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第四十九話 未来へ向かう

「松下さん……!」


 俺は驚愕に目を見開く。


「もう、やめろ。やめてくれないか、二人とも……」


 松下嘉兵衛さんの瞳は深い悲しみに濡れていた。


 その目は、涙すら浮かんでいるように見えた。


 松下嘉兵衛さんは一歩を踏み出す。


 松明の光に照らされた顔に、威厳と絶望が同時に刻まれていた。


「天下一の太閤殿下と、天下一の大商人が、なんたる無様なことか!」


 彼の声は広場に響き、兵たちの動きすら止めた。


「ふたりがどうしてこうもいがみ合う? 争う必要がどこにある? ふたりの力はもっと大きなことに使うべきだ。乱世を統一に導いたふたりが争って、なんの益があるのか!」


 松下さんの声は、まるで乱世の重みを背負った嘆きだった。彼は秀吉を、続けて俺を見つめる。


それがしには、ふたりがうらやましくてたまらなかった。若いころから共にあり、共に戦い、そして覇業を成し遂げたふたりが! そして某は、立場こそ変われど若かりし頃より続くふたりとの絆を誇りに思っていた。それが、それが、このざまか!」


 彼の声は次第に熱を帯び、広場の空気を震わせる。


「ふたりはかつて、共に笑い、共に泣き、共に天下を夢見た友ではないか! 某は、ふたりと共に過ごした日々を、遠江でのあの穏やかな時間を、どれほど愛おしく思っていたか! それが、こんな形で壊れるなど……争う理由はいったい何だ! 教えてくれ!」


「嘉兵衛どの、出過ぎじゃ!」


 秀吉の声は鋭く、しかしどこか動揺を隠せない。


「知らんでいいこともある。下がっておれ!」


「それは某に言えぬことですか、殿下!」


 嘉兵衛は一歩も引かず、声を張り上げる。


「それは某に言えないことですか、殿下! 家来に言えぬような理由でいくさをなさるのか! 情けなや、それが天下人のなさることか! 弥五郎、そなたもだ。いったいどうしてマカオから、こそこそやってくる。なにが理由で出奔したのか、堂々と言ってくれ。それも言えないことなのか!」


「松下さん……俺は……」


 俺は言葉を詰まらせる。


 大樹村での誓い、乱世を終わらせる夢、未来から転生したという事実、そして秀吉の朝鮮出兵への反対――すべてが胸に去来する。俺は思わず口を開き、すべてを松下さんに打ち明けようとした。


 だが、それを言葉にする前に、「殿下!」「ご無事ですか、殿下!」と――秀吉の家来たちが広場に駆けつけ始めたのだ。


「俊明、退くぞ!」


 伊与の声が鋭く響く。


 彼女の刀はすでに血に濡れ、敵兵を次々と倒している。


「これ以上は無理だ。未来を連れて、逃げるぞ!」


「……ちくしょう!」


 俺は一度吠え、退却を開始した。


 次郎兵衛が未来の縄を切り、彼女の軽い身体を担ぎ上げる。


「待て、弥五郎!」


 秀吉の声が背中に響く。


 松下嘉兵衛さんはその場に立ち尽くし、動かなかった。


 彼の目は、遠ざかる俺と、怒りに燃える秀吉を交互に見つめ、ただ悲しみに沈んでいる。


 そしてそれが、この俺が今生で見た松下嘉兵衛、最後の姿だった。




 名護屋城の外、夜の森は闇に包まれていた。


 俺、伊与、次郎兵衛は、未来を連れたまま、木々の間を音もなく駆け抜ける。甲賀で鍛えた忍びの術が、足音を消し、足跡を残さぬよう導く。


 だが、森の隙間から秀吉の家来たちの叫び声が近づいてきた。


「手柄じゃ! 山田弥五郎の首を取れば恩賞ぞ!」


「とらえれば、太閤殿下の寵愛は思いのまま!」


 くそっ……数が多い!


「俊明、先を急げ。敵が多すぎる」


 次郎兵衛が未来を背負いながら走るが、


「アニキ、このままじゃ追いつかれちまうッス」


「分かっている。なんとか船までつけば」


 そのときだ。


「……おい! 山田弥五郎だ!」


「おおっ、こんなところにおったわ! 女もおるぞ」


「山田じゃ、山田どの。おおお、おったわ。殺せ、女もぶんどれ、おい、おおおい――」


 くっ!


 敵が何人も、同時に現れた。


 伊与が再び、鞘から刀を抜こうとしたが、――そのときである。


 しゅっ、しゅっ……!


