第六十六話 時代が幾百年離れていようとも
伏見城の本丸は、春の柔らかな陽光に満ちていた。
醍醐の花見から数日が経った頃だ。俺、山田弥五郎は、座敷の畳に腰を下ろし、震える手で茶碗を握っていた。
体はまだ本調子じゃない。
筋肉は萎え、骨は脆くなっている。
だが、それでもここにいる。生きている。
上座に秀吉が座り。
あかりは俺のそばで、静かに湯を注いでくれる。
彼女の存在が、俺の心を支えてくれている。
外から、足音が近づいてきた。
武者の声がする。「こちらへ」と案内しているようだ。
俺の心臓が、少し速く鼓動を打つ。伊与とカンナ。彼女たちが来る。
秀吉の命令で牢から解放され、伏見城に呼び出されたと聞いている。
伊与たちは俺が生きていることを、まだ知らないはずだ。
座敷の障子が開く。まず入ってきたのは、伊与だ。黒髪を結い上げ、武士らしい凛とした姿。だが、顔は少しやつれている。牢暮らしのせいだろう。
続いてカンナ。華やかな着物姿だが、目元に疲れがにじんでいる。ふたりとも、俺の顔を見た瞬間、凍りついた。
「俊明……?」
伊与の声が、かすれる。
彼女はいつも生真面目な女だが、今はただ、目を見開いている。
カンナは、両手で口を覆う。
「弥五郎……? 生きて……生きとったん……?」
俺は、ゆっくり立ち上がろうとするが、足が震えてうまく力が入らない。あかりがそっと支えてくれる。
「来るのが遅くなって、すまなかった」
俺は我ながら弱弱しく言った。
声がかすれている。
伊与が一歩踏み出し、俺の顔をまじまじと見つめる。
彼女の瞳に、涙が一筋、こぼれる。
「俊明……本当に、俊明か……。海に落ちて、行方知れずになったと……。生きていたのか……」
カンナはもう、号泣だ。
肩を震わせ、涙をぼろぼろとこぼしながら、俺に駆け寄る。
「弥五郎! 生きとったあ! あたし、信じとった! でも、もうあかんと思っとったから……うわぁああぁあん!」
彼女は俺の胸に飛び込んでくる。俺はよろけそうになるが、あかりが支えてくれる。カンナの温もりが、懐かしい。力強い抱擁だ。
「あかりが弥五郎を救ってくれたのだな」
伊与は、あかりを見て察したようだ。
あかりは静かに微笑み、
「わたしは……肥後の加藤様に呼ばれて、看病をしただけです、でも……」
と謙遜する。
「また……また、この四人で一緒になれるなんて……わたしはもう、それだけで……」
四人。
俺、伊与、カンナ、あかり。
だが、伊与の目が少し曇る。
「五右衛門と次郎兵衛がいれば、もっとよかった」
その言葉に、俺の胸が痛む。五右衛門は秀吉の命令で釜茹での刑に処された。次郎兵衛は対馬沖で事実上、討ち死にしたという。「アニキ」と呼んでくれた次郎兵衛。女だった五右衛門の軽口。もう、ふたりの声を聞くことはできない。少なくとも今生では。
座敷の隅で、秀吉が無言で座っていた。
俺たちの再会を、ただ見つめている。猿のような顔は老け込み、目は少し濁っている。
史実では、この年、秀吉は病が悪化し、9月18日に死ぬ。
残り数ヶ月だ。俺は未来を知っているからこそ、焦る。
秀吉が、ようやく口を開いた。
「今日は再会を喜べ。話は明日からじゃ」
その声は弱々しい。
立ち上がる足取りがおぼつかない。
側近に支えられ、座敷を去る。
背中が小さく見える。
天下人とは思えなかった。
座敷に残ったのは、俺たち四人――
伊与が、俺の顔をまっすぐ見つめてくる。
「俊明。豊臣秀吉を許すのか? 五右衛門と次郎兵衛を死に追い込んだ男だぞ」
彼女の声は、堅苦しいが、怒りがにじんでいる。
彼女の目が、俺を試すように光る。
俺はため息をつく。
