみち、知らぬ存ぜぬを突き通すしかなかったのだ。

 父台助が、その後きっぱりと一時匿った少年のことを忘れたふりをしたのも無理はなく、平介たちもあえて口に出さなかった。その方がむしろ、彼の望むところだろうから。


 懐いても弟たちは、幼すぎて忘れてしまうだろう。しかし、平介と平太は心奥深くしまいこんで忘れない。なぜならケンは最後に自分のことを話してをくれたから。

 それは記憶から消えることはない。やがて自分たちが大人になって世を知った時こそ、この話は思い出されるだろう。ケンの言った言葉が正しいかは分からない。しかしケンのような存在がいるのも確かなことで、それを大人たちは良く知っているのである。

 いつか、この村を出て働きに出るとしたら…そのころ彼はまだ生きていて、どこかで会えるだろうか。


 完


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