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第四十六話 対馬の風、名護屋の波

 1592年1月のマカオである。


 俺は、二本の足で床を踏みしめると、窓を開けて、南国の風を浴びていた。


「弥五郎。あんた、立ち上がってよかとね!?」


 部屋に入ってくるなり、カンナが素っ頓狂な声をあげる。


 俺は微笑を浮かべて、振り向いた。


「ありがとう、カンナ。もう大丈夫だ。身体はすっかり元気になったさ。……次郎兵衛と七海のおかげでな」


 部屋の片隅で、次郎兵衛と七海が薄く笑った。


 マカオにやってきたふたりから貰った渡された薬は、じつによく効いた。飲んで、数日で、ぐっと体力が回復したのだ。


「さすが、大和大納言御用達の漢方だな」


「……小一郎も、逝ってしもうたんやね」


 かつて商いのイロハを教えた豊臣秀長が亡くなったことを、カンナは心から悲しんでいるようだった。


「みんな、いなくなる。千利休も亡くなった」


「私はあまり好きではなかった」


 部屋に入ってきた伊与が、静かな声で言った。


「しかし、それでも巨星だったことに違いはない」


「ああ。千利休の茶ははるか未来にまで伝わる茶さ」


「……未来……?」


「あとで説明するさ。……していいッスよね? アニキ」


 首をかしげている七海に、次郎兵衛が笑顔を向ける。


「任せる。……さて、それよりも、そろそろ藤吉郎を食い止められる最後の時期だ」


 もはや、豊臣秀吉の朝鮮出兵までは間がない。


 このころ、秀吉は肥前の名護屋なごやという場所に、出兵のための基地として巨大城郭を築き始めている。なぜ名護屋なのかというと、朝鮮出兵のための前線基地として場所が適格だったからと、秀吉の故郷の那古野と同じ名前だったからだ。


「俺が病で倒れている間も、みんなが交易に励み、船を買い求めてくれた。おかげでいま、マカオには俺たちの船が20艘、揃っている。しかも最新のカルバリン砲を複数、取り付けたものだ。……藤吉郎は朝鮮出兵のために700艘を超える船団を編成するはずだが、カルバリン砲は持っていないはずだ。武装についてはこちらが有利だ」


 このカルバリン砲はポルトガル商人のレオンに用意してもらったものだ。


 俺の体調さえ万全なら、こいつを改良することもできたのだが、そこまではできなかった。


 だが、これだけでも十分、威力はあるはずだ。


「この船団を、対馬沖に進め、豊臣軍の進軍に対する壁とする。同時に藤吉郎への威圧とするわけだ。……そのうえで、カンナ。マカオ在住の日本商人に銭で依頼してくれ。北部九州に上陸し、兵糧や弾薬をひたすらに買い求めてくれ、と。相場よりも高値で買うといえば、売る者も出てくるはずだ」


 そうすれば名護屋城の豊臣軍は、兵糧や弾薬、武器を失い、出兵どころではなくなる。

 船団による脅しと壁。秀吉軍の物資の軽減。これで出兵を食い止める策となる。


「しかし、俊明。その策は一時しのぎでしかないぞ」


 と、伊与が言った。


「いかに最新の大砲を備え付けていても、20艘で700艘を相手に戦うのは無理だ。ひと戦、ふた戦はなんとかなっても、長期戦では必ず負ける」


「それを言うなら、兵糧買い上げも限界があるばい。豊臣軍は日ノ本全部から兵糧や弾薬を集めてくるやろうし、あたしらがどれだけ買い占めても大した損害は与えられん。……本当に一時しのぎよ」


「ついでに、アニキ。……対馬沖で豊臣軍と戦っていたら、へたすると朝鮮軍があっしらを攻めてくる可能性がありますぜ。あっちからしたら、同じ日本の水軍なんだし――いや、そうだアニキ、それならいっそ、朝鮮と同盟を結んだらどうッスかね? そうしたら……」


「それはしない。俺はあくまで藤吉郎の出兵を阻止したいのであって、日本と戦いたいわけじゃない。ついでにいえば、できれば豊臣軍と海戦さえしたくない。カルバリン砲の艦隊をずらっと眺めて、豊臣軍が士気を失い、戦をやめてくれるのが一番だと思っている」