「又左――前田利家と、松下さんに頼まれたんだ。秀頼のことを。秀頼には罪はないから……藤吉郎というより、せめて秀頼の死だけは防げないか、と思ったんだ。それに」
俺は、自分の震える手を眺める。
「俺も、もう恐らく長くないからな。なんというか。……終活、みたいなものだ」
「……シュウカツ?」
「死を前にして、なすべきことをなすまで。そういう気持ちなんだ」
豊臣政権の後始末ができるのは、もう俺くらいしかいないだろうと思っている。秀吉の死まで、数ヶ月。史実通りなら、秀吉は五大老と五奉行に政権を託し、徳川家康が次第に力を握る。俺はそれを、秀頼を生かす方向に少しでも変えたい。
伊与が、眉を寄せる。
「俊明……」
カンナが涙を拭き、
「弥五郎、そんな弱気なこと言わんといてよ。ようやくまた会えたのに……」
とつぶやく。
あかりは静かに、俺の背をさする。
俺は、微笑み、
「俺はもう、十分生きた。未来の人生も、この時代の人生も。伊与たちとも再会できた。それでいい。でも、秀頼はまだ子供だ。あの子の未来を、なんとかしたい」
四人は黙ってうなずく。
座敷に、春の風が吹き込む。
白い花びらが、一枚、舞い落ちた。
翌日、秀吉は俺を伏見城の奥座敷に呼んだ。
二人きりだ。側近さえいない。秀吉は畳に座り、茶をすすっているが、手が震えている。
病状は悪い。史実では、この頃、秀吉は精神的に不安定になり、幻覚さえ見ていたという。
「弥五郎。この後のことじゃが、……家康が秀頼を殺すなら、家康を殺すか」
秀吉の言葉に、俺は息を飲む。
こんな発言が出てくること自体が、秀吉から余裕が失われている証拠だった。
かつての秀吉なら、こんな直球の暴論は吐かない。計算高い男だったのに。
俺はゆっくり首を振る。
「ここで家康を殺してみろ。徳川家は全軍をあげて反豊臣となり、他の大名も巻き込んで――おそらく、日本中を巻き込む大戦となる。……数年前の強い豊臣なら徳川くらい、いかようにもできたが、いま戦となっては、徳川につくものさえでてくるぞ」
秀吉の顔が歪む。
「なに……」
「それくらい、豊臣の天下は危うい。藤吉郎個人の名声だけでギリギリ成立しているようなものだ。民の不満は高まっている。朝鮮出兵の負担、淀川の堤防工事、地震の後始末……すべてが積み重なってる。秀次の一件で、大名たちの心も離れた」
「……言うな」
「自覚はあるのか。おのれが失敗をしたと」
「言うなッ!」
秀吉が、拳を握る。
秀次事件は、政権に亀裂を入れた。
秀次の妻子まで処刑したのは、やりすぎだった。
秀吉は、しかし怒りを抑えたのか。
それとも怒る元気もないのか、すぐにうつむいて、
「では、どうすればよいのだ」
俺はため息をつく。
「家康に秀頼を託すしかない。前にも言ったが、天下はこの後、徳川家のものとなる。……秀頼の天下はもはや諦めろ。だが、たとえ天下を失っても、秀頼個人を生かすことは、努力次第でできるかもしれん」
「天下を……徳川が、か」
「承服しろよ、藤吉郎」
俺は彼を睨む。
未来を知る俺だからこそ、言える。
史実では、家康が江戸幕府を開き、260年の泰平をもたらす。
「俺たちの思いは天下に泰平をもたらすことだった。そうだな? だが秀頼では、それは無理だ。とても天下に泰平をもたらすことはできない。ならば家康に天下を託すしかない。……だが、せめて秀頼個人だけでもなんとか生かす方向にもっていく。できるのはそれだけだ」
秀吉は黙る。
座敷に、重い沈黙が落ちる。
「…………」
「どうだ、藤吉郎。異論は」
秀吉が、ゆっくり顔を上げる。
「ある。おおいにある。わしはやはり、秀頼に天下をやりたい。……だがな、それができないのも分かる。……昔のわしが、いまのわしを責めてくるでな」
