第三十三話 山田俊明VS豊臣秀吉
「豊臣秀頼の生まれた日? 確か、文禄2年8月3日だと記憶しているが」
「文禄とは、いつじゃ」
「天正の次だ。天正20年12月から文禄元年になる」
西暦でいえば、1593年になる。
「それがどうした」
「――では、わしが明に攻め入るのはいつじゃ?」
「天正20年の4月だ。さっきも言ったが、天正20年は12月から文禄になった。だから豊臣軍が朝鮮に侵入した戦いのことを、文禄の役、ともいうんだが」
「文禄の役が始まり、その翌年に秀頼が生まれる。そういうことじゃな?」
「順番は、そうだ」
秀吉がなにを言わんとしているのか、よく分からない。
「ならば……しからば……」
秀吉は、目玉をギョトギョトと動かしながら、息を荒らげて、言ったのだ。
「わしが明に、朝鮮に攻め入らなかったら、秀頼はどうなる? ちゃんと生まれるのか?」
「なに……?」
奇妙な疑問を口にした秀吉に、俺は一瞬、絶句したが、すぐに回答する。
「生まれるだろう、それは。朝鮮に攻め入ることと、茶々……のちの淀殿の懐妊は関係がない。例え朝鮮といくさをしなくても、秀頼はこの世に生まれてくるはずだ」
「断言できるのか!? 絶対にそうなると! 弥五郎、汝は言うたな、バタフライ・エフェクトとやらを。ささいなことでも歴史は変わってしまうかもしれない、という話を」
「それは……言ったが……」
「わしが出兵を取りやめたことで、わしや茶々の身体になんらかの影響が起きて、もしも秀頼が生まれなかったらどうなるのじゃ!?」
「まさか。秀頼の誕生と朝鮮への出兵で関わることなんて!」
と言いかけて俺は、しかし、すぐに口ごもった。
すると、ここぞとばかりに秀吉は、
「どうなんじゃ。影響があるのかないのか、はっきり言ってくれ」
「それは」
俺は、目を伏せて、しばし思案してから、
「断言は……できない。関係がないとは思うが、確かにバタフライ・エフェクト……なにかしらの影響があって、秀頼が生まれないという可能性も、ある。絶対とは言えない……」
茶々がいつ秀頼を懐妊したか、なんて、後世の俺が知るはずもない。
秀頼出産の時期から逆算して、恐らくこの時期だろう、と推測することはできるが。
しかし明への出兵を取りやめることで、秀吉や茶々のスケジュールに余裕ができてしまい、本来、秀吉と茶々が交流する時期に交流しなくなる――という流れは想像できる。
あるいは交流したとしても、本来の歴史からわずかなズレが生じたことで、秀頼はもしかしたら生まれないかもしれない。
改めて、気付かされる。
人間と人間が交わって、子を産み孫を産み、子孫へと連なっていくということは、奇跡のような偶然の積み重ねによるものなのだと。
しかし、秀吉にとっては、そんな壮大なことに思いをはせている場合ではないようで、
「ほうれ、見ろ!」
と、鬼の首を取ったようという表現がピッタリの顔付きで、
「なんということじゃ! わしの子供が、豊臣秀頼が、あるいは生まれないかもしれんだと。それは殺生じゃ! 子供が、子供が、子供が生まれない――」
「落ち着け。生まれないとは限らない。恐らくこのままいけば、生まれるさ」
「おお、生まれる……生まれるだろうとも」
秀吉は首を振って、
「汝の言う歴史通りにすれば、な」
「……なに……?」
「分からんか。わしが天下を統一し、茶々と交わり、そして、そして――歴史通りに明へと攻め入る計画を立てれば、秀頼は生まれるであろう、ということが!」
「な、なんだと……!? なんて、なんてことを――」
俺は、身体を震わせて、
「なんてことを言うんだ!」
「そうであろうが、弥五郎。違うか!?」
「それは――いやしかし、あまりにも暴論じゃないか! 藤吉郎、お前、お前は――子供が生まれる未来にするために、明に攻め入るというのか!?」
「そうするしかあるまいが! 秀頼が確実に……そう、ほぼ確実に生まれる未来にするためには!」
「馬鹿を言うな!!」
「なにが馬鹿じゃ!!」
「馬鹿すぎるだろうが!!」
俺は激高に激高を重ねて、さらに輪をかけて巨大な声で、
「豊臣秀吉ともあろう男が、狂ったのか!? 実子が生まれるかもしれない未来、そこに突き進むためだけに、戦争をする気だと? こんな馬鹿げた話があるか! 関白が――この国の天下人が、大義のためでも、国益のためでもない、ただ子供に会うためだけに、そんなことを!!」
「国の利益にはなろう! わしの子供が生まれれば、豊臣の政権は安定する。それはかつて汝に言われたことじゃぞ。世継ぎを定めることで、家が安定する。天下が安定する、と!」
「それとこれとは話がまるで違う! ……藤吉郎よ、落ち着け、落ち着いてくれ。……俺たちは戦がない世にするために大樹村で誓いを立てた。その俺たちが……お前が、秀頼に会うためだけに、明に攻め入るというのか!?」
「子供がおらんわしの気持ちは、汝には分からんのだ!」
秀吉は、目を血走らせて、
「弥五郎! 逆に問おう! 汝ならどうする。樹や牛神丸や――あるいは伊与やカンナでもよい。汝の大事なものが、ある未来によって失われると分かったならば、その未来を全力で回避しようと、そうは思わんか?」
「それは――」
ふと、想像した。
『もしも自分が戦争を起こさねば、伊与が、カンナが、あるいは子供たちが消えてしまう未来になる。……かもしれない』
と、なったとき。
俺は戦争を起こすだろうか?
