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第四十四話 秀長の死、利休の死

 マカオの港は、異国の香辛料と塩の匂いに満ちている。

 海風が石畳の街を吹き抜け、交易船の帆が遠くで揺れる。


 俺は病床に横たわりながら、窓の外の喧騒をぼんやりと聞いていた。

 咳が止まらない。肺が軋むように痛む。だが、頭はまだ動く。

 交易の指示を出し、鉄砲の改良を部下に命じる。


「俊明、顔色が悪いな」


 伊与が、部屋の隅に立っている。

 彼女の声はいつも通り、硬く生真面目だ。


「そうでもない。今日はかなりいいほうだ」


 俺は無理に笑ってみせたが、すぐに咳き込んだ。

 伊与の眉がわずかに動く。


 そのとき、扉が開き、カンナが慌てて入ってきた。


「弥五郎、きついときにごめんね。大変なことが起きたとよ。あんたが書いた、改良型の火縄銃の設計図が一部、明に横流しされとったんよ」


「なんだと……。誰が、そんなことをした?」


「新しく雇った、張って男よ。明から銭を受け取って、もう逃げたらしいけど……」


「追手を送るか、俊明」


「もう間に合わんだろう。そんな人手もない。……だが、完全に放っておくこともできない。伊与、マカオの商人たちに張の悪行を伝えておいてくれ」


 張の名前を、いわゆるブラックリストに入れておくくらいしかできないのだ。


 もっとも写真さえないこの時代、この手のことは効き目が薄いのだが……。


「次郎兵衛がおったら、こんな裏切りは未然に防げたとに」


 カンナがうなだれながら言った。


 その通りだ。次郎兵衛はすることがないと言っていたが、それは謙遜だ。日本にいたときから、神砲衆の中に裏切り者やスパイがいないか、見張っていたのはいつも五右衛門であり、次郎兵衛だったのだから。


「次郎兵衛は、必ず役目をやりとげてここに戻ってくる。それまで、俺たちで頑張っていこう」


 俺はそういうのがやっとだった。




 そのころ、京の都は激変していた。


 秀吉の命により、南北を貫く大通りが建設され、両脇には町家や商家が立ち並ぶ。


 道路を広くして流通をよりよくしようというのだ。織田信長の経済政策を範としたこの改革は、銭の流れを加速させ、都に新たな活気をもたらしていた。


 刀狩りにより農民から武器を奪い、太閤検地で土地を測量し、さらに大名佐竹氏の支配していた金山をおのれの直轄地とした。秀吉は日本を己の掌中に収めつつあった。だが、あらゆる利益はすべて、朝鮮出兵という巨大な戦争に注ぎ込まれようとしていた。このころ秀吉は、沿岸諸国に軍船の建造を命じた。




 一方、大和の郡山城では――


 秀吉の弟・豊臣秀長が病床に伏していた。


 何度も、何度も、激しくせき込む。セキをするたびに、体の一部がもぎとられているような感覚を覚える。


 そのときだ。


「小一郎、顔色が悪いぞ。薬師の薬は効いておるか?」


 秀吉が見舞いに現れた。


「最高の薬を届けてやったろうが。どうだ、ちゃんと飲んでおるか……」


「兄者」


 秀長は弱々しく微笑み、身を起こした。

「起きるな。そのままでおれ」


 秀吉は手で制したが、秀長は起床し、


「兄者。なぜ、明や朝鮮に兵を出すのですか」


 その声は、病に蝕まれながらも、鋭く秀吉の心を刺すものだった。

 秀吉は一瞬、言葉に詰まった。

 だが、すぐに平静を装い、答えた。


「南蛮のキリスト教勢力が、日ノ本のみならず、周辺諸国に進出しておる。その勢力をけん制し、我が国の武威を示すためだ。さらには、朝鮮や明の領地を手に入れ、諸大名や手柄を立てたものに配るためでもある。……ああ、明まで落としたあかつきには、あの三法師……織田秀信にも領地をくれてやるつもりだ。これは信長公への恩返しでもある」


 言葉は滑らかだった。事実、これらは秀吉の本音の一部だった。外国への出兵は、諸大名を団結させられる。南蛮勢力を牽制し、織田家への義理も果たす。すべて、天下人としての計算ずくの理由だ。


