表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国商人立志伝 ~転生したのでチートな武器提供や交易の儲けで成り上がる~  作者: 須崎正太郎
第六部 山田俊明編(1582~現在進行中)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

316/329

第五十五話 次郎兵衛の最期

 肥前国の名護屋城は、未だ建設途中の姿でそびえ立っていた。

 木材と石垣の匂いが漂い、夜の闇を松明の炎が赤々と照らす。


 対馬沖での壮絶な海戦から数日が経っていた。

 豊臣水軍に接収された山田船団の生き残り――堤伊与、蜂楽屋カンナ、石川五右衛門、そして昏睡状態の次郎兵衛――は、名護屋城の広間に連行されている。


 広間は簡素ながらも威厳を湛えている。秀吉の天下統一の象徴であるこの城は、朝鮮出兵の拠点として、出兵直前となった現在でも急ぎで建設が進められている。


 伊与、カンナ、五右衛門は、秀吉の前に跪かされた。

 だが、その扱いは意外にも丁重だった。兵たちは彼らを縛らず、むしろ客人として遇するように命じられていた。


 広間の隣室には、昏睡状態の次郎兵衛が横たわる簡易な寝床が用意され、侍女が砂糖を混ぜた白湯を匙で与えようとしていた。だが、次郎兵衛のやせ細った顔は、まるで命の灯が消えかかっているかのように青白く、ほとんど飲めていないようだった。


「いよう」


 やがて秀吉が、広間の中央に現れる。

 胸の傷はまだ癒えておらず、包帯が衣服の下から覗いている。

 だが、その目はなおも鋭く、熱を帯びていた。


 秀吉は、なにを口にするべきか迷っているようで、しばらくその瞳を宙にさまよわせていたが、やがてまず伊与を見据えて、


「伊与。久しいな。こうしてまともに口を利くのは、いつ以来になるのかのう」


「……はい。もう……5年……いいえ、6年ぶりになろうかと」


「うむ……」


 秀吉の声は低く、どこか懐かしさに満ちている。


「汝、見ればみるほど若々しい。10年前と比べてもまるで老けていないようじゃ。うらやましいことよ」


 秀吉らしい世辞が出た。

 だが、すぐにその顔が曇る。


「それで――弥五郎は、本当におらんのか」


 伊与は一瞬、目を伏せた。


「おりませぬ」


 声は静かだが、確固たるものだった。

 伊与の心には、対馬沖で消えた弥五郎の姿が焼き付いていた。


「そうか」


 秀吉は目を細め、深いため息をついた。


「――虎(加藤清正)に命じて海をさんざん探させてはおるが……。……いや、なに、あいつのことじゃ、きっと生きておろう。生きていてもらわねば、困るわい。……のう、汝らもそうじゃろうが、わはははは!」


 その笑い声は、場に似合わぬカラ元気のように見える。


 秀吉の側に控える、若い近侍たちは、天下人の異様な笑みに唖然とした。むしろ困惑しているようであった。豊臣氏に逆らい、海戦を起こし、秀吉を撃った男、山田弥五郎とその一味に対して、秀吉はどうしてこうも甘いのか、と――


 だが伊与、カンナ、五右衛門にはその感情の裏が理解できた。弥五郎と秀吉の友情は、余人には計り知れない特別なものだった。乱世を共に駆け抜け、天下を夢見た二人の絆は、たとえ敵対したとしても、決して消えることはないのだから。


