第四十五話 聚楽第の月無き夜
豊臣秀長が亡くなった。
秀長の家――すなわち豊臣氏・大和大納言家は秀長の甥である秀保が継いだ。
秀保は、病に伏していた秀長の世話を続けた薬師や侍女に、心からの礼を告げて礼金を渡した。誰もが秀保の処置を褒め称えた。
しかし秀保は若いがすでに病弱だった。大和大納言家は、もう長くないのでは、と噂するものも多かったのである。
1591年(天正19年)、2月。
冬の京は凍てつく寒さに包まれていた。
かすかに雪がちらついている。そんな景色の中、次郎兵衛は聚楽第に向かって進んでいた。
五右衛門と合流したいと思っていたが、大坂にも京の都にも彼女は見つからない。あいつはなにをやっているんだと思いながら、都の中を進む次郎兵衛だった。
(それにしても……)
聚楽第の周囲では、新たな道路の建設や朝鮮出兵の準備で都がざわめき、若き武士たちは「明を討てば土地が得られる」「わしの名を世間に知らしめる」と目を輝かせている。
一方で、民衆の間には「なぜ他国に攻め込むのか」と嘆く声が広がっているのまた事実だった。
ある酒場では「いくさの世はもうたくさんだ」とつぶやく女たちの溜息も響く。
秀吉の出兵には賛否が分かれているのが現状だった。
そんな中、秀吉を批判する落首が京の都の市中に登場した。ある屋敷の壁に、落書きがされていたのだ。その落書きとは、豊臣政権が「城を建てすぎ」「寺の領土を没収した」「年貢が高すぎる」というもので、
「関白は聚楽第を築いたが、民には十楽どころか一楽もない」
と記されている。
次郎兵衛は思った。明なんぞに攻め入っている場合じゃない。この嘆く民をどうにかするのが権力者の役目ではないか。
(命をかけても、藤吉郎のアニキを説得しなくちゃな)
月のない夜、聚楽第の屋根を滑るようにして、次郎兵衛は中へと忍び込んだ。
闇に溶け込む黒装束、足音は風よりも静かだ。
秀吉の寝所に近づくと、かすかな灯りが漏れていた。
障子の隙間から覗くと、秀吉が幼い鶴松の頭をそっと撫でている姿が見える。
(関白……いいや、藤吉郎のアニキだ……)
天下人の顔は、まるでただの父親のように柔らかく、しかしどこか悲しげだった。
「……弥五郎、ついに来たか?」
秀吉の声が闇を切り裂いた。
次郎兵衛は息を呑み、障子を開けた。
「……なんじゃい、次郎兵衛か」
秀吉の目に失望の色が浮かぶ。
「伊与やカンナですらないとは。……おい、弥五郎はどうした、弥五郎は。せっかく小姓も遠ざけてこのわしが待っておるのに……!」
(待っている? アニキのことを……?)
次郎兵衛は一瞬、思案したが、やがて勇気と共に一歩を踏み出し、膝をついた。
「あっしですみやせん。弥五郎のアニキは、病ッス。マカオでひどい咳の病にかかって、動けねえんです」
秀吉の顔が瞬時に凍りつき、目を剥いた。
「弥五郎が、やまい……?」
「ええ……」
「まさか……」
やがて深い嘆息が漏れる。
「みんな、死が近づいてきたのかのう。小一郎も死んだ。みんな老い、消えていく。悲しいものよな」
次郎兵衛は胸の奥で燃える思いを抑えきれず、声を張った。
「関白殿下! いや、藤吉郎のアニキ! 明に攻め入るのはおやめくだせえ! あっしは弥五郎のアニキからすべて聞いてやす。生まれるかもしれねえ息子のために他国を攻めるなんて、馬鹿げた出兵でさあ!」
「ほざくな、忍びふぜいが!」
秀吉の怒声が部屋を震わせた。
天下人の威厳が次郎兵衛を押し潰す。
「弥五郎本人ならまだしも、汝なんぞに説教される覚えはないわ! 昔なじみと思って追い返さず聞いておれば、いい気になりおって! わしは関白秀吉、忍びの汝ごときが口を利ける立場か!」
だが次郎兵衛も引かなかった。
「お聞きくだせえ、アニキ。あっしにだって子も妻もいねえ。そりゃ長い人生、欲しいと思ったこともありやす。だがよ、たとえ神仏が『他国を攻めりゃ子をやろう』と言ったって、あっしは絶対に首を振らねえ! だってそんなの、あんまりじゃねえッスか! あっしのような、天涯孤独の忍びごときでさえ、分かるような理屈だ。藤吉郎のアニキほどの方がわからねえはずはねえ!
