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第六十七話 徳川家康と山田弥五郎

 伏見城で過ごすことになった俺、山田弥五郎は、秀吉の近くにいることを、城内の多くの侍たちから奇妙に思われているらしい。


 そりゃそうだ。

 俺が大坂城を出奔したのは、もう10年以上も前のことになる。

 俺の顔を知らない若手も多い。彼らからすれば、謎の老人が天下人の側にいることになる。


 噂が広がるのを防ぐため、俺はひとまず京の都の商人『梅五郎』という名前と肩書きを使うことにした。


「梅五郎じゃと」


 秀吉が、座敷で俺に向かって言った。伏見城の奥座敷は、春の柔らかな陽光が差し込み、畳の香りが心地よいはずだったが、秀吉の顔は疲れきっていた。還暦を過ぎた彼の目は、昔の輝きを失いかけている。


「山田弥五郎、という名前じゃまずいだろう。それで梅五郎だ」


 俺は苦笑した。

 あの頃のことを思い出す。俺と秀吉が今川義元の領土に潜入したとき、俺は梅五郎を名乗っていた。遠い昔の記憶が、胸に蘇る。


「よかろう。知る人ぞ知る名前よな」


 秀吉は久しぶりに、人懐こい笑顔を見せた。あの猿のような、悪戯っぽい笑み。だが、すぐにその顔が曇る。俺たちは、互いに老いぼれた体で、ただ座っているだけだ。俺の足はまだ震え、秀吉の声はかすれている。


 さて、俺はまず、秀吉亡きあとの兵の引き上げについて、すでに動き始めていた。今となっては俺のできることは、せめて朝鮮にいる兵たちを無事に日本に帰してやることくらいだ。


 とにかく秀吉の失策を、少しでもフォローしなければならない。朝鮮出兵の泥沼化は、史実通り、日本軍の疲弊を極限まで高めている。補給は断たれ、兵の士気は地に落ちているらしい。


 俺はカンナに依頼し、博多商人や長崎商人、また隈本城の武士たちと連携をとって船や兵糧を用意し、朝鮮からの兵の引き上げの手配を始めた。カンナは牢から解放されたばかりで、まだやつれた顔をしていたが、商人の血が騒ぐのか、目を輝かせて動いてくれた。


「弥五郎、任しといて。あたしが商人のツテを総動員するわ。兵糧は博多から集めて、すぐに朝鮮へ送るけん」


「頼む、カンナ。……まだ目をきらきらさせて、若々しいな、うらやましいよ」


「嬉しいだけよ。また、あんたと一緒に仕事ができて」


「……俺も嬉しい」


「えへっ」


 カンナの笑顔は、牢暮らしの疲れを感じさせないほど力強い。

 伊与も、武士として俺の護衛をしながら、


「私も手伝う。俊明の体がもつなら、だが」


 と、強い口調で言った。

 あかりは、俺の体調を気遣いながら、湯漬けを作ってくれる。

 彼女たちの存在が、俺の心を支えている。


 秀吉も俺の話を聞いて、自分亡きあとの豊臣氏のために、五大老などの制度を整えはじめた。徳川家康、前田利家。さらに秀吉にとって子供同然に可愛がっていた大名の宇喜多秀家。大大名である毛利輝元と上杉景勝。彼ら五人で、秀吉亡きあとの秀頼を補佐するようにとしたのだが、秀吉は俺にぼやくように言った。


「……だが、こんな策も無意味なのか……」


 座敷の窓から、初夏の風が入ってくる。

 秀吉は畳に座り、茶碗を握る手が震えている。


「天下は徳川のものとなり、秀頼は最後は殺される。どうにもならんのか」


「うむ……」


 俺はため息をついた。

 史実を知る俺だからこそ、辛い。

 秀吉の死後、家康が次第に権力を握り、五大老のバランスは崩れる。


「俺たちがもう少し若ければ、まだ策もあるだろうが……もう、時間がないのさ」


 俺たちにできるのは、見えている豊臣政権の失墜をいかに軟着陸というか不時着というか、せめて日本全体の被害をわずかでも少なくするようにもっていくか、ということくらいだろう。秀吉の死は、史実通りならば、8月頃。残された時間は少ない。


