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第四十七話 名護屋城、再会。俊明と秀吉

 1592年2月、肥前国の名護屋城。


 まだ建設途中の城は、木材と石垣の匂いに満ち、夜の闇に松明の炎が赤々と揺れていた。


 城下の広場には、粗末な木の柱が一本、地面に突き刺さっている。


 その柱に、縄で縛られた一人の女性が立っていた。


 未来みくだった。


 未来は、40歳を少し過ぎたばかりのはずだった。だが、その姿はまるで老婆のようである。


 かつての黒髪は白く色あせ、乱雑に顔に張り付き、滑らかだった肌は干涸らび、皺とシミに覆われている。瘦せこけた身体は、ぼろぼろの麻布に包まれ、肩からずり落ちた布が、彼女の骨ばった鎖骨を露わにしていた。


 両腕は背後の柱にきつく縛られ、縄が皮膚に食い込んで赤黒い跡を残している。彼女の目は、かつては情熱と憎しみの両方に燃えていたが、今は虚ろで、ただ空を見上げるだけだった。


「弥五郎……山田弥五郎……弥五郎、藤吉郎……おう、おう、おう……」


 未来の声は、掠れ、途切れ、まるで風に散る枯れ葉のようだった。


 涙さえも涸れ果て、彼女の口からはただ呻き声とも呪詛ともつかぬ言葉が漏れる。


 山田弥五郎を愛し、憎み、追い求め、刃を向けたこともあった未来だった。


 だが、あらゆる情熱は全て、長い幽閉の年月によって砕かれていた。大坂城の暗い牢で過ごした数年は、彼女の心と身体から若さと理性を奪い去ってしまったのである。未来は、ただ壊れた人形のようであった。


「弥五郎……さま……わ、た、く、し、は……あ、な、た、を……。……ちちうえ……ははうえ……わ、た、く、し、は……」


「なにをブツブツ言ってんだ、このババアは」


「さあな。もう頭がおかしいんだろう」


 広場の周囲では、豊臣軍の兵士たちが松明を掲げ、冷ややかな目で縛られた未来を見つめている。彼らにとって、彼女はただの道具だった。秀吉の策略のための、哀れな囮。


 だが、未来の耳には、彼らの囁きも、松明の燃える音も届かない。


 彼女の意識は、過去と現在を行き来し、弥五郎の笑顔や、周囲の冷たい目、かつての自分自身の輝きに囚われているようだった。


 そのとき広場に、豊臣秀吉が現れた。


 秀吉の顔には、愛憎が入り混じった笑みが浮かんでいる。彼はゆっくりと未来に近づき、柱の前に立ち止まった。


 松明の光が、彼の皺だらけの顔を照らし、その目が爛々と輝く。


「さあ、弥五郎、出てこい!」


 秀吉の声は、広場に響き渡った。


 低く、しかし抑えきれない興奮を帯びている。


 彼は未来を睨みつけ、まるで彼女を通して、遠く対馬沖にいる弥五郎を見ているかのようだった。


「このために、この女をわざわざずっと捕まえ、そしていま連れてきたのだ! 弥五郎、出てこい! そして――もう鬼ごっこはしまいだ! 再び我が盟友となり、力を貸せい!」


