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第六十話 殺生

 五右衛門の死から、少しだけ過去の話になるが――


 広間では、堺の商人・納屋助左衛門が秀吉の前に平伏していた。納屋は、堺の代官、石田正澄いしだまさずみ(石田三成の兄)を通して、秀吉の前に現れた。


 そしてその前には、ルソン(フィリピン)から取り寄せた精巧な壺が置かれている。異国の風情を漂わせるその品に、秀吉の目は一瞬輝いた。


「ほほう、こりゃ見事な壺じゃな! 助左衛門、よう持ってきてくれた!」


 秀吉の声は上機嫌に響き、側近たちがほっと息をつく。

 納屋助左衛門は、顔を上げ、得意げに胸を張った。


「太閤殿下のご慧眼に適う品かと存じます。ルソンの交易路は我が手にあり、さらなる珍品をお届けできまする!」


「うむ、よう申した!」


 その言葉に、秀吉は破顔一笑した。

 だが、その笑顔の裏には、どこか冷めた影もちらついている。


(弥五郎なら、こんな壺を手にしても、天下のための策を口にしたじゃろうに。こやつは、ただの商売人よ……)


 それからしばらくして、五右衛門が死んだころになると。

 納屋助左衛門は、秀吉の好意をいいことに、


『太閤様御用達』と銘打って交易品を国内外に売り歩き、態度を大きくしていった。


 その噂はすぐに秀吉の耳に届き、彼の心を苛立たせた。


「助左衛門め、我が名を利用しておのれの腹のみを肥やすか。弥五郎には遠く及ばぬわ。所詮、銭の匂いしか知らぬものよ……!」


 秀吉は、納屋助左衛門をいずれ処罰することに決めた。


 それにしても――


 秀吉は広間の窓辺に立ち、遠くの山々を眺めた。


 弥五郎がいなくなってから、すべてが少しずつズレていく気がする。かつての盟友の笑顔、共に乱世を終わらせようと誓った若き日の記憶が、胸を締め付ける。


(弥五郎、汝は本当に死んだのか? ……あるいは、マカオにでも逃げておるのではないか? 誰か、探しに行ってくれぬか……)


 だが、その願いを口にできる家臣はもういない。優秀な家来は数多くいるが、秀吉と弥五郎の間にある、細やかな感情の機微を察知できる人間は、もういないのだ。いるとすれば前田利家や黒田官兵衛くらいだが、彼らもすでに大名であり、また年齢も重ねており、マカオに行け、などと気軽に言える人間ではない。


「小六兄ィでも生きておればのう、うまい知恵を出してくれたかもしれんが……」


 懐かしい人物の名をつぶやき、秀吉は目を閉じた。

 だが、


「殿下、殿下!」


 家来の叫び声に、よってすぐに現実に引き戻された。


「何事じゃ、騒々しい」


「蒲生様が、蒲生様が……」


「……なに?」


 蒲生氏郷がもううじさとの死の報せが届いたのだ。




 1595年2月、蒲生氏郷が病没した。

 会津を治め、秀吉の信頼も厚い名将の死は、豊臣政権に大きな波紋を投げかける。

 その死に、秀吉は一瞬、言葉を失った。


(氏郷まで……なぜ、皆、わしを置いて去るのだ……)


 そして、すぐに噂が広がった。

 氏郷の器量を妬んだ秀吉が毒殺したのではないか、と……。

 秀吉は歯ぎしりした。


「誰がそんなことをするものか! 忠三郎(蒲生氏郷)はわしの大事な家臣じゃったのに!」


 だが、民衆の声は冷たく、秀吉の心を刺す。

 他人の気持ちを敏感に察する秀吉だからこそ、その乖離が耐え難かった。

 かつては民の心を掴んでいた自分だったはずなのに。いま秀吉は、孤立している自分を感じていた。


(人心は、かくも離れていくものか……)


 そして氏郷の死後、遺領問題が浮上した。


 氏郷の跡継ぎ、蒲生秀行がもうひでゆきはこのとき、満年齢で換算するとわずか12歳。蒲生家91万石の広大な領地を継ぐには、あまりにも若すぎた。このことから、蒲生家臣団は不和が表面化する。秀吉の苛立ちはさらに募った。


「力なき者の世襲は、腹が立つ!」


 秀吉の声は広間に響き、近侍たちが息を呑む。


(無能が世襲をすれば、誰もが困ることになるのだ!)


