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第六十五話 友情は果てなく

 桜の花びらが、まるで雪のように舞い落ちる。

 醍醐の花見の場は、華やかな喧騒に満ちていた。

 色とりどりの着物に身を包んだ女房衆が酒を酌み交わし、笑い声を響かせる。


 だが、俺、山田弥五郎の心は、そんな浮ついた空気から遠く離れている。白髪だらけの頭、傷だらけの顔、震える足腰。体はもう、昔の俺じゃない。それでも、俺はここに立っている。生きている。


 対馬沖のあの海戦から、どれだけの時が流れただろう。

 あの冷たい海の底で、俺はすべてを失ったと思った。


 伊与の鋭い目、カンナの笑顔、次郎兵衛の叫び、五右衛門の軽口――そして、藤吉郎の、かつての友の笑顔。すべてが波に飲み込まれたはずだった。


 なのに、今。

 俺はその藤吉郎――豊臣秀吉の前に立っている。


「弥五郎! 弥五郎じゃ! やごろおおぉ、おぉ、おおおお……!」


 秀吉の叫びが、桜の木々の間に響き渡る。

 広場の皆が息を呑み、俺を見つめる。俺はただ、震える足で立っているのがやっとだ。

 目の前にいる秀吉は、かつての猿顔の若者じゃない。皺だらけの顔、疲れ切った目。天下人としての威厳はまだあるが、どこか壊れそうな脆さも感じる。


「……藤吉郎」


 と、俺はかろうじて声を絞り出した。


「久しぶりだな」


 すると秀吉の目が潤み、まるで子供のようにはしゃぎはじめた。


「弥五郎! 生きておった! 生きておったんじゃ! どこにおった! これまで何をしておったのだ!」


 その声には、喜びと、どこか切実なものが混じっている。

 俺は一瞬、言葉に詰まった。


 どう答えたらいい?

 あの海から這い上がった後の俺の時間は、空白に近い。

 だが、こうして立っている以上、話さなければならないだろう。


「落ち着け、藤吉郎――」


 と、俺はかすれた声で言う。

 そばに立つあかりが、静かに俺の背に手を添える。

 その温もりが、俺の震える体を少しだけ落ち着かせてくれる。


「話すよ。少し長い話になるが……聞いてくれ」




 対馬沖のあの海戦が起きたとき。

 俺は海に落ち、冷たい水に飲み込まれた。

 二度目の死を覚悟したが、しかし気がつくと、俺は船の上にいた。


「……ここ、は……」


「弥五郎どの、ご無事か」


 加藤清正だ。

 髭面が、俺を見下ろしていた。

 俺は咳き込みながら、かろうじて答えた。


「虎之助……か……」


 声が、ほとんど出ない。

 指もまともに動かせなかった。

 しかし、清正が俺を助けてくれたことだけは分かった。


「……と……のか……」


 藤吉郎のところへ連れていくのか。

 と、言いたかったがそんな力さえ残っていなかった。


 だが。

 清正は、考えたような顔をしてから、


「あなたはひそかに、我が隈本城に連れていく」


「……なぜ……?」


「このまま太閤殿下のところにお連れすれば、弥五郎どのは殺される。それだけはできん」


 清正の目は真剣だった。

 確かに、秀吉の前に行けば俺は殺されるだろう。

 だが、なぜ清正が俺を助けてくれるのか?


 ――虎之助。確かに昔、いっしょに遊んだことはあるが、お前が俺をかくまうほどの義理や友情があったか?


 と、いう意味のことを、俺は3分ほどかけて必死に言った。

 清正は一瞬、遠くを見るような目をして、


「二つ、理由がござる。一つは、佐々内蔵助どのの話でございます」


「内蔵助?」


 俺の胸が締め付けられた。

 佐々成政。あの熱い男は、俺の友だった。

 その成政が、清正とどう繋がる?


「佐々内蔵助どのは、短い間だが肥後国を統治した。そのころ、肥後の兵によくこう言っていたそうです。『山田弥五郎は本当にいいやつだ、あいつだけは常に生かしておきたいものだ』と。何度も、何度も……」


「……内蔵助、が……」


「肥後の兵からその話を聞いていた自分は、弥五郎どのを死なせるわけにはいかんと、そう思った」


「内蔵助が……」


 俺の目が熱くなった。

 死んだ友が、こんな形で俺を救ってくれるなんて。


「……だが、それだけでは、ないだろう?」


 俺を助けた理由は二つある、と清正も先ほど言っていた。


「無論でござる。もう一つは」


 と、清正は続けた。


「弥五郎どのは、それがしの父の恩人でござるゆえ」


「父?」


「そう。……加藤五郎助清忠」


「……あ……」


 俺は思わず声をあげた。

 清正はうなずいた。


「かつて美濃国で起きた長良川の戦い――斎藤道三とその息子の義龍がぶつかったあの戦で、父・清忠は死にかけていた。それを弥五郎どのと若かりし頃の太閤殿下が助けてくださった。神砲衆で働かせてくれたこともあったと、父から聞きました。あのとき父が助けられていなければ、それがしはこの世にいなかった」