 未来は、秀吉の声を聞いてかすかに身じろぎした。


 彼女の唇が震え、またしても呻きが漏れる。


「藤吉郎……お前……弥五郎を……なぜ……おう、おう……」


 その声は、まるで壊れた楽器のようだった。かつての未来なら、秀吉に刃向かい、気丈に振る舞ったかもしれない。


 だが、いまの彼女には、もうそんな力は残っていない。


 彼女の心は、過去の記憶と現在の絶望に引き裂かれ、ただ繰り返し、弥五郎と秀吉の名を呼ぶだけだった。


 秀吉は、未来のそんな姿を見て、なお冷たい瞳である。


「哀れな姿よな。汝はかつて、飯尾家の姫として、気高く、美しかった。弥五郎を愛し、また刃を向けたその気魄、わしは嫌いではなかったぞ。だがな……」


 秀吉は一歩を踏み出し、未来の顎を乱暴につかんだ。


 未来の虚ろな目が、秀吉の顔を捉える。


 だが、そこには何の感情も宿っていない。


「汝は、弥五郎を呼び寄せるための餌にすぎん。わしはな、弥五郎をこの手で取り戻す。……まだ見ぬ子のために……そして、その後にも永遠に続く豊臣の御世のために……!」


 未来の身体が、わずかに震えた。


 彼女の唇から、よだれが一筋、顎を伝って落ちる。


 秀吉は手を離し、汚物でも払うように手を振った。


 そして秀吉は、未来を一瞥したあと、広場の兵たちに命じたのである。


「この女を、夜通しここに晒せ! 弥五郎が来るまで、決して縄を解くな! ただし、殺してはならん。水とかゆだけは与え続けよ。……そして、対馬沖の船団が動いたとあれば、すぐにわしに知らせろ!」


「「「ははっ!」」」


 兵たちが一斉に頭を下げる。


 秀吉は、広場を後にした。


 未来は、柱に縛られたまま、夜の冷気に震えた。


「弥五郎……藤吉郎……松下嘉兵衛……遠江……あ、の、こ、ろ、は……おう……おう……」


 彼女の声は、まるで幽鬼の嘆きである。


 名護屋城の広場は、静寂に包まれた。松明の炎だけが、未来のやせ細った姿を照らし続け、彼女の嘆きを夜空に響かせていた。




 対馬沖の海は、夜の帳に包まれていた。


 俺の船団、200艘の船が波間に揺れ、ポルトガル製のカルバリン砲が月光に鈍く光る。


 俺の目の先には、対馬の島影が黒い影となって浮かんでいたが――


 そのときだった。小舟が俺の船団に近づいてきて、乗っていた男がそれっとばかりに俺の船に飛び乗ってくる。そして男は次郎兵衛に、なにやら耳打ちをした。次郎兵衛は血相を変えて、


「アニキ、情報が入りましたぜ。名護屋城で、あの未来が、はりつけにされているそうです」


 その言葉に、心臓が一瞬止まった気がした。


「未来が……磔だと?」


「ええ。生きてはいるようですが、もう髪も身体もボロボロになって、アニキの名前を呼び続けている、と」


「俺のことを……」


 声が震える。


 未来。かつて俺を愛し、憎み、彷徨ったあの女。


 秀吉に捕らえられているのは知っていたが、まさか名護屋にまで連れてくるとは。しかも、こんな目に……。


「藤吉郎の仕業だ。あいつめ、俺をおびき寄せるために策をろうしたな!」


 拳を握りしめ、歯を食いしばる。


 未来のやせ細った姿を想像する。


 かつての美しさは失せ、ただ嘆くだけの影となっている彼女の姿を思い浮かべるのは、容易だった。……未来! なんてことだ。殺されるよりも哀れだ……!


「俊明、どうする?」


 伊与が静かに問うてきた。


 黒髪を夜風になびかせた彼女は、鋭いまなざしで俺を捉えている。


「……藤吉郎が、ここまで情けを失うとはな……」


「しかし、昔からそういう一面のある方でもあった。敵となった人間には容赦をしない」


 確かに……。


 信長公の下で、毛利家を攻めているころ、秀吉は兵糧攻めや水攻めなど、敵の嫌がることを容赦なく行っていた。……それはいくさなので当然ではあったし、俺もそれに手を貸していたが……


