第五十九話 盗人の種は尽きまじ
1594(文禄3)年、夏――
京の都は商人、武士、職人で賑わっていたが、通りには静かな不安が漂っていた。豊臣秀吉の天下統一は成ったものの、その代償は民の疲弊した顔に刻まれていた。朝鮮での文禄の役は長期化し、国中の財を吸い上げ、増税と徴兵は民の不満を囁き声に変えていた。
そんな中、秀吉の新たな命によって、全国的な太閤検地が行われた。この検地は、統一された竿と枡を用いて、日本中の土地の生産力を厳密に把握するものだった。秀吉はこれまでにも検地を行ってきたが、今回のそれは、検地条目を定め、全国を統一基準で測る初めての試みだった。
検地により、土地の石高が明確になり、新田開発や橋の建設、商いの活性化が進められると秀吉は宣言した。
「日本全土の石高を把握し、それに基づいた政を行う。新田を開き、橋を架け、道を整え、商いを活発とし、天下の衆生みなを豊かにするのだ」
秀吉の言葉は、天下人らしい堂々としたものである。
その志は悪くなかった。
このころ、徳川家康は隅田川に千住大橋を架け、前田利家は領国で川に橋をかけ、荒れ果てていた金沢御坊の再建を許すなど、内政に力を注いでいた。上杉景勝も、領内の家臣と知行高をまとめあげていた。
豊臣政権下の諸大名は、統一政権の基盤を固めつつあった。
その一方で秀吉は、太閤としての隠居地、または政治拠点として巨大な伏見城を建築している。
民衆は、怨嗟の声をあげていた。
「大坂城があるのに、なぜ伏見にあんな巨城をまた建てるのだ……」
「朝鮮の戦はまだ終わりが見えぬ。夫は帰ってこず、生活は貧しくなるばかり……」
「太閤様は民の苦しみが見えぬのか……」
恨みの声は日増しに高まり、秀吉の耳にも届いていく。
「……どれも必要なまつりごとじゃと言うのに……」
秀吉は、苦い顔をして、
(商いの拠点である大坂と、まつりごとの拠点である京都、それぞれに城を築いてなにが悪い。必要なことじゃ。伏見城が巨大なのも理由がある。信長公や、その嫡子の信忠は、京の都に巨城さえあれば、殺されずに済んだかもしれんではないか。そう、伏見城はいるのだ。朝鮮とも和議が進んでいる……)
しかし秀吉は、天下人として弱音は吐けない。
日々、鬱憤を溜め込みながら政務を執っていた。
だが夜が更けるたび、秀吉は眠れなくなった。
高齢による肉体の衰えも重なり、夜中に突然、目を覚ますことが増えた。
酒も飲めない彼は、闇の中で独りつぶやく。
「こんなときに、誰かと話ができれば……」
だが、側室の淀殿とは年の差もあり、昔話や愚痴を気軽に交わせない。正室の北政所とは、秀頼の誕生以来、どこか本音で語り合えない壁ができた。前田利家も徳川家康も遠くにいる。そして、もちろん、山田弥五郎も――
「ん、ええいッ……!」
秀吉は、苛立ちを抑えきれず立ち上がった。
不眠が数日続き、心が乱れていた。
秀吉は拳を握りしめ、ついに決意した。
「あいつにでも……会いに行くか……」
秀吉は単身、寝室を出る。
近侍が慌てて、ついてこようとしたが、秀吉は一喝した。
「来ずとも良い! すぐに戻る!」
秀吉は、伏見奉行所の地下牢へと向かった。
そこには、石川五右衛門がいるはずなのだ。
地下牢は冷たく湿った空気に満ち、松明の炎が石壁に揺らめく影を投げていた。
格子の向こうで、五右衛門は壁にもたれ、膝を抱えて座っていた。白髪が混じる髪は乱れ、やせ細った身体はかつての軽快さを失っていたが、その瞳には不敵な炎が宿っている。
秀吉は無言のまま、姿を現した。
すると、
「やあ、太閤殿下」
五右衛門は、秀吉の姿を見るや、口元に嘲るような笑みを浮かべた。
「こんな夜中に、うちのところへ一人で来るとは、いよいよ話し友達がいなくなったね?」
「黙れ……気まぐれに来ただけじゃ……」
秀吉は低く唸ったが、その声には疲れが滲んでいた。かつての覇気ある天下人の姿は、そこにはない。松明の光に照らされた彼の顔は、深い皺と憔悴に刻まれていた。