「汝といっしょにするな! それが思い上がりだというのだ!」
秀吉の声は怒りを通り越し、慟哭に近かった。
「世の中はボンクラばかりで、そんなボンクラが世襲を繰り返すからこんな時代になってしまった。応仁大乱の時代の大名どもはじつに万死に値する。しかしそんな連中でさえ、多くのものは子供を作り子供を孕み、血筋を後世に続けていく。世襲する。それがわしには憎くてたまらなかった! 『……いかに貴様が出世しようと、子供ができんのであれば無能の自分以下だな』と言われているようだった。あの足利義昭などを見ていると、特にそう思ったわ。
……しかしその通り! 子作り!! その一点においてのみ、自分は確かにひとに劣るのだ。女とあれほど交わっても、子供がろくにできんのはきっとわしのせいだ。わしは……このわしは、天下を征する才を神より与えられて生まれたが、虫けら同然の凡愚にさえ可能な、女を孕ませ子を産ませるということだけができなんだ。それが……それがあまりにも、歯がゆくて、たまらなかった……!」
(そんなこと!)
次郎兵衛は叫びたかった。
それはあんたの被害妄想だ、という意味の怒鳴り声を散らしたかった。
だが、舌がもつれてうまく言えない。秀吉の滔々とした弁舌に圧倒される。
「だがな、今、わしにやっと子が生まれた。鶴松だ。そして、いずれ秀頼が生まれる。この子らにわしの築いたものを譲ることで、初めてわしはこの世の悪をすべて打ちのめせる! 豊臣の世襲は必ず成す。足利ごときが15代も続けたことを、このわしが2代、3代すらできんはずがなかろう!」
そのとき次郎兵衛の胸に、純粋な哀しみが広がった。
(弱い。アニキほどの男が、関白にまで成り上がったお方が、我が子ということになると、まるで別人のように弱い)
「わしは才覚と努力で、すべての夢を叶えてきた男だ。今度も必ず成し遂げる」
(ああ……)
秀吉という男は、他のあらゆる夢を――金も、出世も、名誉も、友情も、恋愛も、結婚も、性欲も。
なまじ、すべてを努力によって手に入れてきてしまったばかりに、手に入らなかった部分――子供――に気持ちがいってしまうのだろう。
そういう意味では、確かに自分と秀吉は違うのだ。あまりにも、人間として歩んできた道のりが。本来の器が。
次郎兵衛はそれを悟ってしまった。しかし、その気付きを言葉にする力がない。口が、うまく動かない。
秀吉の声は冷たく、決然としていた。
「邪魔者は排する」
次の瞬間、京の都中に轟かんばかりの秀吉の大声が闇を裂いた。
「者ども! 参れ! くせものじゃ!!」
わっと、家来たちが何十人と駆けつけ、次郎兵衛は抵抗する間もなく縛り上げられた。
「翌朝、こやつを処刑せい!」
「アニキ。……関白殿下!」
次郎兵衛の叫びも虚しく、秀吉は顔をそむけた。
「ゆるせ。……来世があれば、わしを殺してもかまわん。だが今生だけは、……ゆるせ」
聚楽第の座敷牢の闇は冷たく、次郎兵衛の心を凍らせた。
自分は夜明けとともに処刑される。自分の力は及ばなかった。アニキ、すみません……と心の中でがっくりとうなだれていた。
その時である。
牢の外で、女の声が響いた。
「殿下が次郎兵衛殿をお呼びです。すぐに連れ出しなさい」
「なに? ……それはまことでござるか」
「まことでございますとも。早うなされませ」
「むう……」
女の言葉に、牢を見張っていた侍たちが戸惑う。
しかし、やがて、侍たちが牢を開けた。
「出ろ。殿下がお呼びだそうだ」
「なんだと……?」
次郎兵衛もまた、戸惑った。
牢から出ながら、女の顔をよく見る。
(見覚え、なし)
二十代前半の、平均より背が高い、ちょっとした美女である。
ひそかに、五右衛門か、あるいは袂を分かったあかりが助けに来てくれたのかと思っていたが、そうではなさそうだ。
女は次郎兵衛を縛る縄を解き、闇の中へ連れ出そうとする。
「ま、待った。我々もいくぞ。いくらあんたの言葉とはいえ、本当に殿下のご命令なのかどうか――」
と、侍たちもついてこようとしたが、そのとき、女性は次郎兵衛に耳打ちした。
「この方々を倒してくださいまし。……共に、逃げましょう」
「いいのか?」
「それしか道はありません」
よし、と次郎兵衛はうなずくと、素早く身をひるがえして、侍たちを即座に打ちのめした。
これで自由の身となった。
「恩に着るぜ。助かった。……とにかく都から出ねえと……!」