「又左もすぐに死ぬ、というしのう」


「ああ、前田利家は来年には亡くなる。病というか寿命でな」


「惜しいことじゃが……」


 秀吉はすっかり老人の声だ。

 俺も似たようなものだが。


 前田利家は、秀吉の死後、五大老の筆頭として家康を牽制するが、病で倒れる。それが家康の台頭を許すきっかけになる。


「梅五郎、いやさ弥五郎よ。わしが死んだあとに徳川が天下を取るのはよくわかった。佐吉(石田三成)と徳川が戦をすることも。……佐吉も救うことはできぬか?」


「なるべく努力はしたい。死人を可能な限り出したくない。だがどこまでできるか正直わからん」


「佐吉を救えぬなら、せめて秀頼を頼む」


「その話は何度目だ」


 俺はちょっと笑ったが、それだけ秀吉は老いているのだろう。精神的に不安定になり、記憶が曖昧になっている。秀吉は遺言状を何度も修正し、五大老に忠誠を誓わせていた。


「秀頼はどうやって救える? いっそいまのうちに出家でもさせるかのう?」


「殺されるか、あるいは反徳川の連中に担ぎだされるのがオチだろう。足利義昭だって出家していたが還俗したからな。あまり意味がない」


「……将棋の詰みのようじゃな。なにをやっても豊臣は、秀頼は、悲惨なことになるのか」


「そうならんように努力してみる」


 そんなときに、徳川家康が伏見城にやってきた。

 雷が鳴り響き、雨が降りしきる初夏の日である。


 家康は秀吉からの使者にすべてを聞かされていたので、俺がここにいることを驚きはしなかった。広間にいる俺を、家康は静かな目で見つめた。家康の顔は、しわが多く、貫禄がある。昔の短気な若者とは別人だ。


 秀吉は家康に「わし亡きあとは秀頼のことを頼みますぞ」と必死に頼んだ。

 家康は平伏したが、さてその平伏はどこまでが本心やら。秀吉の声は弱々しく、懇願に近かった。


 俺は家康に向かって、言った。


「秀頼様の母親は淀殿です。言うまでもなく信長公の姪御であります。すなわち秀頼様には織田家の血も流れています」


「心得ております」


 家康は、静かに言った。

 家康の声は低く、落ち着いている。


「亡き信長公を弔うためにも、どうか秀頼様をお守りいただくよう」


「無論でございます」


 ……家康はどこまで本心を語っているのか?


 秀吉がそこにいるからいけない。


 俺は、家康と共に秀吉の御前を退出すると、茶室に家康を誘い、二人きりになって話をした。茶室は狭く、雨の音が響く。俺は家康に本心を尋ねた。今後の天下と豊臣はいかがされるおつもりか、と。


 家康は言った。


「秀頼様をお守りし、この家康は殿下の義弟として大老として豊臣を盛り立てていく所存」


「それはまことに本心でございますか」


「無礼なことを言う」


 家康は口調を変えて、怖い目つきになった。

 家康の目は鋭く、俺を射抜くようだ。


「殿下に弓引いた謀反人の山田弥五郎が、なぜいまになって殿下のお側におられるのか。しかも梅五郎など――あのときの偽商人の名前を使いおって」


「お懐かしいでしょう?」


「愚弄するか。……本心といったな、山田。本心というなら、いますぐにこの家康は貴殿を討ち取りたい気分」


「まさか徳川どのがそのような暴挙にはでますまい」


「どうだか。オレは生来短気者」


「しかし同時に、心優しき方でもある。信長公との同盟を堅守された姿勢。金ヶ崎でこの弥五郎をお助けくださった御心。あなたのその優しさで、天下と、そして秀頼さまのお命だけでも守っていただきたい。あなたならばそれができる」


「優しいというより、決断力に欠けていただけよ」


「しかし、いざというときの決断はいつも誤らなかった。徳川様はそういうお方」


「……」


「ご自分に欠けているものがあると自覚しておられるから、常に自分を成長させられたお方でもございます。生来の短気とおっしゃったが、その短気さえ抑えていまでは立派な豊臣の大老、関東の太守。ただの短気者ではそうはいきません」


