第五十八話 落日
「あんたのせいで、どれだけの民が死に、どれだけの家族が引き裂かれた? 朝鮮で流れた血、村で飢える子供たち――それもこれも、あんたのせいだ! なにもかも、太閤、あんたのせいなんだ!!」
「ぐ……」
秀吉の目は一瞬揺れたが、すぐに鋭さを取り戻す。
彼は低く、しかし力強く答えた。
「和睦の話は進めておるわ。出兵はこれでしまいじゃ」
五右衛門は鼻で笑った。
「その和睦はうまくいっているのかい?」
「……」
秀吉は口を閉ざす。
いま朝鮮と日本の間で和議の機運は高まっているが、和議の交渉は暗礁に乗り上げていた。朝鮮側は日本への不信感を拭えず、和平は進まなかった。
「それみろ、そんなにうまくいくもんか。このままだとまた戦いが起きるぜ」
「汝なぞになにがわかるか!」
秀吉は怒りを爆発させた。
「わしは太閤秀吉、盗人ごときが図に乗るんでねえ! 秀頼のことも天下のことも、わしの心ひとつで決めるわ!!」
「……太閤……」
その言葉に、五右衛門は戦慄した。秀吉の目は、かつての盟友・弥五郎と向き合ったときのような複雑な光を宿していた。
そのときだ。
複数の足音が響いてきた。
やがて、秀吉が叫んだ。
「その足音は、権兵衛か、よう来た!」
「殿下、ご無事でござるか!」
権兵衛と名乗る大きな侍が、数人の兵を連れて寝所に飛び込んできたのだ。「ちっ」と舌打ちした五右衛門は短刀を構え、応戦の構えを取るが――
バァン!
鋭い銃声が響き、五右衛門の右手に激痛が走る。「ぐ!?」――短刀が手から滑り落ち、畳に転がる。
秀吉が懐から取り出して使ったのは、弥五郎がかつて作った護身用の小型拳銃、パームピストルだった。
「ぐ、ううっ……!」
五右衛門は右手を押さえ、膝をつく。
そのスキを突いた権兵衛たちが素早く彼女を取り押さえ、縄で縛り上げる。秀吉は冷たく見下ろしながら言った。
「……これでしまいじゃ。長い付き合いじゃったが、汝の命運もこれまでよ」
「……ふん!」
五右衛門は血に濡れた手で秀吉を睨み、かすかに笑う。
「太閤。あんた、さっきから、本当に険しい顔をしてるねえ。寝顔だってそりゃ渋いもんだったよ。天下を取り、子宝に恵まれ、それでもなおこんなに苦しそうとは、天下人とは難儀なもんだね!」
「だまらんか!!」
秀吉の声が雷鳴のように響く。
「我が天下は必ず安定させる。わしは必ず、夢を成し遂げる!!」
秀吉の胸には、弥五郎の警告が今も突き刺さっていた。豊臣氏が滅び、秀頼が悲劇的な運命を辿る未来――それを回避するため、秀吉はどんな犠牲も払う覚悟だった。朝鮮との和議を成立させ、天下を安定させ、秀頼に継がせる。それが彼の夢であり、執念だった。
「権兵衛、五右衛門を奉行所の地下牢に連行せい。だが、殺すな。……まだ、用がある」
秀吉の命令に、権兵衛は一礼し、五右衛門を連れ出す。五右衛門は抵抗せず、ただ秀吉を一瞥し、軽く笑った。
「太閤。覚えてな。あんたの天下、いつか必ず崩れるよ」
その言葉は、夜の闇に消えた。
「…………」
秀吉は、黙した。
秀吉は伏見城の広間に座し、小西行長からの戦況報告を聞いていた。
朝鮮での戦いは膠着状態に陥りつつあった。明の援軍と朝鮮の義兵が反攻を強め、日本軍は漢城から南へ押し戻されていた。秀吉の出した和議条件が交渉を破綻させ、戦線は泥沼化していた。
「朝鮮の民は我々に強い反感を抱いております。義兵の蜂起が各地で続き、補給路も脅かされております」
小西行長が送ってきた使者の報告は慎重だった。
秀吉は眉をひそめ、全身を揺らしながら立ち上がる。
「ならば、和議を急げ。なにがなんでも成立させよと小西たちに伝えよ。太閤は待ちかねておるぞ! 泰平は間もなくやってくる。誰もが待ち望んだ、天下の泰平じゃ!」
その言葉には、かつての覇気が宿っていたが、どこか空虚に響いた。使者は一礼し、広間を後にする。
秀吉は、対馬沖の記憶をたどる。あの海戦で失った弥五郎の姿が、今も彼の心を締め付けていた。
「弥五郎……汝は、わしの天下をどう思う……」
秀吉のつぶやきは、誰もいない広間に消散した。
大和国の吉野で、秀吉主催の盛大な花見の宴が催された。
この花見に秀吉は、甥の関白・豊臣秀次を呼んだ。太閤と関白の関係は良好なりと、諸大名に見せつけるためだ。
秀吉は秀次に、
「天下の5分の4はそなたに与える。だが、残りは秀頼にくれ。それが誰にとっても都合がよかろう」
と伝えており、関白への配慮を示していた。
――示しているつもりだった。
ところでこの花見には、前田利家や徳川家康を含む3000人もの人々を集めていた。
しかし、この日は雨が降り続き、宴は盛り上がりに欠けた。
桜の花びらが雨に濡れ、地面に散乱する中、秀吉は不機嫌に、ほとんど飲めない酒をあおる。
雨が、なぜ降る……。
こんな日に限って……。
まるで天が、自分の天下を嘲笑っているかのようだった。
「なんの、まだまだ……!」
秀吉は苛立ちを隠さず、杯を叩きつけた。
小姓たちが、びくっと顔を上げる。
「わしの天下を、天が邪魔するはずがない! ないのだ!!」
そのときである。
前田利家がそっと近づき、声を低くして言った。
「藤吉郎。少し落ち着け。天気が悪いだけだ。そう怒るな」
「又左、黙れ。わしはただ、空を憎んでおるだけだ!」
「……空を……」
利家の目には、秀吉の焦りが映っていた。
さらに翌月である。
秀吉は大坂城に戻り、自ら脚本を書いた能を演じるという遊びを行った。
『明智討』『柴田退治』――かつての敵、明智光秀や柴田勝家を倒した自身の武勇を誇る演目だった。舞台の上で、秀吉は全身を翻し、力強く舞う。
「どうじゃ、わしはすごかろうが、ん? すごかろうが!」
観客の家臣たちは笑顔で拍手を送るが、その笑みはおべっかに満ちていた。
当然、秀吉は気づいていた。彼らの称賛は、心からのものではない。だが、彼はそれを振り払うように、さらに大きな声で笑った。
能の直前、秀吉は高野山に参詣していた。そこで、音曲禁止の聖地にもかかわらず『高野詣』を舞い始めたが、空がにわかに曇り、雷が鳴り響いた。秀吉は雷鳴を聞き、顔を曇らせる。
「花見のときといい、今回といい、なぜ天気がおかしくなる。天がわしを疎んじているのか? そんなはずはない。そんなはずは……しかし、まさか、あの雷鳴は……弥五郎、汝の魂か? まさか……!」
その夜、秀吉は一睡もできず、天井を見つめ続けた。
「誰もおらぬ……誰も、もうおらぬ……」
愛してくれた母も、ついてきてくれた弟も、永遠を誓った盟友も、心から慕った主君も。
「……誰も……」
来週はお盆休みということで、更新をお休みします。また再来週。




