第五十三話 弾丸命中
対馬の海は、まるで血の色に染まった夕焼けに呑み込まれていた。
空は燃えるように赤く、海面は波濤の咆哮とともに揺れている。
俺の船団は、残りわずか、兵たちは疲弊し、血と海水にまみれていた。
だが、目の前にそびえる豊臣秀吉の旗艦――金色の瓢箪が夕陽を浴びて眩しく輝く巨船――は、まだ無傷でそこにあった。俺はなんとしても、あそこに乗り込んで秀吉と直接対決をするしかない。
「カンナのいる船のみを現在の場所に残し、残る船は――」
俺は、五右衛門たちをはじめ、海に落ちた兵たちを救助するカンナの船だけはそのままにして、そのうえで命令をくだした。
「全船、突撃!」
俺の声は、波の音をかき消すように甲板に響いた。怯える兵たちの目が俺を見上げる。死を覚悟した顔、希望を失った顔、だが、俺の言葉は彼らの心に火をつける。
「もはや後には退けん! 勝って帰るか、海の藻屑となるか、ふたつにひとつだ! 勝てば黄金を山ほどくれてやる! いくぞ!」
兵たちの目が燃えた。恐怖が、覚悟に変わる瞬間だった。家来たちが法螺貝を吹き鳴らし、船団が一斉に動き出す。残った船はわずか7艘。だが、俺の心は揺るがない。豊臣秀吉をここで止めなければ、未来は血と涙に塗れる。
「弥五郎、死ぬなよ!」
堤伊与が刀を握り、黒髪を夕風になびかせながら叫ぶ。彼女の瞳には、俺への信頼と、戦士の烈火が宿っていた。
「当たり前だ。いくぞ!」
俺はリボルバーを手に、甲板に立つ。波の揺れに合わせて体を低くし、秀吉の旗艦を見据えた。金色の瓢箪が掲げられた船は、まるで海の王者のように威圧的だ。
俺の船団が一気に加速する。
船首が波を切り裂き、白い飛沫が甲板に降り注ぐ。
秀吉の船団から、火矢と火縄銃の弾が雨のように降り注いだ。
バン!
バァアン!
甲板に弾が突き刺さり、木片が飛び散る。
味方の船の帆が炎に包まれ、兵の悲鳴が響く。
「まだだ、負けるな、まだいけるぞ! 沈むなよ!」
敵の反撃は止まらない。
焙烙玉が再び飛来し、俺の船が炎に包まれる。
木が燃える焦げ臭い匂いと、血の鉄臭が鼻をつく。
俺の船はボロボロだ。
船体がきしんで、海水が甲板に流れ込む。
だが、ついに――
俺と伊与の乗る旗艦が、秀吉の巨船に隣接した。
「今だ! 飛び移るぞ、伊与!」
「承知!」
俺は叫び、伊与と共に秀吉の船に飛び込んだ。
瞬間、背後で激しい音がする。
俺の船が焙烙玉の直撃を受け、炎に包まれたのだ。
船体が傾き、ゆっくりとだが、海に沈み始めた。
危なかった。あと10秒遅ければ、俺たちは火か海に呑まれていた。
「俊明、行くぞ!」
伊与が新しく用意した刀を構え、敵兵に突っ込んでいく。
剣閃が、夕陽を切り裂くように敵の首を薙ぎ払う。血が甲板に飛び散り、悲鳴が響く。他の部下たちも続いて戦い、敵兵を抑え込む。
「伊与、ここを頼む! 俺は秀吉を仕留める!」
「分かった!」
伊与の返事を受けると、俺はリボルバーを手に、船の奥へと突き進む。
秀吉の旗艦は、まるで浮かぶ城だ。
甲板は広く、黄金の装飾が施された柱が立ち並ぶ。
敵兵が次々と現れるが、俺は冷静に撃つ。
バァン!
バアァァン!
2発で2人の敵兵が倒れる。
弾はあと1発。心臓が早鐘を打つ。
「武器は、もうないぜ……」
背中に、父親の使っていた火縄銃と、弾丸、火薬など一式。しかしこいつは、武器ではあるが、気合を入れるために装備しているようなものだ。
あとは、弾丸一発のリボルバーのみ。
脇差すら、帯びていない。
持っていた武器や道具は、すべて使い切ったも同然だった。
そのあたりに、なにかないかと見回すが、壊れた板やら、布袋やら、刀の鞘やら、見事なほどに武器はなにも転がっていなかった。
「最後まで、余裕のある戦いはできないんだな……」
俺は苦笑しながら、先へと進もうとして――
そこで若い侍が現れた。俺は弾丸を発射した。
これでリボルバーは、もうただの鉄の塊だ。
俺は徒手空拳で、秀吉のところへ向かわねばならない。
船の最上段に辿り着いた。
そこには、黄金の陣羽織をまとい。
数名の家来に守られた小男が立っていた。
豊臣秀吉。
その顔は、夕陽に照らされ、深い皺と鋭い目が俺を見つめていた。
「弥五郎。よう、ここまで来たわ」
秀吉の声は低く、どこか懐かしさに満ちていた。かつて、戦場で共に笑った日々が脳裏をよぎる。
だが、俺の目は揺らがない。
「藤吉郎――いや、豊臣秀吉。出兵をやめろ」
「それを言うためだけのために、よくぞここまで来たものよ」
秀吉の声には、驚嘆と哀しみが混じる。
やつの目には、俺への敬意と、天下人としての冷酷さが同居していた。
俺は、なお続ける。
「朝鮮に出兵すれば、何万、いや何十万もの命が失われる。民は苦しみ、豊臣政権の命運は尽きる。お前も分かっているはずだ。俺は何度も言った。そして今日もまた、止めに来た」
「ここでわしが死ねば、天下はまた乱れるぞ」
秀吉の言葉は鋭い。
だが、俺は首を振る。
「徳川家康がいる。又左もいる。天下は定まる。無駄な出兵さえなければ、だ」
「あくまでわしを止めるつもりか」
「刺し違えてもな」
俺の言葉に。
秀吉の目が細まる。
瞬間、彼の家来たちが一斉に動いた。
若い武士たちだ。刀を抜き、俺に襲いかかる。
刃が夕陽を反射するが――
「させるか!」
俺は弾切れのリボルバーを左手に持ち、それで刀を受け止める。
ガキィン!
