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第五十七話 千鳥は鳴いた

 1593年8月、大坂城――


 大坂城の廊下には、家臣たちの慌ただしい足音がこだまする。

 城内は異様な熱気に包まれていた。朝鮮における血塗られた戦場を、誰もが一瞬忘れる、純粋な喜びの感情が。


 豊臣秀吉は、陽光が差し込む部屋で、布にくるまれた赤子を抱いていた。

 子は、かすかに声を上げ、小さな拳を空中で振る。

 秀吉の皺だらけの顔は柔らかくなり、鋭い目は優しさで輝いた。


「我が子じゃ……我が世継ぎじゃ!」


 秀吉の声は、広間に響き、まるで少年のような歓喜に震えた。側に控える淀殿は、疲れ果てた顔に微笑みを浮かべ、秀吉を見つめる。彼女の瞳には、母としての誇りと、乱世に生きる女としての複雑な感情が宿っていた。


 秀吉は秀頼の小さな頬をそっとなで、つぶやく。


「汝が生まれた。……これで、ようやく、わしの未来は守られた」


 誰が想像するだろう、秀吉の内心を。


 父の顔もろくに覚えておらず、生家は貧乏で貧乏で貧乏で、養父からは殴られ続け、ようやっと世間に出てみればそこでも侮辱と暴力だけが溢れ、未来どころか明日をも知れぬ日々を送った。


 生まれながらにして金や土地、権力を有する人間がいるのに、なぜ自分にはそれがないのだろう。悔しい。あまりにも、歯がゆい。同じ人間であるはずなのに。憎い。憎い――


 その自分に、子が生まれた。鶴松が。しかし鶴松は死んだ。

 だが、次に秀頼が生まれてきてくれた。


 この子に会いたかった。

 この子にだけは自分の味わった絶望を与えたくない。


(この子にだけは。――)


 だが、その喜びの裏で、秀吉の心には影が差していた。すでに世継ぎとして、甥の豊臣秀次が関白に就いている。秀次は有能で、若く、豊臣政権の要として働いていた。秀次はどうする。


(……いまはまだ、考えまい)


 秀吉の口から秀次の名は出てこなかった。

 まるで、秀次など存在しないかのように。


 秀吉は秀頼を抱いたまま、窓辺に歩み寄る。

 朝鮮半島では、日本軍が朝鮮軍、そして明からの援軍と激突し、戦況は泥沼化していた。


 実はことしの春、朝鮮半島で和議の機運が高まったことがある。だが、秀吉はあえて無理難題を突きつけて和議の話を消滅させた。秀吉が突きつけた難題とは、朝鮮の王子を人質として日本に差し出すこと、明の領土の一部を割譲すること、などなどで、とても明や朝鮮には呑めない条件ばかりだった。


 それはすべて、秀頼が生まれるまでの時間稼ぎのためだった。


(秀頼がぶじに生まれる。その未来のために不毛な争いを続けてきたのだ。……我が子は無事に生まれた。ならば、もう、朝鮮に兵を出す意味もない)


 秀吉は心の中でつぶやく。


 文禄の役は、すでに一年以上続き、釜山から漢城(現在のソウル)までを席巻した日本軍の勢いは、明の援軍と朝鮮の義兵によって徐々に削がれていた。戦は長期化し、兵士の疲弊と民の苦しみが報告されていた。秀吉自身、戦の終結を考えるべき時が来たと感じていた。


(出兵は終わりじゃ)


 秀吉は決意を固め、秀頼を淀殿に預けると、部屋を出た。廊下に足を踏み入れた瞬間、思わず叫んでいた。


「弥五郎はおるか! 戦はしまいじゃ、朝鮮への出兵はここまで――」


 その言葉を口にした瞬間、秀吉は凍りついた。


 弥五郎はいない。

 当たり前のことだ。


 対馬沖の海戦で、山田弥五郎は波に呑まれた。

 あの戦いから、秀吉は幾度も海を捜索させたが、弥五郎の姿は見つからなかった。秀吉の心に、かつての盟友の笑顔がよぎる。


「弥五郎……」


 秀吉の声は小さく、廊下の暗がりに消えた。

 誰もいないのが幸いだった。秀吉は額を押さえ、つぶやく。


「わしは疲れておるのだ……。しかし……小一郎、利休、弥五郎。……誰もおらんのか」


 かつて、秀吉は大友宗麟にこう語った。『公のことは小一郎(秀長)に、内々のことは千宗易(利休)に、商いのことは山田弥五郎に』と。彼らは豊臣政権の三傑とも呼べる存在だった。だが、秀長はすでに死に、利休は切腹を命じられ、弥五郎は海の藻屑と消えた。


「誰もおらんのか……」


 秀吉はしばし呆然としていたが、


(いや、わしには秀頼がおる)


 秀吉は自分を奮い立たせるように、拳を握りしめた。弥五郎が警告した未来――豊臣氏の滅亡、秀頼の悲劇――は絶対に避けねばならない。秀頼を守るためなら、どんな犠牲も払う覚悟だ。


(秀頼を、未来を守る。そうしなければ、なんのためのこれまでの戦いだったのか、なんのための我が人生であったのか。……なんのための……!)




