第三十話 賽は投げられた
徳川家は豊臣氏の体制に組み込まれた。
するとそのまま、徳川家の経済力は豊臣経済網の中に組み込まれることになる。
俺はカンナと共に、徳川家臣と話しあった。
今後、兵糧、武具、弾薬、特産品などが徳川から豊臣に送られてくる。こちらからも、送ることになる。その輸送路はどこか、取引価格はいくらか、担当は誰かを確認していかねばならない。
「樹を駿河に嫁がせていて、よかったな」
俺は思わず独りごちた。
駿河の樹はもちろん俺に協力的で、豊臣と徳川のつなぎ役として仕事をしてくれた。
「駿河から、どんどん物が送られてくるけん。これを大坂や京の都に送って商うとよ」
と、カンナもほくほく顔だった。
徳川が臣従したあとには、九州攻めが待っている。
そのためには銭がいる。俺は豊臣のため、天下のために金を稼がねばならない。
天下のためといえば。
このころ秀吉は、みずからのことを、
「天子様のご落胤」
と名乗り始めた。
具体的には、こうだ。
「わしの母親はもともと、萩中納言という公家の娘じゃった。じゃからこそ、若いころに、京の都で主上にお仕えした。その主上から情けをかけられて、子を孕み、やがて故郷の尾張に戻って子を産んだ。それがこのわし、豊臣秀吉よ」
いかになんでも、法螺が過ぎる。
この話には多くの者が眉をひそめたり、あるいはひそかに影で笑ったりしたそうだが、秀吉は大真面目で、ある夜、俺と二人きりになったとき、
「嘘でも、ひゃっぺんつけば、やがて真実だと思うものも出てくる」
と、言いだした。
「弥五郎、けっきょく世の中は血筋よ。こうしてわしを貴種だと宣伝すれば、やがてはわしを軽んじるものもいなくなろうが」
「そうだろうか。かえって成り上がりが嘘をついていやがると軽んじられないか?」
「いいや、必ずそうなる。……そうすれば豊臣の天下はいよいよ定まり、天下は泰平になるのだ。わしはもはや関白ぞ。なによりも天下の安定を考えねばならん立場だ。そのためには、成り上がりが是認される世であっては、……こまるのだ」
「確かに世を安定させるには、成り上がり、下剋上の類いは邪魔なことだ。必要なのは秩序だ」
「で、あろうが」
「しかし、……俺たちの人生を否定するようで、悲しくもあるな」
「わし個人の悲しみや感傷など、無用であるよ、弥五郎」
秀吉は微笑を浮かべて言った。
「天下を我が下で安定させ、恒久の泰平を築き上げる使命と比べれば、わしひとりの過去など抹殺してもいっこうに構わん。……天子様のご落胤が、関白となりて天下を采配する。それでいい、そういうことじゃ」
秀吉は秀吉なりに、考えていることが分かった。
「そういうことなら、俺は安心した。藤吉郎の考えも一理……いや二理も三理もある。それでいこう」
「……ところで、弥五郎」
「うん?」
秀吉の前から退出しようとした俺だったが、呼び止められた。
「汝は……」
「俺は?」
「……。……九州の島津を、我らが下すのに、何年かかると思う?」
「島津? ……そうだな、長くはかかるまい。おそらく来年の春には終わるだろう」
俺は自分の知識から、そう回答した。
「……そうか。相変わらず先読みの凄まじいことよな」
「どうしたんだ、改まって」
「なに」
秀吉は薄い笑みを浮かべた。
「なんでもないよ」
さて。
俺はマカオ交易の話を進めるために、少し前から大型船の建造を進めていた。
大坂の港に、何十人もの人間と、大量の積み荷を載せられる帆船である。
おそらく、あと数日で完成するだろう。
「この船はな、俺の知識だけでなく、滝川一益が作るのを手助けしてくれたんだ」
と、俺は隣のあかりに向けて話した。
「滝川さまが……」
