第六十四話 醍醐の花見
1597年8月。
伏見城の広間は、夏の湿気と重い空気に包まれていた。
秀吉は畳に座し、窓の外の灰色の空を見つめていた。
朝鮮出兵の泥沼化、浅間山の噴火、伏見の地震、瓜生島の水没――
天災と戦禍が重なり、秀吉の心は限界に近づいていた。
(弥五郎の言う通りだった。出兵は失敗じゃった……)
秀吉の脳裏に、かつての盟友の声が響く。山田弥五郎が警告した未来――豊臣氏の滅亡、秀頼の悲劇――が、まるで現実のものとして迫ってくる。
(だが出兵せねば、わしは秀頼には会えなかったかもしれん。……そう思えば、すべてを否定はできんのだ。……)
秀吉は天を仰いだ。
わずかに、眠気がおとずれた。
ふと、気配を感じた。誰だと思い振り返ると、
――筑前。
「誰じゃ……」
――わからぬか、筑前。
「……信長公!?」
広間の隅に、織田信長が立っていた。
甲冑をまとい、鋭い目で秀吉を見下ろている。
秀吉は思わず身を震わせ、平伏した。
「の、の、の、信長公! ……なぜ、なぜ現世に……」
――筑前、いや、藤吉郎。そちは天下を統一した。その功績、古今に比類なし。だがそちは、我が子を殺し、また我が子に酷いことをし、いまや天下万民の恨みを受けておる。見るも無惨なことよ。
――侍ほどのものは、秀吉にあやかりたく存ずべし。そう思うてそちを褒めたのは、予の誤りであったわ!
「なん……なんとおっしゃる! わしは、あなたのなしえなかった天下布武を成し遂げたのじゃぞ! それを……! 天下布武をなせぬまま、道半ばで死んだあなた様に、説教されとうはない! 信長公、あなたは甘かった、だから殺されたのだ。あなたは……」
秀吉の声は震え、涙が頬を伝った。
「信長公……あなたは……どうして、天下人になったのに……最後まで、強く優しくあれたのだ……信長公……」
――…………。
「そんな、そんな目で見ないでくだされ。……またわしのことを……猿とか……はげねずみとか言って……からかってくだされや……。……三郎さま……」
――………………。
信長は、なにも言わぬまま静かに消えた。
「……なにか……言ってくだされ……」
「殿下。殿下っ!」
「ン。……んん……」
目が覚めた。
秀吉は、伏見城の広間で、眠っていたらしい。
それも、複数の家臣の前で。
「……すまぬ。……ちと……寝ておった……」
「殿下、お目覚めでよろしゅうござった。……ところで、いま知らせが参りました。前の将軍であらせられる足利義昭様が、大坂にて薨去なされました」
「義昭? 足利……」
秀吉は一瞬、目を閉じ、つぶやいた。
「そうか……」
足利義昭。
かつての将軍であり、秀吉がもっとも嫌った男だ。
だが、信長の夢を見たばかりの秀吉は、過去を思う心境にあった。
「なんといっても前の将軍じゃ。盛大とは言わぬが、丁重に弔え」
「はっ!」
(これで足利は本当に滅びた……)
秀吉の心に、冷たい風が吹いた。
織田家も衰退し、足利家も滅びた。
ならば、豊臣も――
かつて、足利義昭を世襲の凡愚として忌み嫌い、京の都から追放したのは秀吉だった。信長は足利将軍家と和解の道を最後まで模索していたが、秀吉はそんな主の意向を無視して、憤怒のままに義昭を追い払ったのだ。
だとすれば。
秀頼もまた、義昭のように――
あるいは信長の三男、織田信孝のように――
(そんなこと! 左様なことがあってたまるか! まだ死ねぬ。このわしが死ぬはずがない。秀頼の未来を守らねば……!)
冬になった。
朝鮮の冬は、骨まで凍えるような寒さだった。
蔚山城の石垣は霜に覆われ、豊臣軍の兵士たちはぼろ布をまとって震えていた。
文禄の役から続く第二次出兵、慶長の役はすでに一年近く続き、戦況は泥沼化している。明と朝鮮の連合軍は執拗に抵抗し、日本軍は補給不足と疲弊で士気を失いつつあった。
「このいくさは勝てるのか?」
「勝ったところで、朝鮮の土地がいただけるのか?」
ぼろぼろの具足をまとった足軽が、焚き火の前でつぶやく。
隣の兵が、凍えた手を擦りながら吐き捨てる。
「いただいたところで、この有様じゃ朝鮮の民は絶対に俺たちになつかねえよ」
「寒い。ひもじい。……腹が減った……」
「もう日本に帰りたい……なんのために、ここまで戦わねばならん……」
兵の士気は底が抜けたように低かった。
その蔚山城と周囲では、加藤清正が必死に戦を指揮していた。
だが12月、明と朝鮮の連合軍7万が城を包囲し、水飲み場を奪い、補給線を断った。城内は飢餓と混乱に陥り、兵士たちは絶望の淵に立たされた。清正は歯を食いしばり、陣頭で叫ぶ。
「持ちこたえろ! 援軍が来る! 太閤殿下の命だ、死んでもこの城を守れ!」
だが、兵たちの目は虚ろだった。
「援軍? そんなもの来るのかよ……」
「太閤様は、せめて金銀でもくれりゃいいのにな」
「貰えるかよ。どうせ馬鹿息子のおべべのために銭を使ってるに違いねえわ」
「秀頼だっけ? 本当の父親が誰かも分かったもんじゃねえのにな」
「太閤もろとも、死ねばいいのに……」
清正の鼓舞も、もはや兵にはまったく響いていなかった。
そのときである。
豊臣軍全体に、奇妙な報せが届いた。
釜山の港に、謎の船団が現れ、大量の兵糧と医薬品を置いていったというのだ。