 闇の中から軽やかな足音が響き、短刀の閃光が敵兵の喉を切り裂いた。


 石川五右衛門だった。


 彼女の姿は、まるで夜の精霊のように現れ、敵を瞬く間に倒していく。


「あんた、本当によく敵に追いかけられるよね。これで何度目だい」


「お前、どこにいたんだ!?」


 俺が叫ぶ。次郎兵衛も、


「全然どこにいるか分からねえから、困ってたんだぞ!?」


 と言った。


「ずっと様子を見てたのさ」


 五右衛門は短刀を手に、軽快な口調で答える。


「太閤の動きを掴んで、マカオのあんたたちに知らせようと思ってた。それでずっと太閤の近くで見張ってたんだが、まさか弥五郎みずから名護屋に乗り込んでくるとはね。あんたらしいけど、無茶だよ」


「とにかく逃げよう!」


 俺は息を切らせながら言った。


「そっちは敵だらけだ。山道を行くよ。大丈夫、うちが先導すっからさ」


 五右衛門が森の奥を指す。

 彼女の目は、夜の闇を切り裂くように鋭い。


 俺たちは五右衛門の導きで森の奥へ進み、名護屋城の追っ手を振り切った。やがて小さな入り江にたどり着き、待機していた小舟に飛び乗る。波が船を揺らし、月光が海面に反射する中、俺たちは対馬へ向けて漕ぎ出した。




 小舟の中で、未来の息は弱っていく。


 彼女の身体はあまりにも軽く、血も涙も、身体中から出し尽くしたかのようだった。


 俺は彼女の手を握り、そばに寄り添った。


 細い。そして軽い。枯れ葉のようだ。


「松下嘉兵衛さまが……先ほど、いたように見えました……」


 未来の声は、涸れ果てた井戸の底から響くようだった。


「ああ、いたよ」


 俺は静かに答える。


「……最後に声が聞けてよかった……昔を……思い出せて……」


 未来の目は遠くを見ていた。


「もういい、しゃべるな」


「……あの頃はみんな笑ってた……楽しかった……それなのに……どうして、あのままでいられなかったのでしょうね……昔のままでよかったのに……」


「乱世がそうさせてくれなかったのだ」


 伊与が未来の手を握り、静かに言う。

 彼女の声は穏やかだが、深い悲しみを帯びていた。


「争いもなく、ただ家族と、想うもののそばで、いつまでもいられたら、どれほど幸せか。……それだけの幸せさえ、乱世は奪っていった」


 伊与の瞳は、未来を見つめながらも、その脳裏に映っている景色は、大樹村なのだろう。


 俺も、思い出していた。シガル衆に襲われる前、いや、転生に気が付く前、完全にただ弥五郎とだけ生きていた12年間を。この時代の両親と、伊与と、村のみんなとで暮らしていた時代を。


 本当に――

 あのままでも、よかったのに……。

 あれ以上は、望まなかったのに。……乱世が……


「乱世は間もなく終わる」


 俺は断言する。


「終わるんだ。確実に」


 未来の目が、かすかに光を取り戻す。


「山田、弥五郎さま……未来は次こそ、泰平の世に生まれることができますか」


 俺は、彼女が自分の未来人としての秘密を知っていたことを思い出す。もう隠すことなどもなにもない。こんなことになるならば、もっと早く打ち明けるべきだった。もっと心を開き合うべきだった。


「できるとも。次こそ、必ず」


「ありがとう。嘘でも嬉しい」


「嘘じゃないさ」


 俺は力強く言った。


「日ノ本は泰平になるんだ。俺はそれを知っている。未来は次こそ、ぜったいに、泰平の時代に生まれて、幸せになるんだ」


「嬉しい……」


 未来は、憑き物が落ちたような微笑を浮かべた。


 俺に対する愛憎も、世の中に対する失望も、すべてを捨てたような顔で、


「次の浮世では、誰も憎みたくない……」


 未来みくは、そのとき。――未来みらいに向かって旅だった。


 誰も、声さえを出さない。


 月明りの下、波打つ海の上で、俺たちは未来を見送った。


 また、……また会おうな、未来。


 ここじゃない、どこか遠い世界で。


 今度こそ、ただ笑い合おうぜ。


 俺はうなだれながら、拳を握りしめた。




 対馬沖に戻った俺たちは、カンナと合流した。カンナは五右衛門との再会を喜び、涙を浮かべて抱きしめる。


「五右衛門! 無事でよかった……! 心配しとったよ、もう!」


「へっ、心配かけて悪かったね」


 五右衛門は笑い、カンナを抱きしめた。


 船団の甲板で、俺たちはひとまず休息を取る。夜の海は静かで、ただ波の音と船の軋む音が響いていた。俺は食事を摂って、水をぐいっと飲み干してから、天を仰ぎ、星を眺め――げほっ――


「……げほ?」


 俺はまた、咳をしたのか?