「それは――さすがに無理だろう、俊明。いくらなんでも……」


「そうかな。立ち回り次第ではそれも可能だと思っているがな」


「どういうことッスか?」


「このころ、史実では小西行長と対馬の領主である宗氏が、朝鮮と日本の仲立ちをしようと奔走している……」


 俺は自分の知っている史実を伊与たちに語った。


 このころ、豊臣軍は1592年2月に朝鮮半島を通って、明に攻め込むつもりでいた。


 しかし、秀吉子飼いの武将である小西行長と、対馬の領主である宗義智そうよしとしが、「朝鮮の様子をもう少し確かめてからにしては」と秀吉に進言した。


 なぜ、そうなったのかというと――


 もともと秀吉は、明に攻め入るために、対馬の領主である宗氏や小西行長を通して、朝鮮に対して「明に攻め入るので道案内をせよ」と命令していた。


 しかし朝鮮は日本の属国でも同盟国でもなく、むしろ明との交流が深い国なので、そんな命令を聞くはずがない。だからと言って秀吉の命令に逆らえない小西と宗は、


「朝鮮は秀吉さまの家来になると言っております」


 と秀吉に嘘をついた。秀吉はそれを信じており、明まではノンストップで進軍できると信じていた。


 実際は違う。

 だから豊臣軍が朝鮮に上陸すれば、朝鮮は豊臣を追い返そうとするだろう。そうなれば朝鮮と豊臣の全面戦争になる。そして小西と宗は、秀吉から「どういうことだ、話が違うぞ、お前たちはわしに嘘をついたのか」と追い詰められるだろう。


 そこで小西は必死になって、ウソがばれないように、そして朝鮮と豊臣の戦いが起こらないように立ち回っている――

 というのがいまの時期の日朝関係なのだ。


「いままさに、小西と宗が豊臣と朝鮮の仲立ちをしている真っ最中ってわけだ。ここに俺が介入していけば、対馬沖はいよいよ大混乱だ。小西は、出兵の大延期を藤吉郎に申し出るだろう。というより、そうするしかないわけだ。豊臣軍の船団が朝鮮に向かうのは必ず遅れる」