「そのわりには暗い顔をしてるね。昔の殿下とは大違いだ」
五右衛門の言葉は鋭く、秀吉の心を抉った。秀吉は一瞬、目を閉じ、過去の記憶を振り払うように首を振った。
「昔の話はよせ!」
声を荒らげたが、すぐにその声は弱まった。
確かに昔は――若いころは、もっと空が青く、光は明るかったように思う。
秀吉は石壁に手を当て、つぶやく。
「わしは、わしは天下を平定した。戦国乱世を終わらせた。百姓の子が日本を束ねたのだ。偉業よ」
「知ってるよ」
五右衛門は肩をすくめ、真顔で答えた。
「生まれる前から続いた戦国乱世を、百姓の子がまとめあげた。この覇業、空前絶後だ。弥五郎――山田俊明のいた時代、数百年の先にまで語り継がれるはずだ。見事、と言うしかない」
その言葉に、秀吉の目は一瞬光った。
しかし、すぐに暗い影が落ちる。
「それがなぜ、こうも天下は暗いのだ」
「天下……?」
「民がみな、暗い。恨みつらみの声ばかりをあげおる。わしを恨んでおる。……朝鮮に兵を出したからか、それとも金や土地が足りんのか、ええい、歯がゆい連中め。わしはな、わしは……」
「そりゃ全部だろうねえ。銭、土地、いくさ。なにもかも、民にとっちゃ頭痛のタネだろうよ。……ただ、それだけじゃないと思うなあ」
「なんじゃと。どういうことじゃ」
「殿下」
五右衛門は静かに割り込み、秀吉の目をじっと見据えた。
「うちから見たら、夢。……そう、夢だよ」
「夢? 夢が足りんというのか?」
秀吉の声には驚きと苛立ちが混じっていた。
「うん、夢がなくなった」
「汝、童のようなことを言う」
「大事だと思うけどな。……ああ、大事じゃないか。自分の未来は、天下の未来はきっとこうなる、こうしたい、そして、とてもよくなるに違いないという、ふわふわとした、でも明るい、夢。ほんの数年前まで、世の中には不思議とそれがあった」
五右衛門は淡々と、しかし力強く続けた。
「信長公が台頭しはじめたころ、世の中に広がり始めたのは、ひとつの夢だった。天下が統一され、誰もが泰平と豊かさを手に入れるという夢だ。信長公が亡くなったあとは、殿下、あんたがそれを引き継いだ。誰もが、天下統一さえなればきっと世はよくなると信じていた。
百姓上がりが天下人になったんだ。今度こそ、民の痛みが分かるお方が天下人になった。これで世の中は安泰になる、もっともっと幸せになれるはずだと、誰もが夢を見ていたんだ。
だが、あんたは朝鮮に兵を出した。民は貧しいまま、戦は続く。みんなの夢が砕けた。百姓上がりの木下藤吉郎が天下を束ねても、なお、いくさと貧乏が続く! ならば、もはや永遠に日ノ本はこのままではないかと、みんなががっかりした。夢は潰れた。
そして、ひとりひとりのがっかりが、大きく広がって――このどんよりとした日本の空気さ。いくさはこれからも続く。貧乏もこれからずっと続く。みんな、そう思うようになっちまったんだな。
はっきり言えば、殿下。あんたという権力者の底が見えた。誰もがそう思い始めたわけさ。豊臣では、もはやこの日ノ本を泰平にも、豊かにもできまいと――」
「だまらんかッ! だまらんかあ、汝ッッ!!」
秀吉は激昂し、格子に拳を叩きつけた。
地下牢に鈍い音が響く。
「弥五郎の仲間であり、昔なじみだからこそ我慢しておったが、この盗人女、どこまでも減らず口を叩きおって! 汝なぞは……汝なぞは……!」
秀吉は唇を噛みしめ、息を荒くしながら言葉を絞り出した。
「ならば、民に夢を与えよう!」
「なに……?」
五右衛門は目を細めた。
「悪は必ず滅びるという夢を、与えてくれようぞ。五右衛門、汝はやはり打ち首とする!」
その宣告に、五右衛門は一瞬、息を呑んだ。
しかし、すぐに彼女の唇に不敵な笑みが戻った。
「そういう理屈か。よく考えやがる」
