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第六十一話 弥五郎の影

 1596年1月――


 伏見城の広間は冷たい冬の空気に包まれていた。

 上座の秀吉に跪くのは、朝鮮から呼び戻された加藤清正であった。


 清正は額に汗を滲ませ、頭を深く下げている。

 だが、その瞳には不屈の意志が宿っていた。


「加藤、汝、何を考えておる」


 秀吉の声は低く、鋭い。

 日ごろの親しげな呼び方『虎』はそこにはない。

 清正は一瞬、顔を上げ、力強く答えた。


「殿下。朝鮮の土は、我らが兵の血と汗で勝ち取ったもの。和議を結ぶにしても、朝鮮の南を日ノ本の領土として組み入れるべきかと存じます。出兵以来、決死の覚悟で戦った家臣たちの働きに応えるためにも!」


 その言葉に、広間の空気が凍りついた。

 近侍たちが息を呑む。


 加藤清正は、単純和議に反対していた。

 和睦するにしても、朝鮮の南部を日本領とするべきだ、というのが清正の言い分だった。

 しかしこの意見に、清正と同じく朝鮮で戦っている小西行長が反対。そして行長は秀吉に、清正が和議に反対している、と言ったのだ。そのために清正は日本へと呼び戻されたのだ。


 秀吉は目を細め。

 しばらく沈黙した後、静かに、しかし冷たく言い放った。


「加藤。汝の言い分はわかる。だが、わしはもう明や朝鮮に攻め入る理由はないと申しておる。和議を進めよと命じたはず。それを妨げる気か?」


「殿下、しかし――」


「黙れ!」


 秀吉の声が雷鳴のように響き、清正は言葉を飲み込んだ。

 秀吉は立ち上がり、広間をゆっくりと歩きながら続けた。


「汝の忠義は認めるが、わしの意に逆らうならば、蟄居を命じるほかない」


 清正は唇を噛み、畳に額を擦りつけた。


「ははっ……殿下の仰せのままに」


 秀吉は清正を見下ろし、深いため息をついた。


「伏見にとどまれ。しばらくは謹慎せよ。わしの命を待て」


 清正は一礼し、広間を後にした。その背中には、忠義と苛立ちが交錯しているように見えた。秀吉は窓辺に立ち、曇り空を見上げた。心の中でつぶやく。


(わしは、秀頼が生まれた未来を守るため、戦を続けてきた。だが、秀頼は無事に生まれ、わしの子として育っておる。もはや戦の意味は薄れた。和議だ。それしかない)


 最初から、しなければよかったのだ。

 こんな戦いなど――


 とまでは、秀吉は思わなかった。

 出兵前は、新しい領土や褒美が得られると張り切っていた大名や兵、民も多かった。

 また、出兵はアジア地区に勢力を伸ばしている南蛮に対するけん制の意味もあった。


(なにからなにまで、秀頼のためではないのだよ、弥五郎……)