「遅れさせて、そのあとはどうするんだ、俊明」


「文禄2年……1593年8月3日に豊臣秀頼が生まれる。それまで遅れさせるんだよ。なんとしてもな」


「あと1年半もあるやん! 相当長いばい。そりゃ無理やろ……」


 と、カンナが言ったが、


「無理でもやらないといけないのさ」


 ひとりでも多くの命を助け、また平和な未来にするために、俺はこれまで戦い続けてきた。

 マカオで病となり、さらにそう思うようになった。苦しみや悲しみは、わずかでも少ないほうがいい。


 窓の下を眺めると、ちょうど、樹と牛神丸、そして仁の3人が揃って、笑いながら会話をしていた。


 ……あいつらは、対馬沖には連れていけないな。

 俺にこの先、なにがあっても、あいつらはマカオで平和に暮らしてほしい。幸せをかみしめてほしい。……


 ああいう若者たちや子供たちを増やすために、俺はこれまで戦い続けてきたんだ。

 そして、これからも――


「それに……俺は大坂を去るとき、藤吉郎の弱点を見つけたいと思った。その弱点はなにかを考え続けていたが……思いついたよ」


「なんだと。それは本当か、俊明」


「どげな弱点ね。あの人にそんな弱点、あると?」


「あるさ。……たったひとつな」


 俺は瞳を光らせた。


「言うべきときがきたら、必ず言う。……藤吉郎にとって、恐らく最大の……俺にしか分からない弱点があるんだ……」


 俺の言葉に、伊与とカンナは、顔を見合わせていた。


「――しかし、こんなときに五右衛門がいてくれたらな。……連絡がうまくつかないだけだと信じたいが……」


「あっしがまたお助けしやすよ、アニキ」


「ああ、頼むぜ、次郎兵衛」


 俺は次郎兵衛の肩を、ぽんと叩いた。




 対馬沖に謎の船団が現れたという情報は、すぐに京にいる秀吉と、その側近衆に伝わった。


 海賊でも現れたのかと、秀吉の側近たちは考えた。


 しかし秀吉は冷静に、


「その船団は、どこから来た。数は。武装はしておるか」


「さて、それは――」


「はよう確認せい、たわけ!」


「はっ!」


 そして半日後、若い側近は改めて秀吉の前に現れて、告げた。


「マカオよりやってきた船団の模様です。数は15か20ほどで。その船も巨大な南蛮大砲を備え付けているとのこと――」


「弥五郎じゃ!!」


 秀吉は、ばぁんと膝を叩き、飛び上がるように立ち上がった。


「弥五郎じゃ、山田弥五郎がついに現れおった! あいつめ、マカオでくたばるタマではないと信じておったわ!」


 なぜ、秀吉がそれほどまでに嬉しそうなのか、側近たちは理解ができなかったが――


「それにしても、船団と大砲か。やつめ、そういうことをするとわしは確信していた。相変わらずよ。憎たらしいほど、相変わらずよ、わっはっは!!」


 秀吉はしばらく、馬鹿笑いを続けていたが、やがて、


「よし、わしは名護屋へ参る」


 と宣言し、側近たちを驚かせた。


「名護屋城はまだ完成しておりませぬ。船団の編成もまだできておらず、恐れながら、いましばらく、名護屋のほうは小西さまや他の皆様にお任せして――」


「名護屋や朝鮮のことは、他の連中にいくらでも任せられるがな」


 秀吉は、にやりと笑った。


「弥五郎のことだけは、わしが片付けねばならんのよ」


 側近たちは、そのときの秀吉の凄まじい笑みに戦慄した。

 生き別れの親と再会しようとしているような、あるいは前世からの宿敵に戦いを挑もうとしているような、おぞましいほどの愛憎に満ち満ちた、しわくちゃの笑顔であった。


「大坂城より兵を出す。また、こたびの名護屋ゆきには、茶々と、そして松下嘉兵衛を連れていく」


 またも異例であった。

 側近たちはまた驚いた。


 茶々はまだわかる。

 長子、鶴松を出産した秀吉の側室。


 秀吉はここ最近、とにかく茶々がお気に入りで、昼でも夜でも機会さえあれば彼女のもとを訪れる。再び子供を作ろうとしているのでは、というのが皆の見立てであったが――


 だが、松下嘉兵衛。


 彼は秀吉にとって『旧恩在りし者』らしく、遠江に16000石を与えられていたのだが、人がよすぎて政治にはあまり向いておらず、豊臣政権では重鎮とは言えない。しかし、その嘉兵衛をなぜか名護屋に連れていくというのだ。秀吉は。


 ……なぜ……?


「ああ、それと」


 秀吉はさらに言った。


「大坂城から、あやつも連れていく」


 そのとき秀吉が出した人物の名前を聞いて、側近たちはいよいよ首をひねったものである。




 肥前の名護屋城――


 1591年の夏から築城が始まったこの城は、朝鮮出兵の前線基地であり、城下には諸大名が集まり、兵糧や武器が運び込まれている。


 だが最近、異変が起きていた。


 北部九州の兵糧が、謎の商人に高値で買い占められ、運び込まれるはずの兵糧の量が、滞り始めたのだ。名護屋の豊臣家臣団は、名護屋城に到着した秀吉に、おそるおそるそのことを伝えると、秀吉は「ふん」と鼻で笑い、


「やの字が、小細工をけしかけておるわ」


「やの字、と申しますと……」


「やの字はやの字よ。米の買い占めなどはのう、わしやあいつにとって得意中の得意な策なんじゃ。汝ァ、そんなことも知らんか!」


「恐れ入りまする……」


 若い側近は、ただ震えた。


「ふん。若いやつらは、真っ正直なけんかしかできんと見える。のう、嘉兵衛どの」


「は……」


 秀吉に従う松下嘉兵衛は、やや童顔なので若く見えるが、髪はもう真っ白である。


 その嘉兵衛を従えて、秀吉は、陣羽織をまとい、まだ普請中の城の天守にのぼると、まっすぐに北の海を眺める。


「……関白、いえ、太閤殿下。弥五郎の船団は対馬沖に留まり、動かない様子です」


 松下嘉兵衛が慎重に報告する。


「対馬の宗氏も、新装備を整えた謎の船団を相手にどう行動したらいいものか、判断に困っているとのこと。……殿下、いかようになさいますか。……いえ、そもそも対馬沖の船団は、本当にあの弥五郎の船なのでしょうか」