 大坂の町は、夜になってもなお賑わっていた。


 提灯の明かりが軒先に揺れ、酒場からは酔客の笑い声が漏れる。だが、路地裏では、増税に耐えかねた民が物乞いのようにうずくまり、子供たちが空腹で泣いていた。朝鮮出兵のための増税や財源確保は、商人や富裕層には好景気をもたらしたが、農村では貧困が広がる結果となっていた。


 ひとびとは、嘆きと恨みの声を豊臣政権に向けて上げていた。


「……ふん」


 その闇の中、石川五右衛門は影のように動いていた。

 彼女は、大坂城下の裏通りを歩く。彼女の手には、ある大名の屋敷から盗んだ米と、銭の入った袋がひとつずつあった。


「こんな世の中でも、金持ちは腹一杯食いやがる」


 五右衛門はつぶやき、路地裏で震えている孤児たちの前に、米と銭をそっと置いた。子供たちが驚いた顔で彼女を見つめるが、五右衛門はすぐに姿を消す。彼女の心は、怒りと無力感で煮え立っていた。


(伊与やカンナがどこにいるか分からねえ。大坂城に何度も忍び込むこともできねえからな。並の城ならともかく、大坂となると、命がいくつあっても足りねえ)


 五右衛門は歯ぎしりしながら歩を進める。

 彼女は大坂城から脱出した後、京や大坂の裕福な屋敷を荒らし、貧しい者に分け与える日々を送っていた。盗みが罪だと知りつつも、それは彼女なりの抵抗だった。


(弥五郎。あんたは本当に死んじまったのか?)


 対馬沖での海戦から一年。

 弥五郎の手がかりは一切なかった。

 彼女の胸には、仲間を失った痛みと、秀吉への怒りが渦巻いていた。


「ちくしょう。ちくしょう、ちくしょう!」


 五右衛門は拳で地面を叩きつける。

 涙が滲むが、すぐに袖で拭った。泣いている暇はない。

 伊与とカンナを救い出し、弥五郎が生きているなら再会しなければならない。


(……だと、わかっちゃいるが……)


 その時である。

 奇妙な光景が目に入った。


 髭を生やした侍が、数人の女性と共に現れ、絹に包まれた赤子をそっと地面に置いた。

 侍たちは五秒と経たぬうちに、わざとらしく叫んだ。


「おお、なんと可愛い赤子であるか!」


「まことでございますな。この赤子は拾って、ぜひ太閤さまにお届けしましょう!」


「そうしよう」


 侍たちは赤子を拾い、踵を返して去っていく。五右衛門は影に身を潜め、その後を追った。侍たちが大坂城の門をくぐるのを見て、彼女はピンときた。


(あれが豊臣秀頼だ! 弥五郎が言っていた、太閤の子供!)


 弥五郎の言葉が脳裏に蘇る。


 ――豊臣秀頼は最初、おひろいと呼ばれるんだ。拾い子は育つというだろう? だから藤吉郎は、秀頼をいったん大坂城の外に捨てて、家来に拾わせるんだ。そこから当分、秀頼はお拾と呼ばれることになる……。


(あれがそうか……しかし……)


 儀式的な茶番だ。

 茶番としか言えない。ふざけている。

 ほんの少し先の路地裏では、みなしごたちが震えているというのに。


 五右衛門の胸に、怒りが燃え上がった。


(あの赤ん坊のために、どれだけの人間が死に、苦しんだんだ! 太閤、てめえは許せねえ!)


