第三十七話 なくなったりは、絶対にしないから
「すまねえ、弥五郎! うまくいかなったことが、ふたつもある!」
「ふたつ? なんだよ、それは」
「まず、大坂城の未来のことだ。城内に潜り込もうと思ったが、見張りが厳しくて無理だった。言い訳になるが、なまじ大坂城には、うちの顔を知っている人間が多くいたもんだから。……松下嘉兵衛さんと接触して、尋ねてもみたが」
「おお、松下さんに会えたのか」
「なんとかな。だが未来はどうやら別の場所に移されたらしくて、いまはどこにいるか松下さんでも分からない、ということだった」
「そうか……」
どうやら殺されてはいないようだな、未来は。
しかし、だとしたら、逆に妙だ。秀吉はなぜ未来を生かしているのか。
なにか、使い道があると思っているのか? それとも……
分からん。
あんなに一緒にいた親友の考えることが、理解できなくなってきている。どうにも歯がゆい……。
「松下さんは、あんたのことを心配していたよ。……関白は多忙で、なかなか会えないが、もしも会えたなら弥五郎と仲直りするように言っておく、と――そう言っていた」
「相変わらず、優しいお方だ」
伊与が下を見ながら言った。
まったく同感だ。松下さんは昔から、本当に、優しくて、面倒見のいい人だ。乱世の人とは思えないほどに。
「……それで、あとひとつの失敗はなんね?」
カンナが尋ねると、五右衛門が「それは」と言った瞬間、
「父上!」
船の奥から、――樹が登場した。
「い、樹!?」
「姉上っ……な、なぜここに!?」
俺と牛神丸が、揃って仰天した。
「なぜ、じゃなかばい、ほんなこつ。藤吉郎さんと――関白殿下と父上が対立したのに、私だけ駿河に残るなんて、できんとよ」
カンナ譲りの博多弁を使いながら、樹は船から下りようとして、やがて振り向いた。
てくてくと、3歳くらいの男の子が歩いてくる。……仁だ。俺の孫だ。
「仁、ほら、ごあいさつ」
「じじさま、ばばさま、かんなさま。じんでございます」
ぺこり、と仁は頭を下げた。
「おお……」
可愛い孫のあいさつに、俺は思わず目尻を下げ、やがて、
「よくご挨拶できました。弥五郎じいじだよ。……話せるようになったのか、仁……! ……って」
俺は忙しく顔を上げて、
「樹、仁まで連れてきたのか? なにがあったんだ?」
「なにがあったんだ、はこっちの言葉なんやけどね」
樹は仁を連れて、船を下りて大地を踏みしめると、
「はっきり言えば、離縁してきた。あっちの家とは」
「「なっ……!」」
俺と伊与は揃って仰天した。五右衛門はまた「すまん!」と叫んだ。
「樹たちを連れてくるつもりはなかったんだ。なんとか駿河にとどまってほしかった。だが、できなかった。だから謝る。すまん!」
「五右衛門さんが謝る必要は全然なかて。私が決めたことやし。……さっきも言ったけれど、父上と関白が大喧嘩したのは駿河までも知れ渡ったとよ。そして言うまでもなく、徳川家はもはや豊臣政権の傘下。次郎三郎さま(家康)は関白の義弟。こんな状態で私がいつまでも嫁ぎ先にはおられんやろ」
「……そうだな。その通りだ」
「無理もなかけど……。樹と仁のことを、嫁ぎ先は守ってくれはせんかったんやね」
カンナは、流れを理解しつつも、感情的になにかやりきれないのか、やや非難めいた口調だった。
すると樹は、
「旦那は私を守ろうとしてくれたよ。……かつて浅井長政が、織田信長公の妹と結婚していたけれど、浅井は織田と対立した。けれどそのあとでも、浅井長政は信長公の妹と別れなかった。だから俺も離縁はしない。……そんなふうに言ってくれた。
でもね、やっぱり旦那の家の他の人がね。……いまの関白殿下に謀反した人の娘は置いておけない、って。……浅井長政をたとえ話にするのなら、浅井家はけっきょく信長公と関白殿下に滅ぼされた家なんだから、って。……私はもう反論もできないし、旦那だってさすがにかばいきれなかった。
それでこの通り。……でも父上、母上、五右衛門さんも。謝らんといてね。私だってもう、覚悟を決めてここに来たんやから」
「……分かった」
と、俺は口ではそう言ったが、自分の行動に娘と孫を巻き込んでしまったことを激しく悔いた。
秀吉に未来人であることを打ち明けるべきじゃなかった。秀吉と共に在り続けていればよかった。大坂で意地でも秀吉を説得すればよかった。大坂から逃げるべきではなかった。俺は――