 そういう一面が、若いころからあいつにあったことを俺は否定できない。


 情けと優しさを持つのが秀吉なら、敵対者を知恵の限り痛めつけるのもまた秀吉という男なんだ。


「……これは罠よ、弥五郎。出ていったら、あんたは……」


「分かっている。だが」


 カンナの言葉に、俺は答えた。


「見捨てるわけにはいかない。未来が、そこまで俺を求めているのなら」


 敵でもあった未来。殺そうと考えたこともある未来。


 そして、マカオに逃げたあと、……どうなったか気にしてはいたが、ついに見捨てる形になってしまった未来。


 俺だって、彼女に対する思いは複雑だ。


 このまま見捨てるのも、当然の考えかもしれない。


 だが、


 ――もう髪も身体もボロボロになって、アニキの名前を呼び続けている。


 こうまで聞かされたら、救わないわけにはいかないだろう。


 未来をこのまま放置すれば、俺はもう俺じゃなくなる。


「名護屋へ向かい、未来を助ける。ただし、こっそりと、だ。……カンナはここに残ってくれ。船団は任せる。名護屋に行くのは俺と伊与、次郎兵衛だ。ついてきてくれるか?」


「無論だ」


「合点ッス。アニキの行くところ、どこまでもあっしも行くぜ」


 次郎兵衛がニヤリと笑い、忍び装束の袖をまくる。


「絶対、生きて帰ってきいよ、弥五郎」


 カンナの声が少し震えた。


 俺はうなずき、彼女の手を軽く握った。


「約束するさ」




 翌朝、俺たちは小型船に乗り込み、対馬沖を離れた。


 まず目指すは壱岐だ。そこで俺たちの船をいったん下りてから、壱岐の民に銭を払って漁船を借り、漁民に化けて九州本土に上陸する計画だ。そこからは――


 船の舳先に立ち、俺は21世紀の知識をフル回転させる。


「俊明、壱岐までの航路はどうする?」


 伊与が舵のそばで問う。


「壱岐は対馬と九州の中間点だ。これは俺の未来の知識なんだが、潮流と風向きを考えると、北西の風が強いこの時期は、対馬の東側から南下し、壱岐の西岸に着くのが早い。この時期の壱岐近海は比較的穏やかだ。……ま、多少の誤差はあるだろうが、俺の記憶と計算なら問題ない」


「相変わらずだな、俊明。未来の知識をこんな風に使うとは」


「さすがアニキ、抜かりねえッス」


 数時間後、俺たちは壱岐の西岸に到着。岩だらけの浜に船を寄せ、俺たちは素早く上陸した。


 すると、漁村の小さな集落が見える。


「次郎兵衛、漁民に交渉だ。金は惜しまない。このあたりならば、銭よりも金銀のほうがいいかもしれんな。とにかく漁船を貸してくれるよう、頼め」


「合点ッス!」


 次郎兵衛は軽い足取りで漁村へ向かい、ほどなくして戻ってきた。


「アニキ、話ついたぜ。漁船1艘、明日の朝までには準備できるって。ついでに、漁民の服も借りてきたッス」


「よし、よくやった。……伊与、夜まで休息だ。体力を温存しておく」


 その夜、漁村の片隅で焚き火を囲みながら、俺は名護屋城の間取りを頭に叩き込む。21世紀の歴史書や博物館の資料で見た名護屋城の復元図が、鮮明に浮かぶ。


「名護屋城はまだ建設中だが、本丸と二の丸はほぼ完成している。藤吉郎は天守にいる可能性が高いが、未来が磔にされてるのはおそらく城下の広場だ。……警備は厳重だろうが、建設中の三の丸の南側は資材置き場になっているはず。そこから忍び込めば、監視が薄い」


「俊明、その知識は確かなのか?」


 伊与が眉を寄せる。


「21世紀の考古学調査に基づいてる。名護屋城の南側は、資材運搬のために道が広く、夜間は人気が少ない。そこをいけば……」


 しかし問題は、未来に接近したあとだな。


 見張りの兵もいるだろう。その兵をすばやく倒し、夜の間に未来を連れて名護屋を離れることができればいいのだが。




 翌朝、漁民の服に身を包んだ俺たちは、漁船で九州本土へ向かった。名護屋城南にある、いわゆる仮屋湾の小さな入り江に上陸し、そこから陸路で名護屋を目指す。


「俊明、名護屋まではどれくらいだ?」


「ゆっくり歩いても2刻(4時間)。夜までには着けるはずだ」


 森の中を抜け、街道を避けながら進む。俺と伊与は、若い頃に甲賀の里で学んだ忍びの術を思い出しながら進んだ。和田惟政さんの依頼で甲賀にしばらく住んだときに覚えた技だが、年をとっても使えるもんだ。自転車みたいなものだ。一度身体が覚えると、いつまでも使える。