何千、あるいは何万の命を失ったとしても、会いたいという人がいる……。
確かにそうだ。俺にとっては、伊与やカンナや子供たちは、あるいはあかりや五右衛門や次郎兵衛、そして秀吉といった仲間たちのことは、見知らぬ人間何万人よりも、ずっと大事で――だからこそ、そう思ったからこそ、戦い続けてきた。
人間はきっと誰もが、そういう面を持つ。自分や親しい人間の現在なり未来なりを守り、あるいは豊かになるために、名前を知らないアカの他人を蹴散らしていく。それは21世紀においても、本質は同じなのだ。
だからこそ、俺は――前世の俺は、あるいは剣次おじさんは、蹴散らされた。
見知らぬ、あるいは知っている人間に、敗北し、絶望し、そして――
「……いや、待て! そうだとしても……そうだとしても!」
俺の中のなにかが、拒絶の雄叫びをあげた。
「だからって、ひとりの子供が『生まれるかどうか分からないから、生まれそうな未来にするために』戦争をするなんて、そんなことは絶対におかしい! 承服できない!」
「弥五郎……!」
「藤吉郎、……藤吉郎、よ! 天下統一までは、いい! 天下布武を成し遂げるまでは、阿漕と言われようが鬼、悪魔とそしられようが、のちの時代を泰平とするために、戦い続けることもまた大義となるだろう。けれどな、けれどもそのあとは……それ以上の血はもはや無用じゃないか! もう、それ以上は――」
「弥五郎! ……分かった!」
秀吉はそこで、ばん、と畳を叩いた。
「分かったぞ、弥五郎」
「わ、分かった? 本当にか? 俺の言うことを?」
「無論だ。汝の言うことは分かった! 確かにわしはいま、血迷ったことを言ったかもしれん。許してくれ……」
「分かってくれたか!」
秀吉が、俺の言い分を受け入れてくれた。
俺はもうそれだけで、全身の力が抜けたように安堵したが、
「だが!」
秀吉は、すぐに、くわっ、と、目を見開いて、
「分かりはした。だがそれでもわしは――誤った道だと知っていても、なお……秀頼に……。
――我が子に、会いたい!!」
「なっ……」
俺が絶句した瞬間、どこかで雷鳴が轟いた音がした。
外に、かみなりが、あるのか……?
……かみなりが、鳴っているのか?
「弥五郎よ。……わしはこれまで、懸命に働き、戦い抜いてきたつもりじゃ……」
「…………」
「信長公のため、織田家のため、羽柴家のため、夢のため、天下のため。全身全霊で駆け抜けてきたつもりじゃ」
「……その通りだ……」
「じゃから……」
秀吉は頭を垂らして、ブルブルと、病にでもかかったように震えながら、
「……頼む。わしの、たった一度だけの我儘じゃ。……子を抱いてみたい……。子に……父に抱かれた記憶を与えてやりたい。我が子、秀頼に……また、早世するという長男、鶴松にも――
父から愛を受けた、と感じてほしい。
それだけは……させてもらえんか……
弥五郎……」
――かつて、秀吉の父、弥右衛門について話したことがあったのを俺は思い出した。秀吉にとって、さほどの思い入れもないはずの実父。だが、だからこそ……
だからこそ、秀吉は、子供に会いたいと……
愛し、愛されたいと願っているのか?