 だが、秀長は首を振った。


「兄者、失うものが大きすぎます。失敗すれば、豊臣は滅びますぞ」


 咳が彼を襲う。

 秀長は胸を押さえ、苦しげに続けた。


「土地は有限、銭は無限。弥五郎どのもそう申しておりました。兄者もご存じのはず。都に大通りを築き、銭の流れを加速させたのはそのためでしょう。銭の世を築くべきです。銭はいくらでも湧いて出てくるもの……。弥五郎どのがそうしていたように、信用さえあれば紙きれさえ銭になるのが世の中です。土地を求めて戦を起こすなど……


 思い出してくだされ、その昔、信長公は兄者に茶器をくだされた。あれは多くの者から羨ましがられた。兄者の敵であった、あの滝川久助どのは、土地よりも城よりも、茶器を欲しがっていた」


「……ああ、覚えておるわ」


「まさに、あれでございますよ。家臣や民には銭や物を与える。そういう世の中にしなければならないのです。人は確かに、家のため、名のため、歴史のために、土地を求めるもの。しかし、しかし、しかしでございます……その世を変えるので、ございます。世を銭やもので溢れさせて、土地を求める争いをなくす……そうしなければ……。兄者ならば、それができようというのに、どうして最後の最後になって、このような愚行を!」


「愚行じゃと!? 言い過ぎだ、小一郎!」


「どうせ近々、あの世へ参る身。言いたいことは言わせてもらいます。土地を求めて朝鮮出兵など、それでは信長公以前に逆戻りでございます。……兄者、出兵はおやめください。……南蛮へのけん制も……弥五郎どのと仲直りをして、軍船を作り、新しい武器を作れば必ず果たせます。どうか、どうか……。まだ間に合います。この出兵は、きっと、きっと兄者の最大の失敗に――げほっ!!」


 秀長は激しく咳き込み、口元に血が滲んだ。


「小一郎!」


 秀吉が叫び、薬師を呼ぶ。


 だが、秀長の目はすでに虚ろだった。


「小一郎、ばか、ばか。死ぬな。ここまで来て死ぬやつがあるか。天下を統一したばかりで、これから、これからが本当の――」


「……カンナさんの下で働いていた頃は、楽しかった」


「小一郎」


「人間とは妙な生き物ですな、兄者」


 秀長は、かすれた声を出して、


「年を取り、経験を積み、考えは長けてくるというのに。それなのに、人はなぜ、若かりしころの楽しさを保てぬのでござろうな。……あのままでいたら……あのままでいられたら……みんなで、もっと、みんなで……」