「それでのう、伊与」


 秀吉は笑みを消し、真剣な眼差しで続けた。


「どうじゃ。弥五郎が戻ってくるまでの間、わしと一緒に戦わぬか。カンナも、五右衛門もじゃ。汝らのような人材を遊ばせておくのは惜しいぞ」


 五右衛門が、鋭い目で秀吉を睨みつけた。髪に白髪が混じり始めている彼女だが、その気魄は少しも衰えていない。


「そこで『はい』と答えるうちらだと思うかい?」


 その言葉に、秀吉はくっと笑った。


「思わぬ。じゃがの、弥五郎が戻ってくるまでの間だけでよい」


「お断りよ」


 カンナが即座に答えた。

 碧眼が、燃えるように輝いている。


「あたしらは、弥五郎以外と働く気はせん。藤吉郎さん、いいえ、太閤殿下。……あたしは信じとる。弥五郎は生きとって、必ずまたあたしたちの前に姿を現してくれる。そのとき、もしあたしたちが殿下に力を貸しとるって知ったら……弥五郎は、きっと悲しむ。あたしだって、悲しい。だから、力は貸せんとよ」


 カンナが語り終えると、次は伊与が静かに続けた。


「殿下。もし私たちがあなた様の下につけば、次の働き場所は当然、明や朝鮮となりましょう。俊明が命をかけて阻止しようとした唐入りです。その唐入りの手助けを行うことはできません。この無道極まる乱世を終焉に導くために、あなた様と俊明の誓いがあったはず。そうだというのに、この期に及んでまだ乱世を広げようとするあなた様を、私は許容できない。……私はこの場で首を刎ねられても構いませぬ。……殿下の下には、いまのあなた様の下には、決してつけない。……つけないのです」


 すると今度は、五右衛門が軽やかな笑みを浮かべ、言葉を継いだ。


「うちもそうだね。弥五郎のこともあるけど、根にはうち自身の気持ちがある。なんていうのかな、なんでもかんでも天下人の思うがままになってたまるか、って気持ちだよ。傾奇者めいてると自分でも思うけどね」


 その言葉に、広間の空気が一瞬凍りついた。秀吉の近侍たちが息を呑み、刀の柄に手をかける者もいた。だが、秀吉は静かに目を閉じ、深いため息をついた。


「そうか……。ならば、やむをえまい。惜しいが、汝らは――」


 そのとき、広間の戸が勢いよく開き、若い侍が飛び込んできた。顔は青ざめ、息を切らせている。


「殿下! 次郎兵衛どのの容体が急変しました。意識こそ戻りましたが、青白い顔となって、なにかを言おうと……」


 伊与、カンナ、五右衛門は思わず立ち上がろうとしたが、すぐに座り直した。秀吉の前で無断で動くことは、命を危険に晒す行為だ。

 だが、秀吉は静かに手を挙げ、穏やかな声で言った。


「構わん。……恐らく、最期であろう。次郎兵衛を看取ってやれ」


 その寛大さに、伊与たちは一瞬驚いたが、すぐに隣室に横たわる次郎兵衛の元へ駆け寄った。


 やせ細った彼の身体は、まるで魂が抜けかけた人形のようだった。侍女がなお、白湯を与えようとしていたが、次郎兵衛の唇は動かず、ただ微かな息だけが彼の命を繋いでいた。


 伊与が彼のそばに跪き、そっと手を握った。


「次郎兵衛。私だ。伊与だ。隣にいるぞ」


「次郎兵衛!」


「次郎兵衛……」


 カンナと五右衛門も、その後ろで静かに見守る。

 次郎兵衛の目はうっすらと開き、伊与の顔を捉えた。


「……アニキ……」


 もう、目が見えていないのだろうか。

 それにしてもその声は、風に消えるような弱々しさだった。


「俊明でなくてすまない――」


 伊与は、次郎兵衛の両手を握りしめながら、


「だが次郎兵衛、しっかりしろ」


 伊与の声は震えていた。


「俊明は……俊明はまだ生きている。必ず戻ってくる。だから、お前も……」


 だが、次郎兵衛はかすかに微笑んだ。

 まるで、伊与の言葉を信じつつも、己の運命を受け入れたかのような笑みだった。


「アニキ……あっしは……楽しかったッス……」


 その言葉を最後に、次郎兵衛の手が伊与の手を握り返し、


「次があったら……次もまた、アニキたちといっしょに――」


 そして力を失った。

 微かな息が止まり、彼の目は静かに閉じた。


「次郎兵衛!」


 カンナが叫び、涙が彼女の頬を伝った。五右衛門は無言で拳を握りしめ、目を閉じた。伊与は次郎兵衛の手を握ったまま、ただ静かに頭を垂れた。


 部屋の外では、秀吉がその様子を遠くから見つめていた。彼の目には、かつての盟友たちへの複雑な感情が宿っていた。次郎兵衛の死は、秀吉にとっても、弥五郎との絆の一部が失われたことを意味していた。


