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第五十四話 対馬沖の決戦、終幕

 夕陽が海を血の色に染める。

 俺は火縄銃を握り、甲板に立った。


 目の前には。

 黄金の陣羽織をまとった豊臣秀吉が、胸を血で染めている。

 銃弾が彼の胸を貫いた瞬間、時間が止まったかのように、風も波も静まり返った。


「秀吉。……俺の勝ちだ」


 声は静かだが。

 胸の奥で燃える何かを感じる。


 俺は天下人を倒した。

 豊臣秀吉、戦国の王者を、この手で。この一発で。


 朝鮮出兵は、これで止まるはずだ。歴史を変えた。

 俺の目的は果たされた。

 はずだ。


 天気雨が降り始めた。

 細かな雨粒が頬を濡らし、まるで海そのものが涙を流しているかのようだ。

 波ができて、船体が大きく揺れる。


「――ぜほっ――。――ぜぇほ――ぜぇほ――」


 俺の体は熱を帯び、喉の奥で咳がこみ上げる。

 くそっ、こんな時に……。薬で抑えていたはずの病が、戦いの果てに再び牙を剥く。

 海の果てに目を送ると、加藤、小西の両船団がいよいよ近付いてくるのが見えた。


「加藤……小西……」


 俺はその名を口にして。

 さらに足もとに倒れている秀吉を見た。


 秀吉……

 秀吉よ……


 …………

 いや……


「藤吉郎さん」


 はるか昔の呼び名で秀吉を呼んでしまったのは、そのとき、なにか懐かしい雷の匂いがしたからだろうか。


 雨が激しくなり、雷鳴が轟く。

 どこかで聞いたような声が、聞こえてきた。


 ――もういいだろう。


 ――よくやった。


 ――お前はいま、勝者なのだ。


 ――仲間と共に、道具を作り、知識を活かし、成り上がり、駆け抜けて、ここまでやってきた。お前は充分によくやった。本当によくやった……。


 誰だ。


 誰が俺に向かって、そう言っている?


 ――天下はいま、お前の手の中だ。


 ――お前は勝ったのだ。


 低く、深く響く声。

 誰だ?


 俺の幻聴か。

 それとも神か、仏か。地獄の閻魔か。


 空が裂けるような閃光が海を照らす。俺は思わず手を伸ばす。どこか遠く、記憶の底に沈むような懐かしさ。雷の匂い、雨の冷たさ、かつて戦国に生まれ変わる直前に感じた、あの形容しがたい感覚が全身を貫く。


 この声が、俺の幻聴なのか、それとも何者かの声なのか分からないが、耳鳴りのようになにかが聞こえ続ける。


 ――くやしくて、くやしくて、たまらなかったはずだ。力を尽くしても、泣き叫んでも、吠えても吠えても吠えても、怒り狂っても、自分の力が世の中にカスリ傷ひとつ付けられない。絶望的なまでの自分の弱さに泣き叫んだ過去があったはずだ。


 ――お前にも、秀吉にも。


 ――だが、その過去はいま、終わった。


 ――そうだろう、俊明。


「待て……」


 俺は確かに、勝利の実感を噛み締めてはいたが、同時にまた、なにか言葉にできない無常さも感じていた。そのなにかが、いま、俺の身体を突き動かし、一歩だけ、そう一歩だけ前へと足を進ませた。


 その瞬間だ。

 雷が光り、どこか遠くの海上に落ちた。

 そして――


 閃光。

 目の前が、ただ、白一色。


「待て! 待ってくれ!」


 叫びが喉を裂く。


「俺は……!」


 なにかが俺の身体に直撃した。

 世界が激しく歪んだ。全身が冷たくなった。


 命が燃え尽きるような感覚の中、俺は必死に手を伸ばす。もう一度、伊与の声が聞きたい。もう一度、カンナの笑顔が見たい。次郎兵衛、五右衛門、みんなと――


「俊明!」


 伊与の叫びが、波の音を切り裂いて聞こえてくる。


 伊与……

 伊与っ……!


 俺は手を伸ばした。

 だが、もうなにもつかめない。

 虚空だけが、目の前に広がっている。


 船が大きく傾き、俺の体は――

 意識が闇に沈む。伊与の声が遠ざかる。




「俊明! ……弥五郎! 山田俊明ぃっ、どこだ! どこにいる!」


 伊与の声が海面に響く。

 だが、応える者はいない。

 彼女の刀は血に濡れ、髪は乱れ、瞳は絶望と怒りに揺れていた。


 そのときだ。

 遠くの船で、カンナが叫んでいる。


「伊与! 五右衛門と次郎兵衛は助けたばい! 船に引き上げた! でも、五右衛門は無事やけど、次郎兵衛が水を飲んで、意識が……! こっちになんとか、戻ってきてくれんね!?」