「伊与やカンナとは違う。汝は盗みを働いた。殺すことに、わしはなんのためらいもない」
「それも道理だ。うちは貧民を救うためにものを盗んだ。……とはいえ、盗みは盗み。うちを殺すのは理にかなってる。それはおもしろい、殺しな。ああ、いや、待てよ」
五右衛門は、まるで芝居でも演じるように、悪戯な笑みを浮かべた。
「打ち首なんか、平凡でつまらん。磔――火あぶり――いいや、油で釜茹でなんかいいんじゃないか? な? どうだい。……悪は滅びるという夢を、民に与えてやんなよ。それがなによりも、いまのあんたらしい!」
「なにを――」
秀吉は絶句し、彼女の目を凝視した。五右衛門の瞳には、恐怖も後悔もなかった。ただ、どこか遠くを見るような、深い光があった。
「なにをそんなに面白がっておる。気でもふれたのか……」
「はは、面白がる理由だって? 教えてなんかやるもんかよ。せいぜいうちをぶち殺すがいい」
秀吉は、彼女の挑発に耐えきれなかった。
天下人の沽券にかけて、引き下がるわけにはいかない。
「わかった。盛大に殺してやるわ! 汝、覚悟せいよ!」
秀吉の叫びが、地下牢の闇にこだました。
五右衛門は、にやりと笑い、――天を仰いだ。
1594年8月24日、京の都の三条河原にて――
河原は、群衆のざわめきで埋め尽くされていた。
夏の陽光が川面に反射し、汗と埃の匂いが漂う中、処刑台が設けられている。
中央には巨大な釜が置かれ、油が煮えたぎる不気味な音が響く。
石川五右衛門は、縄で縛られ、群衆の前に立っていた。
彼女の白髪は風に揺れ、傷だらけの顔には、なお不敵な笑みが浮かんでいた。
役人が、厳かに進み出て尋ねた。
「石川五右衛門。最後に、なにか言い残すことはあるか?」
五右衛門は一瞬、群衆を見渡した。
そこには、貧しい民、好奇心に駆られた商人、冷ややかな目をした武士たちがいた。彼女は小さく息を吸い、答えた。
「……辞世の句を、詠ませてくれや」
「よかろう」
役人はうなずき、群衆は静まり返った。
五右衛門は、ゆっくりと、しかし力強く詠んだ。
「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
浜辺の砂が尽きても、世の中から盗人がいなくなることはない――
その句は、役人には単なる盗人の不遜な言葉に聞こえた。
だが、五右衛門の心は別の叫びを響かせていた。
(弥五郎、うちは先に行く。でもな……なあ、あんたは、どこかで生きている気がするんだ。だから、あんた、絶対に伊与とカンナを助けてやってくれよ。それと――それとさあ……。
……本当に楽しかった。
長い、長い……長い旅だったな)
かつて、まだおごうと名乗っていた五右衛門が、若いころの弥五郎や伊与やカンナ、あかりに次郎兵衛と今川領で出会った。そのころのことを思い出した。
ケンカをして、しかし仲間になり、それから何十年もの時間、苦楽を共にして――『五右衛門、頼みがあるんだ』『どうやったら、そういう素早い攻撃ができるのだ?』『あんたもたまには、金勘定ば手伝ってよ』――尾張、津島の神砲衆屋敷で、まだ二十歳くらいだった弥五郎、伊与、カンナの三人の声が思い出されて――
(みんな、また来世で会おうぜ。会えるって、うちは信じてる。うちの魂は、何百年先の世になろうとも、決して尽きねえからな)
盗人の種――
すなわち、自分の魂は決して尽きない。
幾度となく生まれ変わって、また大事な人と巡り合う。
弥五郎が、そうなったように。
自分もそうなれると信じていた。
(弥五郎……)
彼女の瞳は、遠くの空を見上げていた。
彼女は微笑み、静かに目を閉じた。
(また会おうな)
油の釜が沸騰し、群衆のざわめきが再び高まった。
五右衛門の身体は縄とともに釜へと運ばれ、彼女の姿は熱波と煙に呑まれた。
五右衛門は、死んだ。
その報告を受けた秀吉は、無言のまま、わずかに空を見上げただけであった。