「ずいぶん持ち上げてくれる。なにが望みだ」


「望みは天下の泰平。これ以上に人が死なぬ世の中にしてほしい。ただそれだけ」


「変わった男だ。……あの太閤殿下の友を長年勤めただけでも変わってはいるが」


 家康は遠い目をして、


「友と、ずっといられるのはうらやましくもある。オレは古き友をずいぶん失った。信長公も、石川与七郎(数正)も。もはやこの世にはいない……」


「そのような世を続けたくないのです。ただそれだけです」


「……まったくだ」


 家康は、天を仰いで、しばし思慮する顔を見せた。

 数分、沈黙。そのあとで、


「太閤亡きあと、世は乱れるであろう。だがオレはもう乱世は御免だ。オレにできるかは分からんが、収束させるべく努力する」


「無論。その上で、どうか秀頼様のお命をお救いくだされば。そして可能な限り、ひとを助けていただければ」


「もとよりそうするつもりだ」


 家康は、笑った。珍しく、穏やかな笑みだ。


「先ほど、太閤の前でもそう言っただろう。オレが本音を隠していると思ったか? なにかあれば秀頼様を殺すとでも?」


「いや……」


「殺すものか。……かつて幼かったオレに、信長公が……織田三郎どのが瓜をくれたことがあった。あの瓜の甘さだけはいまでも覚えている。貴重な真桑瓜だった。三郎どのがオレに優しくしてくれたように、またオレも織田の血を引く秀頼様をお守りしよう」


 真桑瓜。

 そうだ、はるか昔、駿府の松平屋敷で家康はそんな話を俺と秀吉にしてくれた。


 あのとき、秀吉と家康は……


 ――か弱き者には、とてもお優しき方のようで。


 ――なるほど。それは確かに、相変わらずだ。


 視線を交差させて、そんな話をしていたな。

 俺はあのとき、目に見えないなにかを感じていた。

 そのなにかがなんなのか、よく分からないままだったが、いまなら分かる。


 信長公の持つ生来の優しさを、天下に広め、そして天下を泰平に導こうという気持ちを、あのときすでに秀吉と家康は共有していたのだ。言葉には出さずとも、英雄は英雄を知る、まさに俺などが理解もできないような境地の世界で。


 回り道をしたこともあった。

 秀吉と家康が敵同士になったこともあった。

 だが、結局のところ、秀吉と家康は凡人には計り知れない深いところで、きっと、同志だったのだ。はるか昔から……。


「その言葉だけ聞けたのであれば、俺にはもう、なにも言うことはございません」


 俺は、平伏した。


「数々のご無礼、ひらにご容赦願います。どうか天下と秀頼様のお命を、徳川様のもとでお守りそして導いていただけますよう」


「承知した」


 家康は、重々しくうなずいて、室外に目をやった。

 鋭くも、優しいまなざしだった。


「雷が、すんだな」


「雨も、もはや、やみましてございます」




 家康が去ったあと、待っていた伊与と俺は合流した。

 伊与の黒髪は、雨の湿気で少し乱れていたが、彼女の目は鋭い。


「徳川家康は、本当に秀頼様を守るのか?」


「あの男の心の底を知った。守ろうとはしてくださるさ。……しかし、史実通りにいけば、結局は争いになるが――そこはもう少し、俺が努力してみるさ」


 大坂の陣は止められないかもしれない。

 だが、秀頼個人の生命ならば、あるいは――

 そしてそれが、俺にとって最後の働きになるだろう。




 それから、しばらくして。

 秀吉の体調が激変した。

 咳と高熱、下痢、吐血を繰り返し、食事もろくに摂れなくなった、という。


「……藤吉郎……!」


 史実よりも、少し早い。

 まだもうちょっと、持つと思っていたのに。


 そのとき、朝鮮出兵の始末のために大坂城にいた俺だったが、知らせを受けて、伏見城へと戻るために、叫んだ。


「馬、引けっ!」


「俊明、無茶をするな! 輿にしろ。馬に乗ったら、お前まで死ぬぞ!」


 俺についてくる伊与が、吠えついてきたが、しかし俺の足はふらつきながらも止まらなかった。


「死ぬものか。俺はまだ死ねない。だから伊与、ついてきてくれ。……藤吉郎にもう一度会うんだ……!」




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