「ああ、亡くなる直前だったけどな。船についてはあいつは詳しかったから。……マカオ、あと10年若かったら行きたかった、なんて言っていたがな。だから俺は、この船ができあがったら、久助号と名付けるつもりさ」
「いいですね。きっと、滝川さまもお喜びだと思いますよ」
「そうしてくれるといいが」
そのときであった。
「ちちうえーェ!」
やたらとごつい男が声をかけてきた。
振り向くと、そこには我が息子、牛神丸の姿がある。
「なんだ、牛神丸! どうした、いったい……」
我が息子で、大坂に共にいながら、顔を合わせるのは何ヶ月ぶりか。
すでに満年齢で16歳になっている我が子は、すっかりたくましく日焼けしていて、
「いやいや、黒田様からたまには父上を手伝ってこいと言われまして!」
牛神丸は黒田家に預けて、働かせ、鍛えてもらっている。
「官兵衛が? ……そうか、ははは、九州攻めの用意で忙しいから、牛神丸をこちらによこしたな。あの男め……」
「なんという! 父上、オレは厄介払いされたのですか!?」
「違いますよ、牛神丸さま。冗談に決まっているではありませんか」
あかりがフォローに回る。
「九州攻めが始まったら、牛神丸さまもいよいよ初陣なさるとき。その前に一度、お父上である山田さまと顔を合わせておきなさいという、黒田さまのご配慮なのです」
「そ、そういうことですか。……さすがはあかりさん、よくお気づきで」
「お前が鈍すぎるだけさ」
俺はにやにや笑ったものだが、……冗談交じりとはいえ、牛神丸の妙な被害者意識の強さは俺譲りかな、と思ったりもした。
「黒田家は、よくしてくれるか」
「おかげさまで。官兵衛さまには本当に優しくしてもらっております。吉兵衛さま(黒田長政)とは、よう喧嘩をいたしまするが」
「喧嘩をするのか、黒田の世継ぎと! ははは……気が強いことだ。まあ、うまくやっているようだから俺としては安心だよ」
この気の強さは、母親であるカンナの気持ちが上向きなときにそっくりだ。
逆に、気持ちが下向きになったときのカンナはものすごく弱気になるのだが……。若いころなんか、特にそうだったな。俺もそうだけどな。
いずれにしても両親の血をしっかり受け継いでいるらしい長男の牛神丸が手伝いにきたことで、帆船の建造現場は士気をさらに上げた。そこに俺は、よく働いた者には褒美を与えると約束して、さらにさらに士気を向上させたものである。
その日の昼、松下嘉兵衛は大坂城にいた。
表向きは、淀川を用いた材木運搬の利権から得られる収入、その一部を豊臣氏に献上する手続きのために。
しかし裏では――
未来が捕らえられている座敷牢におもむいて、見張りにそっと賄賂を渡して、未来に会いに来たのである。
「松下さま。私は賄賂が欲しいのではありませんよ。あなた様が、関白殿下にとって旧主でおられると聞いて、特に配慮しているのでございます」
見張りはそう言って、姿を消した。
嘉兵衛が、秀吉と親しいからこそ、見張りはいなくなった。
それも嘘ではないのだろうが、だったら手渡した賄賂を返せ、と苦笑いしながら言いたくなる嘉兵衛であった。
こうして嘉兵衛はひとりで、座敷牢内の未来と対峙する。
未来は、痩せ細った姿を見せながら、
「わたくしを」
と、言った。
「助けるか、殺すか。いいかげんに決めてほしいですわね」
「某もそうしたいところだが、なにしろ藤吉郎の……関白殿下の意向が読めない。だから、こうしてたまに顔見せと差し入れをするのがせいぜいなんだ」
嘉兵衛は握り飯を差し出した。
未来は、黙って受け取り、少しずつ口にしていく。
「殿下、ですか。松下嘉兵衛もずいぶん弱気になりましたね。あの織田家の足軽上がりだった木下藤吉郎にずいぶん怯えて」
