第六十二話 失われた夢の終わりに
「明に――マカオに、山田弥五郎はおらぬか?」
「そのような人物は、存じ上げませぬ」
「まことか。隠し立てをするな。隠すと、ためにならんぞ。山田弥五郎じゃ。マカオで商いをしていた商人じゃ。弥五郎の息子や娘や孫も、そこにおるはずじゃが、なにも知らんか。……弥五郎は、どこだ、え、どこにおる――」
「殿下。……殿下! なにを……」
近侍が慌てふためくも、秀吉は止まらない。
「弥五郎はどこなのじゃ。どこにおるのかと聞いておるのじゃ! 分からぬか、このうつけ者が……!!」
秀吉の声は、突然の雷鳴のように広間に響いた。
使節は通訳を通じてその言葉を聞き、困惑の表情を浮かべ、
「そのような人物は、当方の預かり知らぬところ――」
使節は首を振ったが、秀吉の目は猜疑心に燃えていた。
「調べもせずに、適当なことを言うな!」
秀吉は拳を握りしめ、声を荒らげた。
「山田弥五郎はマカオにおるはずじゃ! 息子や娘、孫もそこにおるはず。隠し立てをするな、隠すとためにならんぞ!」
使節はさらに戸惑い、言葉を慎重に選びながら。
通訳を通して、話す。
「殿下、確かにそのような人物は存じませぬ。マカオにそのような名前の商人は……」
「黙れ!」
秀吉の怒声が広間を震わせた。
側近たちは息を呑み、広間の空気は凍りつく。
「明は信用ならぬ。誰もかれも信用ならぬ!」
もはや和睦どころではなかった。
「……殿下はご気分が優れぬご様子……」
秀吉のもっとも近くに控えていた徳川家康は、明らかに秀吉の態度に戸惑いながらも、すぐさまその戸惑いの顔色を打ち消し、明の使節へ、かわりに応対をした。
「話はわたしが、かわりに伺いましょうぞ」
しわの多い家康の顔には、長者の風がある。
明の使節は、家康を相手に話を始めた。
いっぽう秀吉の視線は虚空をさまよっている。
「――というわけでござるが、殿下……」
「……ああ?」
小一時間、家康が、明の使節と必死に和議話を進めていたのだが、秀吉の意識はまったく現世にあらず、
「……なんの話じゃ、内府(家康)」
「――明、朝鮮との和議の件でござる」
「聞いておらなんだ。いま一度、よう話せ」
「は。……それでは。――かような次第で――」
「内府、声が小さい! それではよう聞こえん!」
秀吉が激怒するほどには、家康の声は小さくなかった。秀吉の耳が遠くなっていることは明白だった。家康は「は……」と一度、呼吸をしてから、
「申し訳ござらぬ。……実はかような次第で――」
家康は、粘り強い。
それは彼の若い時代を知る人間から見れば、驚異的なほどの忍耐強さであった。家康は、秀吉との会話を続けた。その場にいたほとんどの人間が、思ったであろう。今後は家康を頼りにするべし、と。
秀吉は、何度も家康の話を聞き返していたが、何度聞いても、
「それで弥五郎は……」
と、山田弥五郎の話に持っていく。
若い近侍などは、露骨に眉をひそめはじめた。
秀吉の眼が――視力まで、どうやら近ごろは衰え始めた――眼球が正常だったならば、その近侍の首はすっとんでいたであろう。
「弥五郎は――どこにおるのだ。――必ずおるのだ。おらんはずがない。内府、この太閤の考えは――考えはのう、変わらんぞ。……明は信用ならぬ。……弥五郎を……そう、明があくまでも弥五郎を隠すのであれば……
このわしが弥五郎を探そう! 明との和睦は、やめじゃ! 再び兵を出す! 明、朝鮮、マカオに豊臣の兵を出して、あの男を、山田弥五郎を探すのじゃ! よいな! よいな、内府、皆の者! 分かったか!