 俺は言葉を失った。

 そんな昔のことを……。


 俺自身、ほとんど忘れていた。

 だが、清正の目は本気だった。


「それがしにとって、殿下は主君であり恩人でござる。しかし同様に弥五郎どのも恩人である。佐々内蔵助どのの言葉も、心に響いた。……だから、それがしは命をかけて弥五郎どのを守る。殿下に逆らってでもだ」


 俺はただ、「すまん」とだけつぶやいた。

 それしか言えなかった。


 かつて落雷で亡くなった俺だが。

 二度目の死からは、友が救ってくれたのだ。




 それから加藤家の兵は俺を肥後の隈本城に連れて行ってくれた。

 だが、俺の体はもうボロボロだった。海の冷たさが骨まで染み込み、気力も体力も失っていた。伊与やカンナ、五右衛門、次郎兵衛のことを思っても、どうすることもできなかった。俺はただ、寝台に横たわるだけの毎日だった。


 そんな俺を見た加藤清正は、


「かつて、神砲衆の台所飯を作っていた、もちづきやのあかりという女子ならば、弥五郎どのを助けられるかもしれん」


 そう思い、加藤家の人間に命じて、上方を探し回らせた。

 そして彼らはあかりを見つけだし、


「山田弥五郎どのが危うい。どうか面倒を見てほしい」


 と頼み込んだ。

 それを聞いたあかりは、「見捨ててはおけません」と言って、家族と共に肥後国にやってきた。――このとき、あかりの乗った船が大坂港を出る瞬間を、五右衛門が目撃していたのだが、当然、そのことは誰一人、知る由もない――


 いまでも覚えている。

 精魂尽き果てて、指もまともに動かせない俺の前に、あかりが来てくれた瞬間を。


「山田さま。お久しぶりでございます」


「……あ……かり……」


「そんな声を出して。……そんな声を――」


 あかりは、涙ぐみながら、


「お待ちください。いま、湯漬けを作ってまいります」


 そしてあかりは、白湯といっしょに、湯漬けを作ってきてくれた。

 ただの白湯だ。ただの湯漬けだ。それなのに――


「この味だ……」


 俺は、湯漬けを口にしながら笑った。

 噛み締めるたびに、米の味が、しみる、しみる……。

 若いころに食べていた味だ。津島のもちづきやで食べていた、あの味だ。


「やっぱり……。……あかりちゃんの飯が、一番うまいや……」


「まあ、嬉しいことを。……もっと、もっと召し上がってくださいね。……こう呼んであげましょうか? ……お兄さん!」


「……あかりちゃん……」


 あかりの隣に、久助が……。

 滝川一益が。和田さんが。次郎兵衛が。

 若くて元気なみんながいる気がした。


 湯漬けの味が、俺の体を少しずつ蘇らせてくれた。

 あかりは静かに微笑んだ。その笑顔が、俺の心に灯をともした。


 それでも高齢のせいか、俺は数年間、まともに動けなかった。

 リハビリテーション、といっても意味が分からないだろうが、つまり身体をまともに動かすためにずいぶん練習を重ねて、ようやく歩けるようになったのが最近のことだ。


 だから俺はまともに動けなかった。

 唯一できたのは、伏見地震が起きると分かっていたから、秀吉を助けるよう、清正へ頼んだことくらいだった……。




「そうか、あの地震のとき、虎がわしを助けに来たのは、弥五郎の手配だったか。道理で弥五郎の気配を感じたはずじゃ」


 秀吉は目を丸くし、ようやく合点がいった顔をする。

 俺は彼の目を見据えて、


「虎は藤吉郎に逆らった。だが、おかげで地震から藤吉郎を助けもした。不問にしてもらえないか」


「……それは……」


 秀吉は、少し考える顔を見せてから、まったく別の話題を出した。


「そういえば、朝鮮にいる豊臣軍のところに謎の船団が兵糧を置いていったというが、あれも汝がやったことか」


「……船団?」


 俺は首を振る。


「それは知らないな。本当に知らない。そこまでの力も余裕も、いまの俺にはない」


「とぼけるな、弥五郎」


「とぼけてどうなる。そんなことはできないよ」


 俺は苦笑する。

 船団、というのは本当に心当たりがなかった。

 秀吉か、朝鮮の兵がなにか勘違いをしているんだろう。


「俺はあの対馬沖で死んだつもりだった。それがこうやって生き延びて、あかりともまた会えた。そして藤吉郎、お前とも……それだけで、十分だ」


「弥五郎……」


 秀吉の声が震える。

 その瞳は澄んでいた。

 まるで昔の、織田家で一緒に笑い合った頃の藤吉郎が戻ってきたようだ。


「ただ、ひとつだけ悔いがある」


 俺は続ける。


「伊与とカンナだ。藤吉郎、ふたりを解放してくれないか。俺の望みは、もうそれだけだ。俺自身はどうなってもいい。だから」


 そのとき秀吉は目を潤ませ、半べそをかきながら叫んだ。


「解放しよう! 必ず解放してやる! 弥五郎、汝も……解放する。わしはもう汝に、恨みも怒りもないのだ! 虎の行動も不問にしよう! だが、かわりに一つだけ頼みがある」