「無論。ここで対馬に船を送ろうなどと考えるのは……いや、それができるのは弥五郎以外におらぬ。嘉兵衛どのも、それは分かっておろうが」


「は……」


「……弥五郎。わしは出てきてやったぞ。さあ、どうする。どうするのじゃ、山田弥五郎……」


 秀吉は、笑みを浮かべながら――


 かたわらの、茶々――淀殿と呼ばれている女性を、ぐいと抱き寄せた。


 名護屋であろうが、どこであろうが、秀吉はこの女性を毎日毎晩、抱くつもりでいる。それは愛があるからではなく、まだ見ぬ我が子、豊臣秀頼を孕んでもらいたいからだ。出産してほしいからである。――それはもう、誰の目から見ても明らかであった。秀吉は甥の秀次に関白の座を譲りつつも、できるならばやはり子供を作って、次世代を我が子に譲りたいのであろう、と。


 松下嘉兵衛は、頭を下げながら、思う。


(茶々さまも、おかわいそうに。……心も、身体も、求められてはおらず。ただ、出産のみを求められるとは……)


 側室とは元来、そういうものかもしれない。

 しかし松下嘉兵衛が生来持っている優しさが、そう思わせた。


(……殿下も……藤吉郎も、昔はこういう人物ではなかったのに……子供のことになると、別人のように……。……それにしても、藤吉郎と弥五郎が、仲直りをしてくれないだろうか……)


 そして嘉兵衛は、みずからの無力を呪う。

 弥五郎と秀吉、そのふたりと若いころからの友人でありながら、ふたりの対立を仲介することができない自分の無能。松下嘉兵衛という男の、限界。


(前田利家や徳川家康、黒田官兵衛でも仲介できぬものを、某ができるはずもない。だが、ああ、もっと、強さがほしい……強さがあれば……)




 対馬沖――


 俺の船団、20艘の船が波間に揺れる。


 ポルトガル製の大砲を備えた船は、小規模だが脅威のはずだ。


 俺は船の甲板に立ち、対馬の島影を眺める。対馬の宗氏がどう動くかを、よく見極めながら動かねば――


 そのとき、小舟がゆっくりと俺の船に近づいてきた。


 名護屋の情勢を見に行った次郎兵衛が、戻ってきたのだ。


 その次郎兵衛は、とんでもない知らせを持ってきた。


「藤吉郎が名護屋に来た、だと!?」


 次郎兵衛からの報告に、俺は目を丸くする。史実では、秀吉はもっと遅く名護屋に到着するはずだが――


「俺が対馬にいると知って、動いたか。……少し歴史が変わったのかな」


「どうする、俊明。名護屋に向かうか?」


 伊与が問う。彼女の声は冷静だ。


「いや――まだ動かない。言っただろう、この戦いは一種の我慢くらべだ。秀頼が生まれるその瞬間まで、豊臣の出兵を阻止するために、こうしているんだ。慌てて動かず、1日でも長くこうして対峙しているのが一番なんだ」


「それにしても、藤吉郎さんは――太閤は、どうして名護屋にまで出てきたんやろ?」


 カンナが小首をかしげる。


 俺は笑った。


「そりゃ、俺をおびき寄せるためさ。……藤吉郎が名護屋城に来たとあれば、俺も名護屋に向かうだろう、と、そう思っているに違いないぜ。……つまり自分をオトリにしたわけさ。あいつらしい策だ」


「あの方が――そこまでされるのですか?」


 七海が、大きな瞳を丸くさせる。


 すると、伊与がうなずいた。


「するだろうな。……俊明は、太閤にとって最大の脅威だ。若いころからの盟友にして、未来の歴史を知る大商人だ。なんとしても自分の手で戦わねばと思っているはずだ」


 伊与は、南の海を睨みつけながら断言する。


「豊臣秀吉にとって、山田俊明が最後にして最大の敵なんだ」




「弥五郎め、動かぬな。……」


 名護屋城にやってきて、しばらく経ったが、弥五郎の船団がまるで動く気配がないことを知った秀吉は、しかし、腹を立てるでもなく、


「まあ、そういうことになるのも分かっておったわ。やつめ、時間稼ぎをするつもりか。こざかしい。……ならば、こちらも第2の策を用いるまで」


 秀吉は、嘉兵衛の目を見て、叫んだ。


「あやつをここに、連れて参れ!」



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