俺は、選択を誤ったのか。
奥歯を嚙み締める。娘がまさか、離縁してしまうとは……。
だが、一度深呼吸をして。
そこでもう後悔はやめた。
俺は俺なりに悩み、考え、そしていま目の前の現実があり、未来の夢もまだ残っている。樹も、覚悟を決めて来たと言ってくれたのだ。ここで俺が悩み続けるのは逆に、娘に対して失礼だ。
「樹、仁。来てくれてありがとう。これからまた長い旅になると思うが、よろしく頼むぜ」
俺がそう言うと、樹は、伊与そっくりの笑みを浮かべてうなずいた。
そのとき牛神丸が口を開く。
「いや、考えてみれば、家族全員が揃うなんて何年ぶりだろうなあ。いつも誰かが欠けていた気がするよ。それに仁と会うのは俺、初めてだし……叔父上だぞ。顔を覚えてくれよ」
「あい……」
牛神丸が、仁に向けて顔を近づけると、仁は笑いながらも樹の後ろに隠れてしまった。樹は、にやにや笑った。
「あんたの顔が怖いそうよ。近づくのはやめとき」
「なんだよ。ちぇっ、叔父との初対面でこんなにビビっていたんじゃ先が思いやられるぜ。それでも山田家の男かい?」
すると、伊与が微笑を浮かべた。
「むしろこの上なく、山田家だな。俊明が――弥五郎が幼いころもこんな感じで、よく私の後ろに隠れていたものだ。なにしろ私のほうがお姉さんだったからな」
「だから1日だけだろ、イバるなよ、それで。……大昔のことをいつまでも!」
俺の反論に、伊与もカンナも、樹も牛神丸も仁さえも、大笑いになった。五右衛門と次郎兵衛もくすくす笑った。
牛神丸の言う通り、山田家の人間が全員集合しているのは本当にひさびさだ。孫の仁も加えると初めてのことだ。
もしも大坂にいたままだったら、あるいはこういう景色は見られなかったかもしれない。妻に、子供に、孫。一家全員が揃っているこの現状は、とても幸せなことなのだと俺は思った。
長崎に向かうために、食料を積み込み、船員を募集し、用意をする。
そのためには数日を要した。その間も俺たちは博多の商人、町人にあいさつをしたり交流を重ねたりしていたが、ある日、カンナが、
「博多を歩きたい」
と言いだしたので、俺はカンナとふたりで博多の町へと繰り出した。
博多は、思っていたよりも小さな町で、一時間も歩けば隅から隅まで辿り着いてしまう。
「子供のころは、もっと大きな町やと感じたんやけどねえ」
石ころが散らばっている路上を歩きながら、カンナは言った。
両脇には、壁が半分崩れた荒れ寺が立っている。
「それは30年以上前のことだろう? その後、博多は何度もいくさに巻き込まれたから、こんな感じなのさ。……やがて藤吉郎がやってきて、黒田官兵衛や石田佐吉と力を合わせて、博多を復興してくれるのさ」
さらにその後、江戸時代に入ってからは、黒田官兵衛の嫡男長政が博多にやってくる。そして博多の西部、福崎という場所に城を建立する。
黒田氏は、備前国福岡が発祥の地だと伝えられている。その名前をいただいて、黒田長政は福崎を福岡と改名。城の名前も福岡城となったのだ。
「あんたは本当に、よう知っとう」
カンナは薄く笑って、
「やけどさあ、そんなあんたでも知らんのやろ? あたしのお父さんがやっていたお店、蜂楽屋のことは」
「……ああ。俺はカンナのお父さんのことは知らない。未来にその存在は伝わっていない」
「ま、そういうもんなんやろうね。……あたし、博多に来てからずっと、お父さんとか蜂楽屋のことを博多の人に尋ねてまわりよるんやけど『よう知らん』とか『昔、そういう人がおったと聞いたが』なんて人がめっちゃ多いんよ。とびた屋さんみたいに、知っとる人は少なかと」
「まあ、なにしろ30年以上前の話だからな……」
「それは分かっとるんやけどね。……ねえ、弥五郎」
「ん」
「あたしたちのことも、いつかはみんな、忘れてしまうんかなあ。未来にはあたしたちのこと、少しも伝わっとらんのやろ? あたしたちがこうして生きて、頑張ってやってきたこと、全部がいつかは消えてしまうんかなあって。そういうの考えると、あたし、なんか……寂しい」
西の空が紅く染まり始めている。
夕陽を浴びて、カンナの金髪が美しく輝きはじめた。
「……カンナ」
「ごめん、なんか暗いことば言うて。弥五郎も大変なときやのにね。あはは、忘れて、忘れて!」