金属音が響き、腕に衝撃が走る。
だが、俺は動じない。
右手に握った隠し武器を振り上げ、敵を思い切りブン殴った。
「ぐはっ!」
隠し武器が武士の顔面に直撃する。鼻血を噴き、彼は甲板に倒れる。続けて、別の武士が斬りかかってきたが、遅い。俺は身を翻し、刀をかわす。武器を振り回し、敵の脇腹に叩き込む。骨まで砕けたような、嫌な音が響き、武士が悶絶する。
「下がってろ、糞餓鬼どもは!!」
俺は怒鳴り、血と汗と海水にまみれた顔で激しくやつらを睨みつけた。
俺だって30数年、数々の修羅場を潜り抜けてきた。
こんな若造どもに、遅れを取るわけがない。
「一度も死んだことのない青二才が! 俺を止められると思うな!」
「弥五郎。……汝、なにを手に持っておる……? ――む……」
秀吉が、俺の右手の隠し武器を凝視する――
西陽が俺の全身を照らしだした。秀吉は目を細めた。俺の肉体は、いま、夕焼けと、そして、恐らくは右手から溢れた金銀の光に包まれて、まばやく煌めいていることだろう――
「それは……金銀か!」
秀吉は、絶句していた。
俺の隠し武器。
それは、布袋に、小粒の金銀や砂金を詰め込んだものだった。
「持っておくもんだな」
俺はニヤリと笑い、布袋を握り直す。
商人の癖だ。俺はどんなときでも、金銀や砂金の類をいくらかは懐に入れていた。いつ、どこでなんの役に立つか分からないからだ。
だが、まさか、この土壇場で武器として使うことになろうとは。
俺自身も驚きだが――
「黄金に殴られて死ぬか、秀吉。天下人にふさわしい終わり方だな」
「ぬかせ、弥五郎!」
秀吉の声が鋭く響く。
そしてやつは、懐からリボルバーを取り出した。
「こいつは、かつてお前に貰ったものじゃ。自分の作った銃で撃たれる。それもお前にふさわしい終わり方よ」
「そんなもので、俺を殺せると思うな!」
「はん!」
秀吉の目が光る。
俺はやつの動きを読んだ。
目線、指の角度――心臓を狙っている。
甘い! 俺は布袋を投げつけた。
バァン!
秀吉の銃弾が袋に命中し、金銀が夕陽の中でキラキラと舞う。
甲板に金銀が散乱し、まるで黄金の雨が降るようだ。
「うおっ……!」
秀吉が動揺したその瞬間、俺は突進し。
そして素手で、彼の右手を思い切り殴りつける。「ぐっ」と声がして、リボルバーが甲板に滑り落ち、くるくると回転して海に落ちる。
「くそっ!」
秀吉が歯ぎしりをした。
そこへ俺は左手のリボルバーを秀吉に向かって突き出した。秀吉は避けようとして、避けきれず、右肩に攻撃を受ける。秀吉は声もなく悶絶し、膝を突いた。
「秀吉――藤吉郎っ……!」
俺はさらに一撃を加えようとして、目が一瞬かすんだ。体調がまた崩れる、冗談じゃない、こんなところで!
俺は攻撃をやめて、背中にあった父の火縄銃を引き抜く。そして16秒で弾丸と火薬を込めた。この弾込めの早さは、戦国時代といえど俺にしかできない早さだ。
「弥五郎……!」
秀吉が叫ぶ。
その手が刀に伸びる。
だが。
遅い。
「――藤吉郎さん」
思わず声が出ていた。
思わず、だ。
それが、長い長い旅路の果てになる一発だと。
俺の本能は、恐らく知っていた。
俺は火縄銃を構え。
引き金を引いた。
バアァン!
夕焼けの中。
黄金色の世界で。
俺の銃弾は、秀吉の胸に命中した。
手応え、あり。
「……弥五郎」
秀吉が膝をつく。その目が俺を見つめる。
そこには、怒りも、憎しみもなかった。
「殿下ぁ! 殿下……!」
遠くから、加藤清正と小西行長の叫び声が聞こえる。だが、遅すぎる。
彼らの船団が近づく中、秀吉は静かに倒れた。
夕陽が彼の顔を照らし、金色の陣羽織が血に染まる。