 それは秀吉にとって若いころからの信念だった。だからこそ、足利将軍家に対して反発心を抱いた。しかしいまの秀吉の心の奥では、別の声が響くのだ。


 ――秀頼については、どうするつもりだ?


 ――よせ。……言うな……。


 ――子供が欲しいために、親友と激突し、いらぬ戦争を巻き起こしておきながら、世襲を憎むとはおかしいではないか。


 ――よせ! ……よしてくれ……。いや、秀頼は必ずや立派な世継ぎとなる! 有能ならば、良いのだ。信長公も世襲だったが立派な方であった。有能ならば……!


 ――12歳の少年だ。有能かどうか、まだ分からんではないか。


 ――齢12といえば大人のようなものだ! わしはひとりで飯を食っておった! 弥五郎もその年齢で独り立ちしたのだぞ!


 心の中で、激しい自問自答を繰り返した末に――

 秀吉は裁定を下した。


「蒲生秀行は、蒲生氏郷の遺領91万石を継ぐにふさわしくない。近江に転封のうえ、2万石を与えるものなり!」


 しかし、秀吉の決定を聞いた関白・豊臣秀次は異を唱えた。

 秀次は秀吉の前に現れて、力強く進言した。


「殿下。蒲生秀行は内府どの(徳川家康)の三女と婚姻しております。あまりに厳しい処分は、徳川どのの面子を潰すことになりましょう。蒲生秀行はまだ若年、どうか長い目でご覧いただきたく……」


 そして秀次は、朝廷に献金をして、この問題の解決を図ろうとしていた。朝廷に、蒲生家のことを裁定してもらおうとしたのだ。その行動は、関白としての政治的配慮だった。


 だが、秀吉には、それが自分の権威への挑戦としか受け取れなかった。


「孫七郎(秀次)ごときが、このわしに意見をするか! 朝廷まで巻き込み、わしに大恥をかかせおった!」


 秀吉の怒りは爆発したのである。

 伏見城の広間で、諸将を前にして、彼は声を張り上げた。


「徳川に配慮など、左様な弱気でどうするか! 天下は豊臣のものじゃ! 力をもって征した豊臣が、徳川に震えてまつりごとを行えるか! 関白の大馬鹿者めが!」


 その声は、まるで雷鳴のようだった。

 だが、秀吉が家臣団を見渡すと、彼らの目はどこか冷たく、遠いものに感じられる。

 平伏する家臣たちと自分の間に、微かな距離が生じている。秀吉は敏感に感じた。


(なぜ、左様な顔をするか……)


 秀吉の心に、少年時代の苦い記憶がよみがえった。

 清州の町で、猿のような顔の自分を冷笑した町衆。

 織田家の足軽に、生意気だと殴られた記憶。


 人々から冷たい視線を浴びるあの歯がゆい感覚を、還暦近くになってもまだ、忘れ去ることができない。ええい、と秀吉は、心の中で激昂する。怒りを、興奮を、抑えることができない。


(わしは強い。汝らごときに、そんな目で見られる理由はない!)