「カンナ! 俊明が……俊明が……! いきなり、どこかに……」


 伊与の声は嗄れ、波に呑まれる。

 カンナが再び叫ぶが、風と波が言葉をかき消す。


「弥五郎が……なに!? 聞こえん!」


「俊明……っ!」


 伊与は船縁にしがみつき、海を見つめる。

 だが、対馬沖の海は無情にも静寂を保っていた。




 そのころ、秀吉の旗艦には加藤清正と小西行長の船が隣接し、そして秀吉のところへ加藤清正たちがやってきた。


 秀吉は胸を血で染めている。だが、「殿下! 殿下!」という加藤清正の大声に、やがてうっすらと目を開けた。


「殿下、ご無事でございましたか!」


「無事に見えるか……」


 秀吉は呼吸も荒く、しかしゆっくりと上体を起こし、


「弥五郎め」


「殿下!」


「さすが我が相棒よ。よく似ておる。なにもかも、わしと似ておる。……まったく……」


 秀吉は、陣羽織の中に手を突っ込んだ。

 すると、ふところから、金や銀の粒が入った袋が出てきたのだ。


「これが弾丸を、すんでのところで止めてくれたのか……。なにかあったときのために、金や銀をいつも持ち歩く、か。……弥五郎め、まったくわしと同じことを……」


「殿下、山田弥五郎は波に呑まれた模様。姿が見えませぬ」


 小西行長の報告に、秀吉は目を細める。


「波に……? 天がわしを助けたというのか。いや、いや……」


 秀吉は、かぶりを振った。


 自尊心を、激しく傷つけられた天下人であった。百獣の王が大敗して、悔しさのあまり雄叫びをあげるかのように、秀吉は天を仰ぎ、


「わしは負けた。弥五郎に討たれたのだ。こんな、ぶざまな負け方があるか。波だろうが海だろうが、弥五郎がもし姿を消さなかったのなら、わしは間違いなく殺されていた。やられていたのだ。こんな勝ちで、天下人を名乗れるか……」


「いいえ、殿下。これは天運でございます、日輪の化身たる殿下をお守りした天の意志!」


 小西行長の言葉を、秀吉は鋭く遮る。


「世辞を言うな、弥九郎(小西行長)!」


 その声は、異様なまでの凄みと覇気を帯びていた。

 小西行長は、はっと叫んでその場に伏せる。

 秀吉は、拳を握りしめ、歯を食いしばりながら加藤清正を振り返り、海を指す。


「虎(加藤清正)。いまからこの海を探しまわり、助けられる者は全て助けろ。敵も味方も関係ない。すべて、だ」


「山田弥五郎も、でございますか」


「すべてと言った。二度も言わせるな!」


「ははっ!」


 加藤清正が船団に指示を飛ばす中、秀吉は山田船団の残骸を指さす。

 あの場所には恐らく、伊与やカンナが、すなわち神砲衆の生き残りがいるはずなのだ。


「弥九郎、あの者たちを捕らえよ。ただし丁重にな。大名を遇するがごとく扱え。あの船に乗る者たちは、わしの――古い顔なじみだ」




 半日後、対馬沖の海は静寂を取り戻していた。


 伊与を仮の頭領とした山田船団は、豊臣水軍に接収され、小西行長の船に護送される。伊与は無言で海を見つめ、カンナは次郎兵衛の手を握り、五右衛門は傷だらけの体で無言のまま、甲板に座り込む。次郎兵衛はなお意識を取り戻さず、微かな呼吸だけが彼の命を繋ぐ。


 伊与たちは、自分たちの負けだと思っていた。

 しかし肝心の指示をくだした秀吉もまた、自分は負けたと思っていた。


 弥五郎は?

 肝心の山田弥五郎自身はどう考えていたのか。

 誰も分からない。弥五郎さえ生きていれば、勝敗がきっちりと決まっていただろうに、と誰もが思った。




 名護屋城に戻った加藤清正は、秀吉の前に跪く。

 秀吉は傷を負いながらも、なお海を見据えている。


「殿下。山田弥五郎は見つかりませぬ。海を捜索しましたが、跡形もなく――」


 清正の言葉に、秀吉は目を閉じる。

 長い沈黙の後、つぶやく。


「捜索を続けよ。弥五郎だけは、見つけなければならぬ」


 夕陽が名護屋の海を赤く染め、波は静かに寄せては返す。




 ……


 …………


 …………――


「…………」


 海の底、冷たく暗い水の中で、俺は目を閉じる。


 伊与の声、カンナの笑顔、次郎兵衛の叫び、五右衛門の軽口――さらにマカオに残した子孫たちが、俺を呼ぶ声も。――藤吉郎や、内蔵助や、久助、あかり、未来、松下嘉兵衛さん、又左――信長公まで――全てが、俺が出会ってきたすべての人の顔が遠ざかる。


 雷鳴が遠く響き。

 俺の意識は闇に溶ける。


「みんな……」


 その声が、俺を包む最後の音だった。




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