 木々の間を音もなく進み、足跡を残さない歩き方だ。


 その中でも次郎兵衛は、さすが本物の甲賀忍者、俺たちよりも達者に、まるで影のように動く。


 夜が更ける頃、名護屋城のシルエットが遠くに見えてきた。


 建設中の城は、松明の光に照らされ、巨大な影を地面に投げかけている。


「よし、ここからだ。資材置き場の南側へ迂回する。次郎兵衛、見張りの位置を確認しろ」


「合点ッス!」


 次郎兵衛が闇に消える。数分後、戻ってきた。


「アニキ、資材置き場は予想通りガラ空きッス。見張りは2人だけ。広場の方に兵が集中してるみたいだ」


「よし、行くぞ」


 俺たちは資材置き場の木箱や木材の陰を縫って進む。


 名護屋城の南側は、俺の知識通り、建設資材でごちゃごちゃしている。監視の目が届きにくい。


「俊明、この先は本丸に近い。警備が厚くなるぞ」


 伊与がささやく。


「わかってる。広場は本丸の東側だ。そこまで抜ける。……次郎兵衛、縄と鉤を準備しろ」


 城壁の隙間を登り、俺たちは二の丸の裏手に忍び込む。


 広場の松明の光が、遠くに見える。


 そこに、未来が磔にされているはずだ。


 広場に近づくと、未来の姿が見えた――が……


 あれが……あれが未来か!?


 白髪でやせ細り、かつての美貌は跡形もない。なんて、なんてことだ……。


 彼女はうつろな目で空を見上げ、呻くように呟いている。


「弥五郎……山田弥五郎……藤吉郎……おう、おう……」


 胸が締め付けられる。あの未来が、こんな目に……。


 かつて、藤吉郎たちと遠江の飯尾家に潜入したとき、小さな女の子がいて、遊んで、遊んで、とせがんできた。俺は確か、そう、いま思い出した。竹とんぼみたいなのを作ってやったんだ。未来はにっこりと、そのとき笑って……それが……それが……


「俊明、落ち着け。見張りがいる」


 伊与が俺の腕をつかむ。


 広場には兵が100人ほど。


 松明の光で、未来の周囲は明るく照らされている。


「次郎兵衛、右側の見張り2人を眠らせろ。俺と伊与で左側を片付ける」


「合点ッス」


 次郎兵衛が闇に溶け、瞬く間に2人の見張りが音もなく倒れる。俺と伊与も、忍びの技で左側の兵士に音もなく近づき、伊与はみねうちで、俺はリボルバーで敵の後頭部をブン殴り、昏倒させる。


「よし……これでいい。あとは未来だ……」


 未来の磔台に近づき、縄を切ろうとしたその瞬間――


 バチバチと松明が一斉に掲げられ、闇が裂けた。


「やはり来たな、弥五郎!」


「うっ!?」


「嬉しいぞお……! わっはっは……!!」


 秀吉の声が響く。陣羽織をまとい、にやりと笑うその姿が、松明の光に浮かび上がる。背後には、数十人の兵士。


「藤吉郎……!」


「未来を見捨てる汝ではないと思っていた。いや、未来を見捨てるような山田弥五郎ならば、もう要らぬとさえ思っていた。……山田弥五郎、よくぞ参った、我が名護屋城に!」


 秀吉の目が爛々と輝く。


 狂気じみた笑みさえ浮かべて。


「俊明、罠だ! 退くぞ!」


「…………」


「俊明!」


 罠、か。


 確かにそうだが……


 しかし、俺は心のどこかで、この展開になると覚悟をしていたような気もする。


 秀吉が俺を待っていたように、俺もまた秀吉が出てくるのを待っていた。


 俺は未来を一瞥し、彼女のうつろな瞳と目を合わせた。


 そして、秀吉を睨み返す。


「藤吉郎。未来をこんな目に遭わせるとは! 情も義理も失ったか!」


「情? 義理? ハッ! 汝に言われる筋合いはないわ、弥五郎! もともとわしがこの女に優しくする理由などひとつもないのだからな! 殺さずに生かしてやったことを感謝してほしいくらいよ。……それにしても、本当に嬉しいぞ、弥五郎。よく来てくれた。何年ぶりじゃ? ……我が盟友よ!


 弥五郎、汝だけは特別のうちの特別。いさかいはあったが、すべて忘れよう。いまからでも遅くはない、弥五郎、再びわしの下に戻ってこい。共に天下を泰平に導こうではないか。……あの大樹村の誓いを、守るために!!」


「藤吉郎……!!」


 俺は、目の前にいる藤吉郎を――豊臣秀吉を、睨みつけた――


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