 秀吉は、ゆっくりと隣室に足を踏み入れると、悲しみに打ちひしがれる伊与たちを見下ろしながら、


「汝らの命、次郎兵衛に免じて、いまは助けてやろう」


 秀吉は優しくつぶやくと、近侍に命じた。


「伊与たちを大坂まで送れ。……丁重にな」




 翌日。

 伊与、カンナ、五右衛門は大坂へと護送される船に乗せられていた。


 対馬沖の海は静かで、まるで先日の血戦が嘘のように穏やかだった。船の甲板に立つ伊与は、海の彼方をじっと見つめていた。彼女の黒髪は風に揺れ、その瞳には弥五郎の姿を追い求めるような光が宿っている。


 カンナは五右衛門と並び、甲板の隅で次郎兵衛の死を悼んでいた。彼女の金髪は海風に乱れ、碧眼には涙の跡が残っていた。


「次郎兵衛……あんた、ほんとバカよね。好かーん、もう……。どうして、なんで先に逝っちゃうとよ……」


 カンナの声は嗄れていた。


「弥五郎が戻ってきたら、なんて言えばいいんよ……」


 五右衛門は、ただ海を見ていた。

 彼女の軽やかな口調は影を潜め、静かな声で答えた。


「次郎兵衛の分まで、生きなきゃね。……弥五郎が帰ってくるまで、うちは待つよ。どんなに長くても」


 伊与が振り返り、二人を見つめた。

 彼女の堅苦しい口調にも、深い悲しみが滲んでいた。


「そうだな。私も、俊明が生きていると信じている。彼は必ず戻ってくる。そのときまで、私たちは生きねばならん」


 三人の視線が海の彼方に重なる。だが、弥五郎の姿はどこにもなかった。波は静かに寄せては返し、まるで彼の存在を呑み込んだ海が、何事もなかったかのように沈黙を守っていた。




 同じ頃、名護屋城の広間で、秀吉は小西行長と対面していた。

 その目は、冷酷な光を宿している。


「殿下。唐入りのことは……」


 小西行長の声は慎重だった。秀吉の野望を支えるため、彼はすでに釜山上陸の準備を進めていた。


 秀吉はしばらく沈黙し、海を見つめた。対馬沖での戦い、弥五郎の銃弾、金銀の袋が胸を守った奇跡――すべてが彼の心に重くのしかかっていたが――


「……無論、行う」


 その声は、氷のように冷たく、しかし揺るぎなかった。


「朝鮮に攻め込むのだ。わしの天下を、明まで広げる。……弥五郎が何と言おうと、どうなろうと、これだけは――揺るぎないことよ……」


 わしの子、秀頼が生まれる未来を守るためには、これしかない。

 秀吉は心の中で、そう確信していた。 


「…………」


 小西行長は一瞬、目を伏せた。

 だが、彼はただ頭を下げ、答えた。


「ははっ。準備を進めます」


「うむ、任せる」


 秀吉は立ち上がった。

 どこか遠くで、弥五郎の声が聞こえた気がした。

 だが、秀吉は首を振る。


「弥五郎。本当におらんのか。本当に、汝は――」


 なにか――なにかとてつもなく大きなものが、失われた気がした。

 秀吉のつぶやきは、風に消えた。




 1592年の春、豊臣氏は船団を編成し、出兵。文禄の役を開始した。




 唐入りの始まりである。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