「もはや時代が違う。その織田家の頭領たる三介さまも、徳川家の次郎三郎さまも、いまや殿下には平伏する身だ。それくらいは分かるだろう。……なあ、未来。そなたの言い分は聞いた」
嘉兵衛は、声をひそめて、
「あの弥五郎が、未来から、そう、遠い先の時代から来た、という言い分だ。しかも、どうやら、あの織田信長公でさえ承知していたらしいという……。さすがに信じがたい話なのだが……」
「けれども、合点はいきませんか? 山田弥五郎の、先読みの才も、あまりに凄まじい知識、武具道具を作り出す手先。はるか時代の先から、何百年も先の時代からやってきたと思えば、あるいは」
「だが、仮にそうだったとして、どうする。……弥五郎を殺すのかい?」
「…………」
「某は……仮に弥五郎が遠い世界からやってきた人間だったとしても、受け入れるよ。彼には、本当に世話になったんだ」
「あなたは、そうかもしれませんが」
「そなたは違うのかい?」
「わたくしの人生は、あの山田弥五郎のために、あまりにも狂ってしまいました。……」
「それは誰もがそうだ。この乱世に生きている人間ならば、大なり小なり理不尽の運命を背負っているじゃないか。そなただけが可哀想なわけじゃない。それにそなたは、一度、弥五郎と藤吉郎に情けをかけられた身じゃないか。恨む道理などないはずだ。それなのに」
「ええ、ええ。分かっております、それくらいのことは。それでも、わたくしは、わたくしは、憎まずに、いられない。……恨まずにはおれません」
「弥五郎を、かい」
「山田弥五郎ではなく、山田弥五郎をこの時代に連れてきた何者かに。言うなれば、運命に。一矢報いてやりたくなったのです。なにもかも、あなたの思うままになってなるものか、と!」
「神仏に弓引くがごとし、だね」
嘉兵衛は、できれば未来を逃がしてやりたかった。旧主、飯尾家の娘であり、子供のころも知っている女性なのだ。できるならば、いくばくかの金銀でも渡したうえで、世間に解き放ってやりたい。可能ならば、自分の配下として働いてもらっても構わない。
(問題は藤吉郎だ。……なぜ、未来を城内に閉じ込めておく?)
秀吉もまた、未来の言い分を聞いたらしいのだ。
弥五郎が、未来人だという……未来のたわけた(と、嘉兵衛はまだ思っている)言い分。
(妙なことを言う狂女だと、殺すなら分かる。あるいは相手にせずに追い出すなら、それも分かる。……ただ城内に閉じ込めておく理由は? ……分からない。某には、なにも……)
嘉兵衛は首を振った。
自分は秀吉のように賢くない。
どう頭をひねっても理解できないのだ。
「未来。藤吉郎にとって、弥五郎は若かりしころからの盟友だ。そなたがなにを言おうと、藤吉郎が弥五郎を処断したりするはずがない。
未来……いまの某にははっきり言って、立場がある。家族も家臣もいる。いまの藤吉郎に逆らうような真似は、できない。未来を助けてください、なんて、とても言えない。だからせめて、忠告しよう。
藤吉郎に土下座して、すべて自分が悪かった、なにもかも戯言だったと言って慈悲を乞うことだ。そうすれば解放してもらえるかもしれない。……悪いが、某にはそれくらいのことしか言えない。
そういうことだ。ここに来るのは今日を最後とする。……それでは……」
そう言って回れ右をした瞬間である。
嘉兵衛も、牢の中の未来も、「あっ」と声をあげた。
そこには、秀吉が立っていたのである。
いつもの陽気さなど、微塵も見えない。
眉間に深いしわを刻み、くちびるを噛みしめ、小柄ながら後光にも似た威風を発して、まっすぐに、嘉兵衛と未来を睨みつけている。
「と……殿下……こ、これは……うッ……」
嘉兵衛は絶句した。
先ほど自分が買収した見張りの男が、斬られている。