 その言葉を最後に、秀長の息は止まった。


 秀吉は弟の亡魂を前に、立ち尽くした。


 脳裏に浮かぶのは、はるか昔、弥五郎とさえ出会う前、貧しい農家で弟と笑い合った記憶だった。


 そして、おそろしく皮肉なことに、忘れたと思っていた父の顔が、弟と重なって見えた。


 どうして、どうしていまさらこんな景色が……。


「小一郎。汝は、わしが、間違っておると。そう思いながら、逝ったのか」


 秀吉は、その場に突っ伏した。


 たったひとりの弟が。


 あんたはだめだ、と言いながら死んだ。


 もう、話すことも笑い合うこともできない。


「……。……それは……あんまりではないか……?」


 秀吉の問いかけ。


 誰も答えぬ。


 弥五郎も、隣にいないのだ。


 天下人の孤独が、郡山城の闇に溶けていった。




 秀長が亡くなった数日後。


 聚楽第の南、千利休の屋敷。


 侘び茶の極みを体現する簡素な茶室に、秀吉と利休が向かい合っていた。


 炉には炭が赤く燃え、釜の湯が静かに鳴る。秀長の死から数日、秀吉の心はなお乱れていた。だが、茶の湯の静謐な時間は、一時、彼を癒すかに見えた。


「お辛いことでしたな、大納言様(秀長)のご逝去は」


 利休が静かに言う。茶杓を手に、抹茶を点てるその所作は、まるで禅僧の瞑想のようだ。秀吉は茶碗を手に、目を細めた。


「小一郎はわしに、銭の世を築けと言った。汝も同じことを言うつもりか、利休」


 声には、苛立ちと疲れが混じる。

 利休は動じず、穏やかに答えた。


「殿下は、この世に新しい秩序をもたらすお方。土地に縛られた日ノ本の民に、銭の世、茶の世を提示できるお方です」


 秀吉の眉が上がる。


「銭の世、茶の世だと? 小一郎と同じ戯言か。利休、汝までそれを申すか」


 だが、利休は静かに首を振った。


「土地は有限、銭は無限。そして、さらに……。茶の湯は、心を繋ぎます」


「…………」


「いくさの世は、もう終わろうとしております。土地をめぐり、なん百年も争ってきた時代は、間もなくおしまいでございます。……殿下の手によって」


「おだてるな」


「本音でございます。この利休が茶をたてながら嘘偽りを申すなど、ありえぬこと。それは殿下ならばお分かりのはず」


「…………」


「天下統一の大目標のために、この利休も、微力ながら殿下のために尽くしてきたつもりでございます。……その天下の騒乱がおさまったいま、殿下には未来のことを考えていただきたく」


「未来?」


 秀吉の声が、低くなった。


「だと……?」


「左様。大納言様は土地より銭と申された。しかしわたくしは、さらにもうひとつ上。文化の世を殿下にお作りいただきたく。……土地よりも銭、そして銭よりも文化。……茶の湯も、そのうちのひとつ。殿下には、そうした未来を築いていただきたいのでございます」

「未来……!」


 利休の発したその言葉が、秀吉の癇に障った。


 未来――弥五郎が語った、豊臣の滅亡と秀頼の誕生。利休の言葉は、まるでその未来を予見しているかのようだった。


「未来だと? 汝は、茶聖として名を馳せ、銭儲けにも長けた男。銭の世となれば、大商人が関白を超える。茶の世となれば、汝のような茶人もまた関白を超える。……我が子孫が、利休、汝の子孫や弟子に頭を下げる時代が来るのかもしれんのう!」


 秀吉の声が茶室に響く。

 利休の手が、一瞬、止まった。


「それは……誤解でございます」


 利休の声は落ち着いていたが、目に微かな悲しみが宿る。


「茶の湯は、人の心を一つにするもの。殿下の天下を、永遠に繋ぐもの。わたくしは、ただその道を示したかっただけにございます」


「へらず口をっ!」


 秀吉は思い出していた。弥五郎の妻の伊与が、利休のことを毛嫌いしていたことを。利休の、ただおのれの道と考えだけをまっすぐに突き進むところを、秀吉は気に入っていたが、いまなら伊与の気持ちが分かる。


 本人にそのつもりがなくとも、利休は妙に口が達者で、こちらを馬鹿にしているような気持ちにさせる。それにしても、この日の利休はとにかく秀吉の癇に障った。


 もはや、秀吉の心は閉ざされていた。弟の死、弥五郎の予言、天下人としての重圧。すべてが彼を孤立させていた。


「しばし、汝の顔を見たくない!」


 秀吉は茶碗を置き、立ち上がった。

 茶室を出た秀吉は、聚楽第に向かいながら、拳を握りしめた。


(誰が、わしの孤独を知るというのだ)


 諸大名に土地を。

 南蛮勢力を牽制する。

 すべて、嘘ではない。


 だが、それ以上に、秀頼が生まれる未来を守りたい。その一心が、秀吉を突き動かしていた。


 聚楽第に戻った秀吉は、我が子・鶴松の寝所へ向かった。まだ幼い鶴松は、乳母の近くで無邪気に笑う。その顔は、どこか織田信長を思わせた。


「なんと愛らしい……」


 サルと呼ばれた自分に、なぜこんな子が生まれたのか。


 秀吉は鶴松を抱き上げ、頬を寄せた。だが、弥五郎の予言が脳裏をよぎる。鶴松は今年、死ぬ。信じられない。


(鶴松よ、生きてくれ。そして秀頼よ、生まれてくれ。わしのところに現れてくれ)


 秀頼が生まれる瞬間まで、歴史を動かしてはならない。

 それは秀吉の絶対なる決意であった。


(秀頼。わしは必ず、汝が生まれる未来に辿り着く。そのためなら、どんな罪も犯すぞ)


 秀吉の目には、涙が滲んでいた。

 天下人の孤独は、誰にも癒せない。

 聚楽第の広間は、絢爛豪華な金箔の壁に囲まれ、天下人の威光を誇示していた。


 喉が渇いた。

 秀吉は家臣に命じて、茶を用意させた。

 茶をすする。渋みが舌に広がる。まるで、己の運命の味のようだった。




 2か月後、千利休は切腹した。


 前田利家は、利休を救うべく奔走しているが、利休みずからがそれを拒絶したと伝わる。


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