 と、宙に向かって、かつての友に言葉を向けるも――

 なにかがズレている、という感覚だけはいっこうに消えない秀吉だった。


 その夜も。

 秀吉は、1時間ほど寝るたびに目を覚まし、熟睡できなかった。




 同じ頃、淀川の堤防工事現場では、諸大名の手勢が汗と泥にまみれていた。

 秀吉の命令により、大坂、京都、奈良を結ぶ交通路の確保と水害防止のための大規模な工事が進められていたのだ。


 川岸には石と木材が山積みになり。

 労働者の叫び声と堤防作りの音が響き合う。


「急げ! 太閤殿下の命だ! 日没までにあの石垣を積み上げろ!」


 現場を仕切る奉行の声が響くが、労働者たちの顔には疲労が色濃く浮かんでいた。

 朝鮮出兵の負担に加え、この大工事により、諸大名も民衆も限界に近づいていた。


 大坂城下の町屋では。

 商人たちが、ひそひそと囁き合っていた。


「太閤様はまたでかいことを始めたな。淀川の堤防だなんて、どれだけ銭がかかるんだ?」


「朝鮮の戦で疲れ果ててるのに、これだ。農民は米も食えねえってのに……」


「しっ、声がでかい! 奉行の耳に入ったらどうする!」


 民衆の不満は、まるで淀川の濁流のように静かに、しかし確実に広がっていた。

 秀吉の治世は、かつての輝きを失いつつあった。民の心は離れ、天下人の孤立感は深まるばかりだ。


 その頃、秀吉は伏見城の座敷で、淀川工事の進捗報告を受けていた。

 奉行が地図を広げ、進捗を説明する。


「殿下、淀川の堤防は順調に進んでおります。これにより、大坂と京都の物資輸送は格段に向上し、水害も減るかと」


「うむ、よし! それでよいぞ、よくやった」


 秀吉は力強くうなずいたが、その目はどこか遠くを見ていた。


(これで民は豊かになる。交通が便利になり、水害が減れば、みな喜ぶはずじゃ)


 交通網の整備は、信長の時代以来、権力者の役目であると秀吉は信じていた。

 民衆の不満は、秀吉の


(わしは天下と、未来を守るためにやっておるのだ。……民は、目先の衣食住を求めすぎだ。わしの大志など、国家百年のまつりごとなど、わからぬのだ……)


 秀吉は拳を握りしめた。


「続けよ。堤防は必ず完成させよ。天下のためじゃ!」


 奉行は深々と頭を下げ、退室した。

 秀吉は一人、座敷に残り、窓の外を見た。

 灰色の空が広がり、遠くで鴉が不気味に鳴いている。




 しかし4月、突然の天災が日本を襲った。

 浅間山が猛烈な噴火を起こし、火砕流と降灰が周辺の村々を飲み込んだ。

 死傷者は数百人に及び、田畑は灰に覆われ、飢餓の危機が急速に迫りだしたのだ。


 秀吉は伏見城の広間で、関東・信濃方面の諸大名からの急報を受けていた。使者が息を切らせ、報告する。


「殿下、浅間山の噴火により、村々が壊滅。甚大な被害を受けております。民は食べるものも住む場所も失い、途方に暮れております」


 秀吉は即座に命じた。


「米と衣類を関東に送れ! 徳川に、被災状況を詳しく調べさせよ。民の嘆きを放置してはならん!」


 使者は一礼し、急いで広間を後にした。

 秀吉は立ち上がり、広間の窓から遠くの山々を見やった。

 空は灰色に濁り、まるで天が怒りを示しているかのようだった。


(天が、わしに怒っておるのか? まさか……)


 そのときである。

 蟄居中の加藤清正が広間に現れた。

 清正は深々と頭を下げ、進言する。


「殿下。浅間山の噴火により苦しんでおる民を救うため、ぜひとも私めに役目をお与えください!」


 秀吉は清正を見やり、しばらく黙考した。

 清正の忠義は本物だが、和議を妨げた彼への不信感はまだ消えていない。

 だが、こんなときに人材を遊ばせておくべきではない――秀吉はそう判断し、


「うむ……虎、よかろう。大坂城へ参れ。米蔵の兵糧を、関東へと送る手はずを整えよ」


「ははっ! ありがたく存じます!」


 清正は、すぐに広間を後にした。

 秀吉は彼の背中を見送った。




 しかし、である。


 うるう7月、さらなる悲劇が襲った。

 伏見城を大地震が直撃したのだ。


 ご、ご、ご、ご……

 と――


 マグニチュード7とも推定される激震は、伏見城の天守閣を倒壊させ、さらに京、奈良、大坂、堺など畿内の都市を壊滅状態に追い込んだ。石垣が崩れ、屋敷が倒壊し、街は阿鼻叫喚の様相を呈する。