 どうしてだ。俺の身体は、七海が持ってきてくれた薬で治ったはず……。


「げほ……げほっ、げほ、げほっ! ……く……」


「俊明? ……どうした?」


「……いや……」


 俺は、声をかけてきた伊与に、微笑を向けた。


「……なんでもないさ……」


 ……まだ。


 死ぬわけにはいかない。


 もう少し、あと少しでいい。……もってくれ。




 次の日の昼、水平線のかなたに無数の船団が現れた。


 豊臣水軍だ。その水軍が、弥五郎を討つために動き出したのだ。船の数は数十艘。まるで海そのものが迫ってくるような感覚を俺は覚えた。


「ついに、きたか……」


 俺の声は低く、決意に満ちていた。


 ずいぶん早いと思ったが、しかし、俺たちが小舟に乗って対馬沖へ逃げているとき、すでに船団は発進していたのだろう。……豊臣水軍の編成は完了していないはずだが、未完成のまま、対馬にやってきたのか。


 そのときだ。

 次郎兵衛と五右衛門が同時に叫ぶ。


「アニキ! あの大きな船に、秀吉本人が乗ってる!」


「なに? ……なんだと!?」


 俺は身を乗り出したが、俺の目ではとても見えない。


「本当だよ。影武者じゃない。太閤本人だ。まさか海の上まで来るなんて……」


「五右衛門が言うなら本当やろうね。……弥五郎、どうなん。この時期に、太閤が……船に乗って、やってくるなんて、ありえるん?」


「俺の知識にはない。秀吉は朝鮮に渡ろうとするが、徳川家康と前田利家に止められるはずだ。それが――確かに、家康も又左も、まだ名護屋に来てはいなかったが……まさか……藤吉郎……いや、秀吉。あいつ、じきじきに俺を倒しに来たか!」


 あいつは。

 俺との戦いだけは。

 誰にも、委ねられなかったんだ。


 他の誰かなら知らず。

 この俺との戦いだけは。


「俊明。もはや太閤を説得する段階は終わった」


 伊与の声は冷静だが、目に燃えるのは戦士の覚悟だ。


「ここで豊臣水軍と戦って勝つか、マカオへ逃げ帰るか。ふたつにひとつだ」


 俺は水平線を見据える。カルバリン砲の射程を用いれば、あるいは……。俺は海戦に不慣れだが、秀吉だって同じはずだ。あいつは海戦の経験が少ないはずだ。しかも船団は完全には整っていない。ならば、いかに数で劣るといっても、俺たちなら……


 いや――計算じゃない。計算だけじゃない。俺はどうするべきか。俺はなにをしたいのか。俺が、いま、ただ、するべきことは――


「戦う。秀吉を倒す。豊臣船団を完全に沈没させる。そして出兵を止める!」


 戦いを止めるために戦うとは、本末転倒だが――その本末転倒をずっと繰り返して、ここまでやってきた。……だが、これが、今度こそ、本当に、最後の戦いにしてみせる……!


 俺が宣言した瞬間、みんなが、息を呑んだのが分かった。


「伊与、カンナ、次郎兵衛、五右衛門、俺と一緒に戦ってくれ。乱世を本当に終わらせるために、最後の戦いを行う!」


「やるか」


  伊与が刀を握り直す。


「もう、逃げるのはごめんやからね」


 カンナが力強くうなずく。


「合点ッス」


 次郎兵衛が拳を握り、忍び装束を整える。


「天下人相手のいくさとは、光栄じゃないか」


 五右衛門が短刀を手に笑う。


 豊臣水軍の船団が、ゆるやかに近づいてくる。


 ごほっ。


 ごほっ、ごほ――ご。


 胸の奥から出てくる咳を、飲み込みながら、俺は船団を一直線に見据えた。


「藤吉郎。これが最後の戦いだ。乱世を終わらせ、未来を守るために――」


 船の甲板が揺れ、波がうなりを上げる。


「いくぞ、みんな!」


 俺と、豊臣秀吉。


 最後の戦いが始まろうとしていた。



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