「昔の?」
「わしは世襲が大嫌いじゃった。特に無能の世襲は。だから足利義昭は嫌いじゃったし、信長公のお子でさえ、凡愚とあれば容赦ない扱いをした。……そんな昔のわしが……いまのわしを、責めてきおる……」
俺は黙って聞く。
「……なぜ、わしは子供が欲しいと思ってしまったのか。なぜ、わしは子供にあとを継がせたいと思ってしまったのか。後悔しきりよ……」
自業自得だ。
とまで、偉そうに断罪する気にはなれなかった。
人間は生きてある限り、なにかしらの後悔をするものだ。
あのとき、なぜああしてしまったのか。
あのとき、なぜ欲望を我慢できなかったのか、と。
秀吉は、その後悔の量が他人より極めて巨大だったのだ。
そういう運命の人間だったのだ。
秀吉は、我が子がほしいと願い、そして秀頼のためにと思い判断を誤った。
しかしそれは、秀吉が人間である証拠だとも思う。
人間には決して消えない臭みがある。
完全無欠になど誰もなれない。
あの信長公も、ある意味では、判断を誤ったからこそ地上から消え去った。
しかしそれこそが、人間が人間である証拠だ。誤らない人間などいないのだから。
信長公も秀吉も、人間だった。
偉大なる武将であると同時に、血も涙もあり悩み苦しみ弱いところもある、そして間違いだって犯す、ひとりの人間だった。
「済んだことだ。もう、どうしようもない。それよりも、藤吉郎。秀頼を生かすために最後の力を振り絞るべきだ。そのために俺も最善の努力をする。それでだめなら、諦めてくれ」
秀吉が、俺を見る。
「弥五郎。わし亡きあと、秀頼から天下を取ったあと、誠に、ほんとうに、あの徳川家康は、日本を泰平にできるか」
「なぜ、そんなことを聞く」
「そうしてほしいからじゃ」
秀吉は、顔を上げた。
「秀頼のために朝鮮にまで出兵したわしじゃ。何を言っても伝わらんかもしれんが――あの日、大樹村で汝と共に、この日ノ本の乱世を終わらせ、泰平をもたらしたいと願った。その気持ちに嘘はない。そしていまでも、乱世が完全に終わってくれたらよいと、そう願っている」
俺たちは何秒か、見つめ合う。
座敷の外から、風の音が聞こえる。
「信じているさ」
秀吉の目が、わずかに輝く。
「……」
「あの日から、ずっと――」
――共に出世しよう。わしは武士、汝は商人。道は違えど、共に王道を歩もうぞ!!
――はい!
あの日のことを俺は思い出した。
大樹村での約束。信じている。
秀吉の魂の、根幹を。
秀吉は微笑を浮かべ、
「なぜ、汝がこの時代にきたのか分かった気がするわ」
と、言った。
「わしが呼んだのよ」
「なに?」
「童のころに思ったことがあった。すばらしき友に巡り会いたいと。苦楽を共にできる者と人生を共に歩みたいと。じゃから……わしが汝を、きっと、この時代に呼んだ」
俺は、言葉を失う。
未来の俺は、孤独だった。
友人なんていなかった。あの時代には。
「弥五郎、いやさ、山田俊明。汝は未来で友がおったか」
「いや……」
俺は、うつむいて、
「あの時代には、いなかったな」
「わしは汝の親友じゃ。生まれた時代が幾百年離れていようとも」
俺はふいに、涙をこぼしそうになった。
「俺もそう思う」
かすれた声で、俺はいった。
「道を途中で違えようとも、俺たちはまぎれもなく友だった」
「その言葉が、いまのわしにはたまらなく嬉しい。……良き友に出会えた。それ以上に素晴らしい一生などない」
座敷に、静かな時間が流れる。
秀吉の死まで、数ヶ月。
俺は、最後の力を振り絞るつもりだ。
泰平の世を、秀頼の命を、守るために。




