わたしとあのこ
日曜日だからって朝遅くまで寝たりなんかしない。
いつも八時には起床して、家事をこなして、午後からは録画していたドラマや映画を観る。夕方になったら月曜からの食材を作り置きしたり、晩御飯の準備をする。それがわたしの平均的な休日の過ごし方だ。
つまらないと言われたら、それは正しいんじゃないかと思う。
わたしだって、好きでこんな生活を送っているわけじゃない。そりゃあ、休日だからって一日中遊んでいても、家事や食事の準備が自動的に終えられるならば、もっと楽な生活ができるのだろう。あの子みたいに昼間で寝て、一日中誰かと遊んだりするのかもしれない。いや、ひょっとしたら、何もかも自動化したってわたしは今のようにせこせこと家事をし続けるのかもしれないけど。
もう正午だ。流行りのバンドのニューアルバムを聴きながら、掃除だとか洗濯だとかを済ませてしまった。そろそろ、あの子が帰ってくる時間だ。
決まって昼になったら帰ってくる。
わたしは二人分の昼食を作っていた。別にあの子から頼まれたわけじゃないし、作るべきでもないのだろうけど、なんとなく一人分作るならば二人分を作ってしまうのだ。これがわたしの性分なのだろう。
今日のお昼は麻婆丼とサラダだ。
正午を五分ほど過ぎた頃、あの子は帰ってきた。
鍵をがちゃがちゃと開けて、どたばたドスドスと廊下を歩いて彼女はやってくる。
「ただいま。あれ、今日はもしかしてマーボー豆腐? ラッキー」
挨拶もしないまま、リビングの机に座り込んだ。わたしは「あなたが好きだと思って」と素直な気持ちを伝えてから、その子に触れたい気持ちをぐっと抑えて「じゃあ、食べようか」とできるだけ声のトーンを低くして言った。
今、どんな感情を抱いているか、知られることが嫌だから。
「わーい。詩織の料理は美味しいから好きなんだ」
その子は八重歯を見せて笑う。黒髪の短い髪の毛を耳にかけて、両手を合わせた。
「じゃあ、いただきます」
わたしも同じように手を合わせてから、スプーンを握る。
彼女――七海はがつがつと麻婆丼を口にかきこんだ。口の周りを赤くさせながら、無我夢中でご飯を食べる。わたしもこんなふうに食べられたらな、なんて思わなくもない。だって、あまりに食べるのが遅いから、食べ終わる頃にはご飯が冷めているんだもの。
「昨晩はどこに行っていたの?」
「男のところ」
七海はいつだって素直だ。彼氏が二人いて、セフレやソフレ(わたしはソフレという存在を良く知らないけれど)が三人いる彼女は、毎週別の男の家に泊まる。
「ななみは自由な女だからいーの」といつも言うけれど、そろそろ二十三歳なんだからわきまえてほしいなって、同居人としては思う。
いつか責任を取らなくちゃいけなくなるかもよ。なんて話しても右から左なんだから、どうしようもない。いつかわたしが中絶費用や出産費用を払う日が訪れるかもしれない、と思うと毎日節約して貯金を増やすほかないのだ。
いや、おかしい。まずは七海の男遊びをやめてもらうべきだろう。
「昨晩は誰の家に行っていたの?」
「うーん、佐藤くんのところ。どうしても会いたいってうるさくてさー」
ふうん、とわたしは相槌をうつ。
このふうん、にどんな感情がこもっているか、七海は知らない。知らなくてもいいことだ。
彼女はお椀に口をつけて、がつがつと食べる。
わたしはスプーンで麻婆を口に運ぶ。
たまに、どうしてわたしは七海と一緒に暮らしているのだろうか、と考えるときがある。
こんな性格が違う女の子と一緒にいて、苦しくないわけがないし、しんどくないわけがない。そうに決まっているわけで、職場でも話をすると「旦那じゃないのに家事をさせられてかわいそう」だの「女友達と一緒に暮らしていたら婚期逃すよー」なんておせっかいをよく焼かれる。
それでも、わたしは七海と一緒に暮らすことをやめない。
絶対に追い出した方が合理的だってこともわかっている。
絶対に七海なんて存在がいないほうがわたしの将来や、これからの幸福につながることだって自覚している。なのに。
「ななみも料理できるようにならなくちゃなー」
「目玉焼きもろくに作れないのに?」
ななみはがつがつと食べる手を止めて、頬を膨らませた。
「失礼なことを言うなあ。あれはたまたま失敗しただけじゃんか! ななみだって、本気を出したら詩織の作る料理みたいなの作れるんだから!」
「そもそも、七海はレシピを見て作らないから上手く作れないんだよ。もっとちゃんとレシピを凝視してちゃんと作れば、わたしが作るような美味しい料理だって作れるはずだよ」
「自分で自分の料理を美味しいって言う?」
「そりゃ、美味しいんだから。事実でしょ?」
わたしと七海はけらけらと笑う。
七海は既に麻婆丼を食べ終えてしまって、ふーと一息つきながらフローリングに横になってしまった。
「食べてすぐに寝転がったら牛になるよ」