きっと、そうだ。きっと……。
俺はいま、激しく後悔していた。やはり、打ち明けるべきではなかった。俺が知る未来を、語るべきではなかった。秀頼のことを、子供のことを言うべきではなかった。言わなければ、秀吉はこんなことを決して口走らなかっただろうに。
「…………朝鮮に攻め入れば……」
秀吉は、夢でも見ているかのような、か細い声で、
「秀頼は、生まれる……」
「…………」
「秀頼が生まれ……少しばかり、育ったら……そう、そうしたら、わしはそこで出兵をやめよう。……そうよ! これでどうじゃ、弥五郎! 秀頼が生まれるまでじゃ。成人まで育つという我が子、秀頼が生まれるそのときまで、わしは汝の言う通りにしよう。そうすれば、秀頼が生まれる。子供が生まれる。じゃから、じゃから……」
「………………」
「弥五郎。これまで通り、わしと共にあってくれ。わしにすべてを教えてくれ。間違っているのは分かるが……その間違いを、共に歩んでくれ。頼む。これっきりじゃ。このことに限って、わしは、天下よりもなによりも、我が子に会いたい! ……頼む……
頼むよ、弥五郎。……これまで通りに……」
「これまで、通りに……」
それはひとつの、抗いがたい誘惑だった。
豊臣秀頼が生まれるまで、これまで通り、秀吉に力を貸す。
九州の島津や関東の北条を倒す。朝鮮出兵も手伝う。そして秀頼が生まれたら、そこで和睦に持ち込み――
俺が、はい、と言えばそれでいい。
それですべてが丸くおさまるのだ。
これまで通り、豊臣政権の重鎮にして、日ノ本最大の商人として俺はこの世に君臨するだろう。そして、やがて山田家は牛神丸が継ぐ。山田家は繁栄する。伊与もカンナも、仲間たちも、みんなが笑顔だ。
豊臣氏の滅亡だって、俺が知恵を貸せば、防げるかもしれない。徳川の代わりに豊臣が日本を治めていく未来。できるかもしれない。いや、きっとできる。……そうだ、ここで、俺が秀吉の、たった一度のわがままを許容すれば――
――くたばれ、偽善者。
声が脳裏に響いた。
――希望も未来も信頼も、愛情も、そんなものはたわ言だ。賭けてもいい。山田、お前も強者になればきっと変わる。必ず変わる。笑顔で人を虐げられる、そういう男に成り下がる。必ずなるんだ!
「……熱田の……銭巫女……」
雷鳴が、またひとつ、外で激しく轟いた。
忘れようとしても、決して忘れられない。
かつての敵の咆哮が、心の中に湧き上がってきた。
――強さは人を腐らせるんだ! 絶対にだ!
――山田弥五郎! この偽善者が! お前がこのまま勝利を続け、天下を変えるほどにまで、成り上がっていったなら、そのときお前が腐らないかどうか!
――地獄の底で見ていてやるよ……!!
右手が、熱い。
拳を、握りしめる。
この手のひらで、どれだけの敵を葬りさってきたのか。どれだけの人間の、生命を奪う武器道具を作り出してきたか。それはすべて、最後に、この天下に泰平の二文字を生み出すがため。
誘惑に屈し、権力に追従して、自分と仲間だけが幸せになるために、戦い続けてきたわけじゃない。例えそれが無二の親友の頼みであろうとも、俺は、俺は……どくん、と、心臓が脈打った。
強くありさえすれば。
強くあるべきときは、まさにいまだ。
「断る。……認められない」
「……!」
「秀頼が生まれる可能性が高いから。そんな理由で他国に攻め入る。……それは認めない。……認められない……」
「弥五郎ッ!!」
「天下人のやるべきことではない!!」
秀吉の咆哮に、俺もまた怒鳴り返した。
「いま、この瞬間まで隠し事をしていたことは、とことんまで詫びよう! 腹切れというならここで喜んで切ろう! だが、だが――藤吉郎っ……それだけは認められない! 大義なき出兵にはこの山田弥五郎、全力をもって反対する!!」
「ぬかすか、汝ァ!!」
秀吉は、すっくと立ち上がった。
俺もまた、立ち上がった。
共に、ほとんど仁王立ちとなって、視線をまっすぐにぶつけ合いながら、
「構わん――わしは、例え汝がおらんでも、汝の言った未来をなぞるぞ。汝が言った通りにして、秀頼が生まれるまでは……我が子が生まれるまでは、絶対に!!!!!」
「阻止する! そのような外征は、豊臣と日ノ本の未来を失うことだ! それが分かっている、分かっているからこそ俺は止めなければならない! それだけは!!!!!! そのような暴挙だけは!!!!!!」
「暴挙とぬかすか、弥五郎ッ!!!!! ええい、誰かあるか!!!!! 出てこい!!!! ここに来いッ!!!!!」
秀吉の、大坂中に聞こえるのではないかという巨大な怒鳴り声。
すると、ばたばたといくつもの足音が響き渡り、何人もの侍が集まってきた。
「山田弥五郎をひっとらえい! ひっとらえて、縛りあげるのじゃ!!!!!」
「……藤吉郎……!」
呼ばれて集まった侍たちは、一瞬、戸惑った顔を見せながらも、秀吉の命令に従って、腰を低くし、俺にじりじりと近づいてくる。
……秀吉……
……豊臣秀吉……!!
俺はくちびるを噛み締めて、侍たちと、その背後にそびえ立つ秀吉を一直線に見据えた――