 伏見城において、秀吉は揺れる地面に耐えながら叫んだ。


「秀頼は無事か! 茶々も無事か! 秀頼は――」


 60歳を超えた身体は、かつての機敏さを失っていた。

 歯ぎしりしながら立ち上がろうとするが、足元がふらつく。

 そのとき、座敷の戸が勢いよく開き、加藤清正が飛び込んできた。


「殿下! ご無事か!」


「おお、虎! 汝、大坂におったはずでは――」


「はっ、それが……なにやら嫌な予感がしまして、殿下のいる伏見へと参っておりました。しかしまさか、こんな大事が起きるとは……」


 清正は秀吉を背負い、崩れかけた座敷から脱出した。

 外に出ると、秀吉は清正に命じた。


「おひでよりと茶々を! 頼む、虎!」


「承知!」


 清正は再び城内に飛び込み、瓦礫の中から淀殿と秀頼を救出した。

 幼い秀頼は清正の腕の中で笑みを浮かべ、その小さな手で清正の髭を撫でた。清正は目を細め、力強く言った。


「このようなさなかでも、笑うとは、さすがは殿下のお子、肝が太い!」


 加藤清正もまた笑い、


「この虎之助、なにがあろうと、生涯、殿下とお拾さまをお守りしますぞ!」


 秀吉は清正の忠義に心を動かされ、そういえば正式には清正の蟄居処分を解いていなかったと気が付くと、さわやかな笑みを浮かべ、


「ようやった、虎! 汝への蟄居は、本日の手柄をもって解く!」


「ありがたく存じます!」


 清正は深々と平伏した。

 秀吉は秀頼を抱き上げ、その小さな顔を見つめながら――

 ふと思う。


(このような地震のことは、弥五郎から聞いておらなんだ。なにからなにまで、未来のことを聞いたわけではないから無理もないが……。しかし虎め。嫌な予感がしたから伏見に来た、だと? 地震が起こるのを先読みしていたようじゃ。まるで弥五郎ではないか――)


 そして数日後。

 片付け中の伏見城へ、使者が新たな報せを携えて駆け込んできた。


「殿下! 府内(大分)にも、大地震が発生いたしました。瓜生島という島が水没したとの報せが!」


「島が……水没? 沈んだのか? 小さな島か?」


 秀吉の声は震えていた。使者が続ける。


「いえ、約1000軒の家が立ち並ぶ賑わった港町でございました。ある者は、沈んだのではなく、島が一瞬にして消えたとまで申します」


「島が消えるものか! ばかめ!」


 秀吉は怒鳴ったが、心の中では別の声が響いていた。


(消えた……? 消えた、だと? それもまるで、海に消えた弥五郎のようだ。ばかな……なにもかも、ばかな……一体、なぜ……)


 秀吉の精神は限界に近づいていた。

 浅間山の噴火、伏見の地震、瓜生島の水没――

 まるで天が自分を罰しているかのようだった。




 続いて8月、土佐の浦戸沖にスペイン船サン・フェリペ号が漂着した。秀吉は広間でその報せを受け、即座に尋ねた。


「外国船じゃと? まさかその船に、山田弥五郎はおらぬじゃろうな?」


 使者は目を丸くし、戸惑いながら答えた。


「は……いえ、山田弥五郎殿は、乗員の中にはおらぬ……と存じますが」


「ようと調べい! 弥五郎がおるかもしれんじゃろうが!」


 秀吉は、心の中で(そんなはずあるまい。弥五郎がスペイン船に乗っておるはずがない)と気付きながらも、叫ばずにはいられなかった。


(弥五郎は生きておる。どこかにおるはずじゃ。スペインでないなら、マカオか、ルソンか……? 必ず、あいつは生きておるのだ……)



 そして――


 9月になった。

 明国の講和使節が大坂城に到着した。

 朝鮮出兵の和議を進めるための重要な会談だ。


 広間において、秀吉と明の使節が対峙する。

 使節がまず丁重に挨拶を述べるが、秀吉は突然、話を遮った。


「待て。和議の前に――聞きたいことがある。明に――マカオに、山田弥五郎はおらぬか?」


 使節は通訳を通じてその言葉を聞き、困惑の表情を浮かべた。

 使節は、首を振った。


「そのような人物は、存じ上げませぬ」


「まことか。隠し立てをするな。隠すと、ためにならんぞ。山田弥五郎じゃ。マカオで商いをしていた商人じゃ。弥五郎の息子や娘や孫も、そこにおるはずじゃが、なにも知らんか。……弥五郎は、どこだ、え、どこにおる――」


「殿下。……殿下! なにを……」


「弥五郎はどこなのじゃ。どこにおるのかと聞いておるのじゃ! 分からぬか、このうつけ者が……!!」


 使節だけではない。

 その場にいた誰もが、戸惑いの顔を浮かべ、秀吉の顔色をうかがった。


 秀吉は――

 動物のような、ぎらぎらとした眼差しで、ただ広間全体を睨みつけるのである――


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