「なんだ?」


「豊臣を助けてくれい!」


 秀吉の声は、懇願に近い。


「汝の言う通り、出兵は失敗だった。豊臣はもう、このままじゃもたん。秀頼も……このままでは殺されてしまう。知恵を貸してくれ、弥五郎!」


 俺は一瞬、押し黙る。

 五右衛門が死んでいる……。

 秀吉が命令したと聞いている。


 それはやむをえないことだったのだろう。五右衛門は謀反人である俺の一派であり、盗みを働いていたとも聞く。だから処刑はやむを得ない。……と思う反面、やむを得ないで済ませてたまるか、よくも五右衛門を、とも思う。


 理屈では理解できても、感情の処理が大変だった。

 若いころならば爆発していたかもしれない。


「…………」


 伊与とカンナは助けてほしい。

 だが、俺はもう殺してくれて構わない。

 いま、俺はそういう心境だった。


 だが、ここで俺が死ねばあかりの看護や清正の義理がすべて無駄になる。

 だからと言って、生きて――また秀吉に力を貸すというのか?

 それならば俺は、なんのために、ここまで――

 思考が巡る、巡る。


「弥五郎、汝にしか頼めぬ。頼む。……わしはどうなってもいい。だが秀頼が不憫じゃ。あの子はまだ七つの子じゃ。あの子には罪はない! あの子には……!」


 秀吉は涙を流す。


 そのとき、松下嘉兵衛さんが、ゆっくりとした動きでやってきて、


「秀頼さまには、なんの罪もあるまい」


「松下さん」


「せめて、罪なき子を救うために、最後の働きをしてもらえないか。……某には力がない。だが、弥五郎にはあるのだから」


「そうとも。……俺っちも、もう少しだけ、ふんばるつもりだからよ」


 前田利家も、笑みを浮かべた。

 松下さんと、前田利家のふたりにも頼まれて。

 俺は、……罪なき秀頼のために、という気持ちになった。


「わかった」


「おお!」


「……やれるだけ、やってみる」


「そ、そうしてくれるか!? 弥五郎……弥五郎……」


「ここまで来て、何もしないわけにもいかない。最後の働きをさせてもらうよ。……だが藤吉郎、伊与たちは……」


「いますぐ解放する! 伏見城に会うがいい。伊与と! カンナと!」


 秀吉は力強く言う。

 俺は、大きくうなずいた。


「よかった……弥五郎と殿下が、また会えて……また、笑いあえて……」


 松下さんが、顔をくしゃくしゃにして喜ぶ。

 秀吉も、目を細めて、俺の肩を優しく叩き、


「さあ、弥五郎。行こう。話すことが山ほどあるぞ」


 と笑う。

 前田利家も、微笑んだ。


 だが、そのときだった。

 松下さんが、その場にぺたりと座り込んだのだ。


「……松下さん? どうした?」


「……ふたりがまた会えて、嬉しすぎて、眠たくなった。……すまないが、先に行っていてくれ……」


「……ああ……」


「参るぞ、弥五郎」


 秀吉はもう、俺と話がしたくてたまらないらしい。

 俺は松下さんのことを不思議に思ったが、しかし、頭があまり回らず、その場にいた女性に松下さんのことを頼むと、前田利家、それにあかりと共に秀吉のあとを追った。


 ……その日の夜、松下嘉兵衛さんが、その場で亡くなっていたことを聞かされた。

 秀吉主宰の花見で大名が亡くなったとあればあまりにも不吉なため、松下さんは最初から花見に参加していなかったことになり、半月前に亡くなっていたことにされた。その死に顔はひどく、安らかなものだったとされる。


 迂闊だった。

 醍醐の花見に松下さんが来ていなかったという知識を、あの場で俺が思い出して入れば、なんとかなったかもしれないのに。


 と思う反面、寿命だったのだ、とも思いもした。

 桜の花びらを見ながら人生を終えられるのなら、幸せじゃないか。

 いまの俺は、老いたのか、そういう心境にさえなっている。


 松下さん。

 俺と秀吉にとって、奇妙な友人関係だった彼。

 生まれ変わったら、今度こそ、平和な世界で、友達として共に笑い合いたいものだ。




 弥五郎が松下嘉兵衛の死について、悼みつつ、思案していたころ。

 伊与とカンナは牢から出され、籠に乗せられて伏見城へと向かっていた。

 彼女たちはまだ、弥五郎が生きていることを知らない。


「あたしたち、いよいよ殺されるんやろか」


 籠の中から漏れたカンナの声は、いつもの軽口とは裏腹に震えている。


「その割には扱いが丁重だ」


 と、伊与が冷静に答える。


「だが、何が起きるか分からん。心構えだけはしておけ」


 翌朝、伊与とカンナは湯殿の使用を許可されたうえ、伏見城の本丸へと登城するよう、秀吉に命令された。



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