米、干魚、塩、傷薬――量は全軍の数日分にすぎなかったが、飢えと病に苦しむ兵士たちにはまさに天からの恵みだった。
「誰がこんなものを送りつけてきたのだ?」
「毒でも入ってるんじゃねえか?」
豊臣軍は疑ったが、検分した結果、どれも本物の食料と薬だった。
船団は「豊臣軍に」とだけ告げ、名も明かさず去ったという。
船は異国の意匠を帯び、帆には見慣れぬ紋様が描かれていたらしい。
「マカオの商人か? それとも南蛮人か……?」
大名たちは首をかしげたが、誰も答えを持たなかった。
そのころ、足利義昭の猶子(相続権のない養子)であった義演が秀吉の前に参上した。
醍醐寺という寺の座主だった義演は、秀吉の庇護を受けていたが、近ごろ暗い顔が多い秀吉を励ましたいと思い、
「花見をいたしましょう。盛大な花見を!」
と秀吉に言った。
秀吉は、眠そうな目で、
「良いのか? 前の将軍も亡くなったばかりだというのに」
秀吉の口からそんな言葉が出ること自体が、すでに彼が老衰している証拠といえた。
義演はにこやかに笑い、
「だからこそ、世相をいっそう明るくするために花見をするのです。来年の春はいかがでしょうか」
「よかろう。賑やかなことをしようではないか。……ああ、でもなあ、しかしな……」
秀吉は弱気な顔で、
「諸大名や民を招くなよ。呼ぶのは……そうさな、女どもと、又左(前田利家)と……松下嘉兵衛くらいにしておけ。いいな」
かつては民を招いて茶会や花見をしていた秀吉である。しかし彼はもはや民と共に遊ぶ余裕さえなくしていた。
1598年3月。
春が訪れ、醍醐の桜は満開だった。
秀吉は正室の北政所や側室の淀殿をはじめとする女房衆。
さらに息子の秀頼、そして親友の前田利家らと共に、盛大な花見の宴を催していた。
だが、かつての賑やかな茶会や花見とは異なり、今回は民を招かず、限られた者だけが集められた。秀吉の心は、民の不満と離反に疲れ果てていた。桜の花びらが舞う中、秀吉は杯に飲めない酒を満たして、力なく笑う。
「皆の者。賑やかにやれ。美しくやれ。どこまでも、どこまでも華やかに……」
そのときだった。
前田利家のところへ女が近づき、ひそひそと話をした。
利家は、瞬時に眉をひそめた。
「いよう、又左。怖い顔をするな。明るくしてくれや、のう……」
「は。……」
前田利家は微笑を浮かべたが、やがて笑顔のまま、秀吉に耳打ちした。
「殿下。……殿下に、どうしてもお会いしたい女性がいるそうです」
「ほ、女か? ならば歓迎じゃ。はっは……女はいい、女はいいのう」
おどける秀吉だったが、そんな彼の前に瞳の美しい老婆だった。
年齢は60歳ほどだろうが、目が澄み切っている。
正しく生きて、正しく老いた。
そう感じる。彼女の人生そのものが容姿に現れていた。
秀吉は彼女の、年齢を超えた美しさに心惹かれたが、それにしても、彼女にはどこか見覚えがあった。誰だ。会ったことがある。そう、昔、確かにわしと彼女は仲良く話を――そう――昔……昔……!
「……あかり、か?」
「お久しゅうございます、殿下」
「そうじゃ! 汝、あかりじゃ。もちづきやのあかりじゃろう!」
秀吉は懐かしさに目を細めた。
弥五郎の仲間であり、かつては自分とも親しく話をしていたあかりが、いま確かにそこにいる!
「な、な、懐かしいのう。生きておったか。よく来てくれた……うん、うん、よくぞ参ったぁ……」
弥五郎の仲間であり、彼から離反したというあかりを目の当たりにして、秀吉はただ懐かしかった。そして、昔の知人が自分に会いに来てくれた、そのことがただ嬉しかった。
「よく来てくれた。遊びに来たのか。又左を通してきたか。うん、よく来てくれた。遊べ。遊んでいってくれや、のう」
「殿下」
あかりは微笑み、静かに言った。
「殿下。お許しを。わたしはどうしても、殿下に紹介したい方がいます」
「なんだ、またか。小分けにしてくるものではない。一度に来たらいいのに。誰じゃ、誰を連れてきおった」
「あちらに」
あかりの視線の先には、ふたりの老人が立っていた。
ひとりは、松下嘉兵衛だった。秀吉の旧主であり、友でもある男。
「これは嘉兵衛どのかい。姿を見ないと思ったら、あんなところに……。ン、さて、もうひとりはどこの誰かな? あれは――」
嘉兵衛の隣にいるのは、がりがりに痩せこけた、白髪頭の男だった。
足腰がぶるぶると震えているのに、秀吉に遠慮しているのか杖さえつかず、脇差さえ帯びていないが、立派な衣服をまとっている。
しわくちゃで、傷まみれになっている顔は、おそろしく複雑そうな表情で、しかし優しさを帯びたまなざしでこちらを見ている。秀吉は、思わず杯を落とした。見間違うはずもなかった。夢にまで見たその男が、いま確かに、ぼろぼろの顔のまま、自分の前に立っているのだ。
「……弥五郎……?」
秀吉の声は震えた。
「弥五郎じゃな?」
「……藤吉郎」
しわがれた声を出して、彼は――
山田弥五郎俊明は、目を細める。
「弥五郎! 弥五郎じゃ、やはり弥五郎じゃ!! 弥五郎! 弥五郎! やごろおおぉ、おぉ、おおおお……!!」
広場に響く秀吉の叫びに、誰もが息を呑んだ。