「よくいうよ。ななみはいくら食べても不摂生しても太らない体質なの!」
わたしは半分以上残った麻婆丼にスプーンをつける。
七海の体質が心底羨ましい。いくら食べても腕はすぐに折れてしまいそうなほど細くって、身体は抱きしめただけで壊れてしまうじゃないかってくらい脆そうな見た目をしているから。
わたしとは違う。こんなにゆっくり食べているのに、華奢じゃないし、中肉中背だ。一度くらい、抱きしめただけで折れてしまいそうな体になりたかったなあ。
そうはいっても、七海のことを抱きしめた事なんて一度もないけれど。
七海は横になったまま、すやすやと寝息をたてはじめた。
いつも七海は日曜日には男とデートに行くんだけれど、今日は珍しく予定が入っていないらしい。じゃなきゃ、フローリングで15時まで寝たりしない。いつもなら「二時からデートだから一時には起こして!」などと言って寝るような子だし。
わたしは彼女が寝ている間に、録画していたドラマを見ていた。
毎クールほとんどのドラマを見ているくらい、ドラマが好きだ。七海には「何が面白いの?」と不思議がられるし、わたし自身、どうしてアニメでも映画でも小説でも漫画でもなくドラマなのだろう、と思わなくもないけれど、何故だか好きなのだ。つけっぱなしにしてぼんやりと見ていられる媒体は素晴らしい。
「またドラマ見ているの?」
つい、びっくりして肩が跳ねてしまった。横になったままの七海がようやく目覚めたようだ。
「よっこらしょ」と言いながら、彼女は上半身を起こす。
「なんだっけこれ、人気なドラマだよねー。ななみでも知ってるよ」
「そう。今一番視聴率がいいんだよ。最近は恋愛ものが人気になることが珍しいんだけどね」
「ななみはよくわからないなー」
テレビを見ていた目線を移して、彼女の顔を一瞥した。大きすぎる目はぱちぱちと瞬きを続けている。ふああ、と伸びをして胡坐をかいた。
「ねー、ドラマばっかり見てないでお菓子でも作ってよ」
「あと二十分で終わるから、それまで待ってよ」
「うー、わかったよ」
じゃあ、シャワー浴びとくねー、と七海はそそくさとリビングからいなくなってしまった。
テレビの中の男女は想いを伝えられなくて、ぎくしゃくしている。それを友達に励ましてもらったり、職場の上司にアドバイスしてもらったりして、不器用ながら前進していく。よくあるラブコメだ。
ふつうは多分、そんなラブコメを自分に置き換えて視聴するんだろうな、と思う。
けれど、わたしはテレビの中のヒロインに感情移入することができない。相談できる相手がいるだけいいじゃないか、相手が異性なだけで幸せじゃないか、結ばれそうな相手なのに、どうしてくよくよと悩んでいるのだろう。
いつもは全く意識していなかった感情が、ときどきふとこみあげてくる。ドラマ自体が嫌いなわけじゃないから見続けているけれど、毎話終わるごとに「次は観なくていいかな」と思う。
ドラマになるような恋愛なんて、キラキラしていて楽しくて誰もが共感できるようなふつうのストーリーなのだ。わたしの恋愛は、今も、これから先もドラマになることはないのだろうな。
いつまでもあの子との生活が日常として続いていけばいい。
ドラマを途中で切って、わたしはあの子のためにシフォンケーキを作ることにした。
七海は甘いものが好きだから、わたしは頻繁にお菓子を作るのだ。シフォンケーキにパウンドケーキ、プリンにドーナツ。どれも喜んで食べてくれる。
お菓子を作って食べてもらうことが好きだ。特に七海は天使のような笑みを浮かべて、美味しそうに食べてくれるから。
好きな子相手じゃなきゃ、休日にわざわざお菓子だなんて作ろうと思わないよ。
わたしはボウルに卵白と卵黄を分けて、卵黄の入ったボウルにふるった薄力粉だとかバターや牛乳を入れて混ぜる。甘ったるい香りが鼻をくすぐった。
「ねーえ、何作ってるの?」
ふわんとフローラルなにおいが香った、これは七海のシャンプーの匂いだ。わたしと同じシャンプーを使っているのに、七海はわたしとは違う甘いにおいがするような気がする。あくまで気がするだけだけど。
わたしは「何だと思う?」とつまらない質問をする。
七海はキッチンに立っているわたしの肩に顎を乗せて、「なんだろー、ななみわかんないなー」と猫なで声で言った。つい、たまらなくなってしまう。いくらずっと一緒に暮らしているといえど、近距離には弱いのだ。
「シフォンケーキを作ってるの。ほら、七海も手伝って」
卵白の入ったボウルを指さして「これをふわふわに泡立ててね」と指示を出すと、七海は顎を肩から離して「はあい」とけだるげに答えた。なんだかんだ、七海は素直だ。
彼女はわたしの隣でハンドミキサーを器用に使いながら、卵白を泡立てる。
ぎゅいいいいん、ぎゅいいいいん、と不細工な音がキッチン中に鳴り響く。