 過去に復讐するかのように、秀吉は激怒を口から吐き出した。


「わしの意に逆らうか、者ども!」


 秀吉の怒りは、ついに秀次に向かった。


「豊臣秀次はわしに恥をかかせ、我が意に逆らい朝廷を利用しようとした。これは謀反である。ただちに官位を剥奪し、高野山に追放せよ!」




 秀吉の決定は、豊臣政権にさらなる波乱を呼んだ。

 秀次の追放は、単なる左遷では終わらなかった。

 秀吉は、秀次の家臣から、妻子に至るまで処断する命令を下した。


 この過酷な処置には、諸大名や家族から抗議の声が上がった。

 特に、最上義光もがみよしあきの娘・駒姫こまひめの処刑は、政権内外に衝撃を与えた。


 駒姫はまだ15歳。秀次の側室となるべく京にやってきたばかりで、正式な婚姻すら結ばれていなかった。それなのに、処刑とは。彼女に、多くの者が同情を寄せた。この話を聞いた前田利家は、秀吉の前に立ちはだかり、声を荒らげた。


「正気を失ったのか、藤吉郎! 15の娘を殺すとは、どういう了見だ! 子どもも産んでおらぬ女を、なぜそこまで! 哀れだと思わんか!」


 秀吉は眉間に深い皺を刻み、利家を睨みつけた。


「……若い娘といえど、油断はならぬものぞ、又左」


「どう油断がならねえのか、教えてもらおうじゃねえか!」


「女は、強い。我が妻のねねは賢い。汝の妻のおまつ殿も、それは強くて賢いではないか」


「いや、しかし」


「あるいは、あの堤伊与を思いだせ。はるか昔、槍の又左と言われた汝と互角に戦ったあの娘を。蜂楽屋カンナや、先日処刑した石川五右衛門も思い出せ。充分、強い。山田弥五郎が出世したのは、まさにあの娘たちが弥五郎についておったからじゃ」


「最上の駒姫は、駒姫だ。堤とは似ても似つかんぜ」


「似る可能性がある、ということよ! わしは人間ひとりが持つ力を決して甘くは見ぬ。男であれ女であれ。どこでどう恨みを抱き、あるいは志を持ち、はいあがってくるか、我らに弓引くか、分かったものではない!


 そういうことじゃ。秀次の側室になっていない娘であっても、心がどう動いて、秀次の敵討ちをしようとたくらむか、分かったものではないわ! わしは――わしは、最上の娘を、秀次たちを処断することを、いっさい悔いぬ。悔いるはずがないわ!」


「藤吉郎。……」


 利家の目は、悲しみと失望に揺れながら、


「……最上義光が怒るぜ。……罪もなき15の娘を処刑されたとあれば……」


「……むしろ豊臣の権威を強めようが。いかなる人間でもわしには逆らえぬ。それほどの強さがあればこそ、この天下には徹底の泰平が訪れるのだ。強くありさえすれば――天下は乱れぬ! 又左、わしはいまや徳川さえ怖くはないぞ。まして最上のごときがなんじゃ。不平があらば、いつでもかかってこい。返り討ちにしてくれる!」


「藤吉郎!」


「弥五郎さえ討ったわしじゃ。もはや誰を討つにもためらいはない。それが豊臣のため、天下のためであるならば!」


「……藤吉郎……」


「又左。……もう帰れ……」


 秀吉の声は冷たい。


 利家は、黙って広間を後にした。




 秀次の切腹から数日後、秀吉は諸大名に秀頼への忠誠を誓わせる誓紙を提出させた。徳川家康、前田利家、上杉景勝ら、名だたる大名たちの名が連なる。秀吉は、秀頼の未来を守るため、どんな犠牲も払う覚悟だった。


 さらに、1595年8月、秀吉は『大坂城中壁書』を布告した。大名同士の婚姻の許可制、喧嘩や口論の禁止など、豊臣政権のルールを明文化した掟である。秀吉は広間で宣言した。


「この掟により、諸大名は豊臣を恐れ、秀頼に忠誠を誓い、日本は良い国となる!」


 その声は力強かったが、どこか空虚に響いた。


 さらに秀吉は、秀次の姿をこの世から消し去るように、関白の邸宅として作られた聚楽第を破壊することにした。多額の費用と手間をかけて作られた、豪華絢爛な建物でさえ、秀吉は、情け容赦なく――


「これでいいのだ。これでいいのだ。これで……」


 秀吉はいよいよ、夜ごとに眠れなくなっていた。


 高齢による肉体の衰えと、孤立感が心を苛む。


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