カンナは手を振って、ニコニコ笑いだした。
カラ元気なのが丸わかりだ。その笑みが痛々しい。
俺は、その場でぎゅっとカンナを抱きしめた。
「あ、……弥五郎」
「大丈夫だ。ぜったいに大丈夫だから」
「…………」
「カンナのお父さんが、頑張って生きてくれたからこそ、カンナに命が続いて、そして牛神丸が生まれた。そしてカンナがいたおかげで、俺も藤吉郎も、伊与も神砲衆も助かった。……名前は確かに忘れられていくのかもしれない。記録には残らないかもしれない。だけど、この世に残るものが必ずある。なにかの形で繋がっていく」
俺は、あの人のことを思い出しながら言った。
「剣次おじさんの話を前にしただろう? おじさんには子供がいなかった。そして、恐らく、次の時代に存在を語り継がれたりはしないと思う。残念だけれども。……だけど、武器や道具を作ることと、幸せになってくれという、心からの叫びを俺に伝えてくれた。おかげで俺はいまこうして、生きてカンナを抱きしめている。
剣次おじさんは、そうしてこの世に残った。だから俺たちも、俺もカンナも、みんなのことも、なくなったりは、絶対にしないから」
「……口がうもうなっとる」
カンナは、俺の耳元で、柔らかくささやいた。
「好かーん、もう。口がうまい弥五郎なんて」
「藤吉郎が、うつったかな?」
「あの人はそういう口のうまさやないやろ。……もう」
カンナは、そっと俺の耳たぶに口づけをして――くすぐったいなあ――そっと身を離すと、「ありがとう」と微笑んだ。
「繋がっていくよね。牛神丸が、……樹が、仁がおるし、あたしたちのことも、なにかの形で次の時代にきっと」
「そう信じている」
東の空が、闇に包まれ始めた。
「帰ろう。みんなが待っている」
「うん」
カンナは、もう一度だけあたりを見回して、金色の髪をなびかせながら言った。
「あたし、博多に、戻ってきてよかった」
「末次興善?」
翌日、とびた屋さんにその名を聞かされた俺は、思わず聞き返した。
とびた屋さんは、うなずいた。
「末次家はもともと博多の商人でしたが、いまは長崎に移り住んでいます。安南やシャム(タイ)とも交易して、そりゃあ儲かっているという話です。私自身が会ったことがありませんが、蜂楽屋さんと、若いころはいっしょに働いたという話を、昔、聞いたことがあったんです。いや、私もつい昨日、思い出したんですがね」
「カンナのお父さんと! ……長崎の末次興善さんですね。分かりました、ぜひ会ってみましょう。なにからなにまで、ありがとうございました」
こうして俺たちは、博多を出て、長崎へと向かったのである。
この頃、俺の知識によれば、秀吉による九州平定戦はすでに開始されている。
豊臣軍の先発隊が九州に上陸、島津氏と攻防を繰り返していた。
俺たちが博多にいたころ、豊後国の戸次川では島津軍と豊臣軍が交戦。豊臣軍の中核には、土佐国の英傑、長宗我部元親とその子、信親も加わっていたが、しかし豊臣軍は敗北。長宗我部信親が戦死するなど、大損害を受けている。
「次は、わしみずからが行く!」
と、秀吉が宣言したかどうかは分からないが、とにかく九州における劣勢を覆すために、秀吉は出陣を決定。
年明け、1587年には、20万の大軍をもって九州に乗り込んでくるのである。
後年になって、聞いた話だが。
20万の軍勢を率いるには、大量の武器、弾薬、兵糧が必要になる。
秀吉は小西隆佐など家来衆に命じて、これらの道具を揃え始めたのだが、神砲衆を欠いた豊臣政権は、集めるのにずいぶん手間取ったらしい。
とはいえ、最終的にはなんとかなった。
すると、そのとき、ある家来が、秀吉に向かってこう言ったらしい。
「山田弥五郎など、おらんでもようございましたな」
家来は、ニコニコ笑って、
「殿下のご威光と我らの力量があれば、20万人分の兵糧を揃えるのもたやすいことで」
「誰か、こやつの首をはねい」
秀吉の冷酷な言葉が響きわたり、誰もが耳を疑った。秀吉は、無言のまま、さらにおべっかを使った家来を睨んだ。
若侍が、刀を振った。
家来の首が、ごろりと転がった。
その場にいた誰もが、茫然とした。
「わしの前で、弥五郎の悪口は許さん」
秀吉は、それだけ言って、場を立ち去ったという。
あくまでも、あとから聞いた噂話である。