七海は真剣なまなざしで液体から泡に変化していく卵白を見つめている。こんな目で七海に見つめられたら、どんな気持ちになるのだろうか、なんてくだらないことを考えてみるけれど、たぶん、わたしは今みたいに誤魔化したり逃げたりするんだろうな。
ただの日常に真剣さなんていらないのだ。真っ直ぐなまなざしなんて不要なのだ。そんな非日常が発生したら、途端にがらがらと音を立ててこの関係は終わってしまうだろう。それだけは避けたい。
「昨日さ、男の子に同棲しないかって誘われたんだよね」
「佐藤くん?」
もう混ぜなくていい卵黄の手を止めるタイミングを失ってしまった。
今はできるだけ彼女の目を見たくない。
「うん。そうそー。どう思う?」
どう思う? とどうしてわたしに聞くの? と聞きたい気持ちを飲み込んで、
「どうかな。佐藤くんならいいんじゃないかな。しっかりしているし、真面目そうじゃんか」
とそれらしき回答を七海に言う。
けれど、彼女はそれを求めていないらしく、唸りながら首をかしげた。
ぎゅいいいいん、ぎゅいいいいんとうるさいくらいで良かった。部屋が静かだったらと想像すると、ぞっとする。
それくらい、わたしは嘘がへたくそなのだ。
「しっかりしていて、真面目なことがいいことなのかなあ」
「一番大事だと思うよ。もう七海だってそろそろ結婚とか考える歳でしょ?」
「佐藤君と結婚したいわけじゃないからなー」
「じゃあ、何で付き合ってるの?」
あ。言ってしまった。これまで聞かないようにしていた質問だったから、七海の目が座っていることを確認して後悔する。
彼女はもこもこに泡立てた卵白の入ったボウルとハンドミキサーをわたしに渡した。
「これくらいでいいよね?」
ハンドミキサーでメレンゲをすくいあげると角ができる。
「うん。ありがとう」
余熱が終わったオーブンがピーピーと鳴る。むっとした熱気がキッチン中を包み込んでいる。
わたしはメレンゲを卵黄の入ったボウルに入れて、かき混ぜた。
その様子を隣で黙ったままの七海は凝視している。
「やっぱり、詩織は良い女だよ」
ふわふわの白いメレンゲだったものが、薄黄色に混ざっていく。わたしは手を止めないままで、七海の顔を一瞥した。いつもへらへらしている彼女なのに、奇妙なほど大人しい。
良い女だよ、その褒め言葉の意味がわからなくて、わたしも一緒に黙っていた。この沈黙がたまらなく嫌で、早くオーブンにすべてを投げ入れたい気持ちでいっぱいだった。早く、くだらないテレビ番組の録画でも見たい。そうすれば、いつものへらへらした七海に戻ってくれるような気がしたから。
さっくりと卵白と卵黄を混ぜて、キッチンに用意しておいたシフォンケーキの型にゆっくりとふわふわの生地を流し入れる。それをとんとんと軽く打ち付けて、空気を抜くことが上手く焼くコツだ。
「ねえ、詩織はどうして誰とも付き合わないの?」
その言葉に打ち付ける手が滑ってしまいそうになったが、冷静さを保ったまま台にシフォンケーキ型を置いた。
「だって、出会いがないからさ。相手がいなくちゃ付き合うこともできないでしょ?」
「詩織は良い女だから、出会いの場にいけばすぐに彼氏位できるよ」
わたしは黙ったまま、ケーキ型を持ってそれを余熱したオーブンに入れた。三十五分、焼けばできあがり。
キッチンで立ったままの七海は、ひどく傷ついた顔をしてわたしのことを見ている。それを見て見ないふりをして、エプロンを脱ぐ。それが今のわたしにとって正しい行動だと思ったから。
「ほら、あと三十分でシフォンケーキができるよ。生クリームでも泡立てる?」
「ねえ、詩織」
七海はわたしに迫った。そして、上目使いで胸ぐらをつかんだ。大きな目は少しだけ潤んでいて、表情はどこか悲しんでいるように見えた。わけがわからない。どうして七海はこんな顔をしているのだろう。
「ななみのことが邪魔になったら、いつでも追い出していいからね」
一言だけつぶやいて、七海はわたしから離れた。「コンビニでアイスクリーム買ってこようかな。シフォンケーキに添えたら美味しいと思わない?」
にひひ、と歯をむき出しにして、いつもの七海の人懐っこい笑顔を見せた。その表情に安堵した。さっきのらしくない顔を見ると、つい胸がざわついてしまう。
「うん。買ってきてくれたら、嬉しいよ。頼んでもいい?」
「りょーかい。アイスの種類は?」
「七海のセンスで買ってきて」
「その言い方、試されているみたいでいやだなー。詩織は抹茶アイスが好きだから、抹茶とバニラ買ってくるね」
「よくわかってるじゃん」
「同居人なんだから、当然でしょ?」
七海はわたしの頬をぺちぺちと叩いて、「いってきます」と元気に外に飛び出していった。
わたしは七海がいなくなって少しだけ静かになった部屋で、ふう、と一息ついた。
オーブンの中のシフォンケーキはくるくると回りながら、むくむくと膨らみ続けている。