……分かったかと聞いておるのじゃ! 返事はどうした、間抜けどもが!! 分かったかぁ!!」
家康をはじめ、誰もが平伏した。
再び、朝鮮へ兵を出すことが決まった。
まさか。
山田弥五郎を探す、とは公式には言えず。
豊臣政権は、第二次朝鮮出兵の理由として、南蛮勢力へのけん制も兼ねている、世間に向けて答えた。
この年の8月に、土佐の浦戸沖に漂着したスペイン船、サン・フェリペ号の一件があった。あのとき、スペイン人の船長は傲慢にもこう語った。
「スペインは世界最大の強国である。そして我がスペインは、キリスト教の布教を通じて、領土を拡大してきたのだ」
その言葉には、日本を見下すような響きがあった。秀吉はそれを聞き、眉をひそめたていた。
「南蛮はやはり日本に野心を抱いておる。スペインは、キリスト教は、信用ならぬ!」
少なくとも、この部分については徳川家康も前田利家も、秀吉に対して異議を唱えることはなかった。
しかし、家康と利家は、弥五郎を探し求める秀吉の姿を目の当たりにしたあとで、伏見城の一室に集うと、
「殿下は本当に、山田を探すために兵を出す気かい……」
「どうにも、左様のようだ」
揃って、暗い顔をした。
前田利家は、ため息をつき、
「あの太閤が、もはや別人のようだぜ」
「人間は年を取るとああなるのかのう」
「ああなると、もう抑えがきくまいぜ。本物の山田が生き返ってこねえ限りはな」
「山田弥五郎は……本当に死んだのかのう」
「死んだ……と思う」
前田利家は、うつむいて、
「生きているなら、石川五右衛門を見捨てやしねえだろうぜ、あいつが。……堤や蜂楽屋を放ってはおかんだろうぜ」
「それも道理だ。山田弥五郎は優しい男だった。……信長公のように」
「信長公、か。……信長公が生きていたほうが、藤吉郎にとっても幸せだったのかもしれねえな」
「よそう。もはや愚痴になる。かくなる上は、もはや殿下の気が済むまで、兵を出すしかあるまい」
「内府。……そうだな、そうするしかない……」
「耐えることよ。我らも、民も。ただ耐え忍んでいれば、いつか機会も訪れよう。ではな」
家康は、大きな背中を丸めて利家の前を去る。
若いころの、そうまさしく若いころの短気な家康を知っている前田利家は、驚愕していた。人間、変われば変わるものだ。あの家康が、年齢を重ねたとはいえ、ああも忍耐強くなるとは。
「変われば変わるもの、か」
それは秀吉もそうであり、自分もそうだ。
「槍の又左が、情けねえことよ。……」
傾奇者と呼ばれ、どんな男が相手でもかみつき、腹が立てば信長と親しかった小物を斬殺までしていた自分が、いまや老醜をさらけ出している猿顔の男の暴走を、止めることもできない。
「……ごほっ……」
利家は、せきが出た。
「……まったく……」
なにもかも、情けねえことだ。
「内蔵助(佐々成政)がいたら、また冷たい目で見られるんだろうな、オレっちは――」
1596年12月。
秀吉はキリスト教の宣教師と信者たちを長崎で磔にする命令を下した。
スペイン船の傲慢な態度と、キリスト教の布教が日本への野心と結びついているという猜疑心が、秀吉を駆り立てていた。
また、
「朝鮮にまた兵を出すのは、弥五郎を探すためだけではないぞ。南蛮をけん制するためなのじゃ」
と、世間に向けて主張するためでもあった。
「敵は南蛮、敵は明、敵は朝鮮。……ついでに弥五郎も探せい!」
ついで、のほうが大きいことは誰の目にも明らかだった。
