第七十話 木下藤吉郎秀吉
「へっくしょん!」
俺は、大きなくしゃみをした。
津島である。夕方の風が、吹いている。
まったく、シガル衆を倒したあと、風邪を引いてしまったのは失敗だった。疲れがどっと出たのだろうが――ひどい熱で、起き上がることもできなかった。せっかく数日前、大橋さんが「面白いところへ行かないか」と誘ってくれたのに、行けなかったのだ。
でもあの面白いところって、どこだったんだろうな?
そのときだった。
「おーい!」
と、遠くから声が聞こえた。
振り返るまでもない。藤吉郎さんの声だ。
「いよう、弥五郎。風邪はもうええのか?」
「おかげさまで。伊与とカンナとあかりちゃんが、揃って看病してくれましたし」
「さらりと贅沢を言いおる。綺麗どころを3人も従えて、良いご身分じゃのう。このこのっ」
「よ、よしてくださいよ。……それより藤吉郎さん。小六さんから聞きましたよ。足軽組頭になったんですって?」
「おお、そうじゃ。それを直に知らせにきた。万事、汝のおかげじゃ!」
「藤吉郎さんの才智のたまものですよ。シガル衆を倒せたのも、藤吉郎さんが的確な指示をくだし、その上で、あの無明を挑発してくれたおかげです」
「天下の大将軍か。いやはや、つい口から言葉が出てしまったのじゃ。ははは」
「でも嬉しかったですよ。俺のこと、嘘でもなんでも、天下の大商人だといってくれたこと」
「ああ、それは嘘ではないぞ」
藤吉郎さんは、笑顔で言った。
「え」
と俺は問い返す。
「……汝にしか言えんがの。わしは夢ではないと思う。木下藤吉郎は天下の大将軍になり、山田弥五郎は天下の大商人になる。そんな気がする」
「藤吉郎さん」
「いまはまだ、夢のまた夢かもしれんがの」
「…………」
「……いやはや!」
藤吉郎さんは突如、照れ臭そうに、ぱん、と両手を叩いた。
「それにしたって、本当に夢でも見ているようじゃ。運のツキが向いてきた、とはこういうことを言うのかな。みくじを引いても、大吉を一度も引いたことがないこのわしが」
「本当ですか!?」
「マコトじゃ。冗談のような本当の話。それでなくてもこのわしは、これまで自分は運が悪いとずっと思っていた。家は貧しく、顔もまずいし、体格だって平凡以下。このままでは、いつかどこかで野垂れ死にするが関の山。そう思っていたが――しかしわしは存外、運がいいのかもしれん」
「……きっと、そうですよ」
「のう、弥五郎。わしも諱を名乗ろうと思う。大吉よりも秀でることを目指して」
藤吉郎さんは、言った。
「木下藤吉郎秀吉!」
「…………!」
「それがこれからのわしの名前じゃ、よう覚えておいてもらおう。の、弥五郎!」
「……は、はい」
俺は、不思議な感動を覚えた。
秀吉の誕生をいま、俺は目の前で見たのだ。
木下藤吉郎秀吉さん。……戦国一の出世頭。いずれ天下人になる男!
その栄光の物語は、いま始まったばかりだ。織田信長に見い出された藤吉郎さんは、これからいよいよ世に出ていく。出世街道を進み始める。彼の言う天下の大将軍になり始めるのだ。
彼の成功と出世を、俺は心から願う。願いたい。
――だが、俺は知っている。藤吉郎さんの出世。その結果。
ふと、想像する。朝鮮半島に向けて兵を差し向ける秀吉を。
いま、目の前にいる明るく優しく、仲間思いのこの男が、本当にあの未来に向けて突っ走っていくのだろうか?
この世界が、最終的に史実通りに進んでいく世界ならば。
……恐らくは、きっと――
……藤吉郎さんが、狂気の野望に取りつかれる。
そんな日が来るのなら……俺は――そのとき、俺は――
「おう、どうした、弥五郎。妙な顔をしおって」
「あ、いえ。……なんでもありません」
……まだ何十年も先のことだ。それまで自分が生きているかも分からない。
とにかくいま、目の前にある平和と幸福。それをもっと噛みしめよう。
「それじゃあ、わしは那古野に戻る。またな、弥五郎」
「は、はい」
「これからも、よろしくの!」
藤吉郎さんは、去っていった。
太陽が沈みかけ、世界は紅に染まっている。
なぜだろう。俺はふいに、叫び出したくなった。
――そっちへいくな!
――いかないほうが、あなたは幸せかもしれないんだ!
だが、かろうじてこらえた。
「……いまはこれでいいんだ」
いまは必死に、この時代を生きるまでだ。
そのときだった。
「弥五郎!」
「こんなところにおったとね!」
伊与とカンナがやってきた。
ふたりは笑顔を向けてくる。
「病み上がりなんだ。あまり外を出歩くな」
「ごはんを作ったのに、おらんけんどこに行ったかと思うたばい。――はい、これ。藤吉郎さんから貰ったアワとヒエよ。これが最後の分やけんね!」
「……ありがとう」
アワヒエを、口に入れる。
その味は美味とはいえないが、なぜかたまらなく心に沁みた。
これから歴史がどうなるか。それは分からない。しかし、目の前にいる大切なひとを。……誰かに踏みにじられようとしている人を放っておくことなんてできない。
俺はこれからも、この時代で生きていく。辛いこともあるだろうし、青山さんのときのように、自分の手が汚れることもあるだろうけど。それでも、目の前にいる人たちを守るために。自分を幸せにするために。本当の強さを得るために。
その果てに、どんな未来があろうとも。
運命を乗りこえたところにある勝利を、必ず手に入れてみせる。
太陽はすでに落ちていた。戦国時代の夜空を見上げる。
日没を追いかけるかのように、きら星の海が連なっていた。
第一部 黄金立志編 完
ひとまず第1部終了です。2部からは、続いて戦争や道具開発もやりつつ、もっと商人っぽさを出していきたいと思っております。1部の行動目的が基本的に「仇討ち」だったので自然と武器開発や戦いが増えましたが、2部は尾張からも離れて商いをやります。
(2019年12月10日追記)
蜂楽屋カンナをメインヒロインに据えたスピンオフ作品、
「超絶クールな金髪美少女が底辺オタクの俺にだけは『好いとうよ(はぁと)』って博多弁でぐいぐい迫ってくるんだが?」
も現在連載中です。
https://ncode.syosetu.com/n1945fx/
こちらは学園ラブコメの世界です。
ひたすらカンナとラブでコメるだけの小説ですが、どうぞチェックしてみてください!