「東に出ましょう。そちらには殿下が築きあげた新道があります。開けたばかりで、よそ者も多い場所なので、わたしたちが走っていてもそれほど目立たないはず」
「道理だ、そうしよう。……しかし、あんたはいったい誰なんだ? ……知り合いだったら、忘れていてすまねえが……」
「いいえ、これがお初ですよ。甲賀の次郎兵衛さま」
女は薄く微笑んで、
「話はあとにいたしましょう。まずは聚楽第を脱出です」
次郎兵衛が逃げ出した翌朝、秀吉は激怒した。
したが、なぜか秀吉は追っ手を送らなかった。
見張りの侍も処罰されず、ただ役目を解かれただけだった。
家臣団は首をひねったが、秀吉は、
「このことについてのみ、あまり賢しらなことを申すな。わしにはわしの思案がある」
とだけ言った。
それでもう、誰も逆らえない。
――そして、秀吉の征服計画は進む。
肥前に朝鮮出兵の基地として名護屋城を築く計画を考え、諸大名に出兵の準備をするように通達したのだ。もはや秀吉は止まらなかった。
いっぽう、聚楽第脱出から次の日の次郎兵衛は、大坂の港に身を隠していた。
隣には、麗しい顔立ちの美女がいる。次郎兵衛は彼女に目を向けた。
「もう、いいだろう。そろそろあんたの正体を教えてほしいもんだな」
「はい。わたしの名は、七海、と申します」
七海は語った。
自分はかつて、秀吉の養子だった於次丸こと羽柴秀勝の侍女だった女だ、と。
山田弥五郎はかつて、誰にも注目されずに人生を終えようとしていた羽柴秀勝に食べ物や薬を送ったことがあった。そのことを、七海は強く記憶していた。七海は秀勝の死後、豊臣秀長の侍女となり、さらに秀長没後には聚楽第に仕える侍女頭となっていたが、弥五郎の家来として有名な忍びの次郎兵衛が捕まったことを知り、いてもたってもいられないと思い、救出のために動いたのである。
七海はもとより弥五郎に好感をもっていた。そして秀勝を使い捨てにした秀吉に良い印象をもっていなかった。そのうえ、秀吉が海外出兵を言いだしたころから、いよいよだめだと思うようになった。そこで彼女は、弥五郎の忍びである次郎兵衛を助けるという行動に出たのだ。
「侍女といえども、意地も思案もございます」
「……うむ」
「関白殿下のなさりようは、おかしいと思うのです」
七海はそう言った。
次郎兵衛はうなずいた。そして、
「もう、聚楽第には戻れねえだろう? ……マカオに来るかい? あっしも、殿下を説得するというお役目を果たせなくて、情けねえ限りだが」
「参ります。山田弥五郎さまにお会いしたい。そして、これをお渡ししたい」
「これは……?」
「大和大納言さま(豊臣秀長)が使っていた薬です」
七海は秀長の死後、彼が使っていた薬を預かっていたのだが、どうせよという命令もないままだったので、ずっと預かっていた。
その薬を、いま病で苦しんでいるマカオの弥五郎に届けたい、というのである。
「わかった。いい土産だよ、七海。こいつを飲めばきっとアニキも快復する! マカオに行こう、いっしょに!」
「はいっ。参ります、どこまでも!」
次郎兵衛は七海と共に港へと向かいながら――ふと思った。
それにしても、五右衛門はどこにいったんだ。それだけは謎のままだ……。
秀吉の心が、重荷に押し潰されつつあった。
夏が訪れると、鶴松が咳き込み始めたのだ。
もとより病弱だった子が、日に日に衰弱していく。
秀長の病を思い出した秀吉は、恐怖に駆られた。
「まさか、小一郎と同じ病か? いや、あるいはマカオの弥五郎の病が、次郎兵衛を介して鶴松に移ったのか? 分からん。分からん……!」
秀吉は手を尽くしたが、この年の8月、鶴松は息を引き取った。
秀吉は聚楽第の庭で天を仰ぎ、慟哭した。
「なぜだ! なぜわしは、親子のことだけうまくいかぬ! なぜだ!」
家臣たちが沈黙する中、秀吉は一人、誓った。
次に生まれる秀頼を、必ず守り抜く。わしの血を、必ず後世に残す……!
しかしその頃、諸大名から、「豊臣氏は、秀吉さまの次はどうされるのか」という声があがっていることを聞き、秀吉は、まさか「秀頼がこの後生まれるから」とは言えず、甥の豊臣秀次を関白として、あとを継がせることにした。秀吉自身は関白の座を退き、太閤と呼ばれる身となった。
(秀頼さえ生まれたら、秀次なぞは)
秀吉にとって、最初から秀次は、中継ぎの関白のつもりだった。
あらゆる意味で。