 五右衛門は拳を握りしめ、大坂城の石垣を見上げた。




 伏見に、新たな城が築かれつつあった。


 伏見城である。秀吉は、秀頼に大坂城を譲るため、みずからの隠居先として伏見を選んだ。


 伏見にはすでに、秀吉用の豪勢な屋敷が建てられていたが、さらにその屋敷を増築して、城にしようというのである。


 秀吉は、この未完成の伏見城に、淀殿、さらに秀頼を連れて移り住んでいた。愛する側室、そして我が子との時間を伏見で過ごそうというのだろう。


 伏見城の建設現場は、夜の静寂に包まれながらも、松明の炎が揺れ、遠くで木材を運ぶ音が響いていた。秀吉の命により、大坂城から新たな居城として急ピッチで築かれつつあった伏見城は、未完成ながらもその威容を誇示していた。石垣の隙間からは土と木材の匂いが漂い、月光に照らされた天守の骨組みは、豊臣秀頼の未来を象徴するかのようにそびえ立っていた。


 石川五右衛門は、黒装束に身を包み、闇に溶け込むように城の外郭をよじ登っていた。短く切り揃えた髪が夜風に揺れ、腰に差した短刀が月光を鋭く反射する。彼女の胸には、燃えるような怒りが渦巻いていた。


(こんな城を建てやがって。どれだけ世間に貧乏人が溢れているか。思い知らせてやるぜ)


 大坂城下で見た貧民の姿、飢えた子供たちの泣き声、朝鮮出兵で疲弊した民の嘆き――それらが五右衛門の心を突き動かしていた。山田弥五郎の不在、対馬沖の海戦で失われた仲間の記憶、そして秀吉の野望が引き起こした無数の犠牲。彼女はすべてをこの一夜に賭けていた。


 五右衛門は、未完成の石垣の隙間を抜け、音もなく内庭に忍び込んだ。巡回する見張りの兵士たちは松明の光を頼りに歩いていたが、彼女の動きはあまりに素早く、誰もその気配に気づかなかった。やがて、秀吉の寝所がある本丸にたどり着く。


 寝所の障子戸の向こうで、微かな灯りが揺れていた。

 五右衛門は息を殺し、戸の隙間から中を覗く。


 秀吉は畳に敷かれた寝具の上で寝息を立てている。

 淀殿と秀頼の姿はない。おそらく別の部屋で休息しているのだろう。


(好都合だ。うちが狙っているのは、太閤だけだからな。……ん?)


 寝所の隅に置かれた漆塗りの棚に、茶器が置かれているのが目に入った。その蓋には、精巧な千鳥の細工が施されている。


(……千鳥がついているな、あの茶器。……そうか!)


 五右衛門はすぐに察した。茶器の千鳥は、近づく者の気配を察知して鳴る仕組みだ。秀吉なりの暗殺対策だろう。彼女の唇に、冷たい笑みが浮かぶ。


(おもしれえ!)


 五右衛門はわざと足を強く踏みしめ、畳にバン! と音を立てた。

 静寂を切り裂くように。


 すると。

 茶器の千鳥が鋭く鳴り響く。


「な、なに!?」


 秀吉が跳ね起き、慌てて周囲を見回した。暗闇の中、五右衛門の姿が月光に浮かび上がる。彼女は一瞬で秀吉の胸倉をつかみ、力強く引き寄せた。


「起きろ、木下藤吉郎! のんきにグウグウ寝やがって!」


 秀吉の目が見開かれ、驚愕と恐怖が混じる。


「汝、ご、五右衛門か? まさか。自害したと聞かされていたが……」


「それを信じ切っていたのか、情けねえな。智将秀吉ともあろう男が、そこまで耄碌もうろくしたのかい!」


 五右衛門の声は鋭く、怒りに震えていた。

 彼女は秀吉の顔を睨みつけ、拳を振り上げる。


「ち、千鳥……。汝、千鳥をわざと鳴かせたな? なぜ、千鳥を鳴らせた!」


 秀吉が叫ぶが、五右衛門は嘲笑する。


「きまってらい。あんたを起こして、殴り飛ばし、罪の大きさを思い知らせるためだ!」


 五右衛門の拳が、秀吉の頬を捉えた。鈍い音が響き、秀吉は畳の上に倒れ込む。だが、彼はすぐに体を起こし、目をぎらつかせて五右衛門を睨み返した。


「五右衛門……何のつもりじゃ。わしを殺す気か……」


「殺す? ハッ、そりゃ簡単すぎる。あんたには、もっと苦しんでもらわねえと気が済まねえよ」


 五右衛門は秀吉を押さえつけ、短刀を抜いてその首元に突きつけた。刃先が月光に光り、秀吉の喉元でわずかに揺れる。


「あんたのせいで、どれだけの民が死に、どれだけの家族が引き裂かれた? 朝鮮で流れた血、村で飢える子供たち――それもこれも、あんたのせいだ! なにもかも、太閤、あんたのせいなんだ!!」




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