誰がやったのか。
決まっている。……秀吉だ。
人を直接斬ることを嫌う男が、一刀両断に切り捨てた、というのだ。
「未来から、話を聞いたか。嘉兵衛どの」
秀吉は淡々とした口調で尋ねてきた。
嘉兵衛は、気圧され、ただ、「聞きまして、ござる」とのみ答えた。
未来は、ただ茫然自失として宙を見つめている。
「……たわごとを申す狂女よ」
秀吉は、静かな口調で、
「弥五郎が、未来からやってきた人間などと、法螺を吹くにもほどがある。ましてやそのことを信長公も知っていたなど。……なにをぬかすか、と思ったが……飯尾豊前守にはかつて、世話になった。また、知らぬ顔でもない。ゆえにわしは、情けをかけて、こうして城の中に閉じ込めておいたのだ。……たわごとを言うのをよせば、かつてのように解き放ってやるつもりだった。……解き放って、やりたかった……」
「未来。いますぐに殿下に詫びよ。そしてなにもかも忘れて遠くへゆけ!」
嘉兵衛は必死に、先ほどと同種の言葉を叫んだ。
だが未来は、ただ、呆けたような顔を見せるだけである。
秀吉は、じっと嘉兵衛たちのほうを見ながら、
「嘉兵衛どのよ。……わしとて人間じゃ。迷うこともある」
「は。……はっ」
「どうしたらいいと思う? 正直に言えば、迷っておるのだ。未来を斬るべきか? このままにしておくか? これは関白としてではなく、昔からの馴染みである嘉兵衛どのに問うておる。……30年前に駿河から逃げ出すとき、わしと弥五郎のことを、友だと思っていた、と言ってくれた嘉兵衛どのに……」
そのときの秀吉の目は、確かに、まだ暖かであった。
「それは……」
嘉兵衛は、こういうときに機転の利いた発言や行動ができぬ己を呪った。
「弥五郎と話すのは、いかがでしょうか」
そう答えるのが、精一杯だった。
「弥五郎と?」
「そうです。思い切って、未来から来た人間か、なんて。冗談交じりにでも……」
「……そう。……そうよなあ、聞いてみるべきよなあ。そんなことはあり得ぬ、と思っていても……」
「弥五郎と殿下は、相棒なのでございましょう?」
松下嘉兵衛は本質的に、善良なる男であった。友人同士であれば、語り合うべきであり、また腹を割って話し合えばきっと分かり合える。未来に繋がると信じていた。その善良さゆえに、嘉兵衛は、秀吉からも、弥五郎からも、家康からも信用され、豊臣家臣からも徳川家臣からも、また今川時代の人間からも、疑われたり嫌われたりすることがなかった。そういう人生を歩んできた。苦労はしたが、それでもなお、その魂は光に満ちていた。そしてなにより、秀吉と弥五郎のことが好きであった。
「話してみたらよろしいかと。弥五郎が良い男であることは、殿下が一番ご存じのはず」
「……分かった。……明日、弥五郎がわしのところへ来る予定だ。マカオ交易の件でのう。そのときにでも、尋ねてみるか」
「そうなされませ」
「……よし。……未来。汝はまだ牢の中じゃ。弥五郎との話が済みしだい、どうするか決める」
そう言って秀吉は去り、嘉兵衛は――嘉兵衛は、斬殺された見張りの後始末をするためにその場に残った。
(すまぬな)
嘉兵衛はまず、殺された見張りに詫びた。
遺族がいれば、銀のひとつかみでも与えるしかあるまいと思った。
「…………」
未来は、天井を見上げたままだった。
「……未来。……本当に終わりにしよう。殿下と弥五郎の話はきっとすぐに終わる。そして……あとはそなたが外に出るだけだ」
嘉兵衛は、わざと薄く笑っていた。
このときまで嘉兵衛は、心から、この話はもはや済んだと思っていた。
秀吉と弥五郎が話しあえば、すべては丸くおさまるのだから、と。
結論から言えば、嘉兵衛は甘かった。