そして翌1597年1月、秀吉は14万を超える大軍を朝鮮に送り込んだ。文禄の役に続く、慶長の役の始まりである。
いっぽう、京や大坂の町は治安の悪化に悩まされていた。辻斬りや盗賊が横行し、夜の街路は危険に満ちていた。秀吉は石田三成に命じ、諸大名の家来に5人組、10人組を編成させ、互いに罪を犯さないよう監視させるとともに、自警団として都市部を巡回させた。
「もとはといえば、太閤さまが出兵や工事ばかりされるから、治安も悪くなるし盗人も増えるんや……」
大坂城下の町屋で、商人たちはひそひそと囁き合った。
だが、その声が奉行の耳に入れば厳罰が待っている。
民の不満は、まるで燻る火のように静かに広がっていた。
さらに、秀吉は出兵の費用を賄うため、全国の百姓に、
「麦も年貢として納めよ」
と命じた。
これまで年貢は米に限られ、麦は百姓の取り分だった。
だが、秀吉の命令は常識を覆し、麦まで取り立てるものだった。
「米だけでも厳しいのに、麦まで取られたらどうやって生きていけばいいんだ!」
農村では、百姓たちの怒りが爆発した。
奉行や大名でさえ、この命令に唖然とした。
太閤は、もはや日本の敵ではないか――誰もが思い始めていた。
伏見城の建設は、地震の被害を乗り越え、急速に進められていた。未完成ながらも、石垣と天守の骨組みは、豊臣秀頼の未来を象徴するかのようにそびえ立っている。
「五月には、伏見城の再建が終わる予定じゃ」
秀吉は、笑顔でそう言った。
その費用は、もちろん民百姓や諸大名が出しているのだが――
秀吉はまったく意に介さない。
秀頼と淀殿を連れて伏見に移り、そこで過ごす時間を大切にしていた。
ある夜、秀吉は秀頼を抱きながら、座敷の窓辺に立っていた。幼い秀頼は小さな拳を振り、かすかに笑みを浮かべた。秀吉の皺だらけの顔は柔らかくなり、目には父としての優しさが宿った。
「秀頼、来年は盛大な花見をしようぞ。桜の下で、汝と過ごすのだ」
すると淀殿が、疲れた顔で微笑みながら言った。
「殿下。この時期に盛大な花見などをして、民から反発を招きませんか?」
秀吉は笑い、軽く手を振った。
「なに、兵を護衛につければよい。民のことなど、気にせんでもよい」
その言葉には、かつて民衆を交えた大茶会を開いた秀吉の面影はなかった。
民の心は離れ、秀吉もまた民への愛を失っていた。かつての夢――天下泰平、誰もが豊かになる世界――は、もはや色褪せていた。
それでも伏見城の広間で、秀吉は一人、夜の闇を見つめていた。
朝鮮への再出兵、明との和平交渉の破綻、民の不満、すべてが彼の心を圧迫していた。
だが、最も彼を苦しめたのは、弥五郎の不在だった。
「弥五郎……汝はどこにおる? わしは、わしは間違っておらぬはずじゃ。秀頼の未来を守るため、天下を守るため、戦を続けてきた。なのに、なぜ……なぜ誰もわしの心をわかってくれぬ?」
秀吉の声は、広間の闇に消えていく。
彼の拳は震え、かつての盟友の笑顔が脳裏に浮かんだ。
「弥五郎……戻ってきてくれ。わしには、汝が必要なのだ……」
豊臣軍は再び朝鮮半島に上陸し、釜山から北上を始めた。
だが、戦は泥沼化し、明の援軍と朝鮮の義兵の抵抗により、日本軍は苦戦を強いられた。
民の不満はさらに高まり、秀吉の天下は、かつての輝きを完全に失いつつあった。
大坂城下の町では、夜の路地裏で孤児たちが震え、商人たちは増税に耐えかねて囁き合ったのだ。
「太閤さまの天下も、長くはないかもしれんなあ……」
その声は、風に乗り、秀吉の耳には届かぬまま、夜の闇に溶けていった。




