第二十九話 家康の臣従、……そして
徳川家康が大坂城にやってきた。
家康は家臣団と共に、大阪城内の宿館に通されたが、俺は松下嘉兵衛さんと共に、秀吉のところへと向かった。
秀吉は、他の用件があり多忙として、代わりに小一郎こと羽柴秀長が俺たちに応じた。秀長は俺たちの言葉をよくよく聞き入れ、何度もうなずいて、
「すべて、殿下にお知らせいたす。徳川と殿下の対面は明日になりましょうぞ」
そして、明日は山田どのも当然、対面のときにご同席くだされるな、と言ってきた。
異論など、あろうはずがない。俺は大きくうなずいた。
こうして豊臣と徳川の和議は、もはや成立寸前のところまで来ていたが、そのときである。 俺と松下さんが、秀長の前を退出し、城内の廊下を歩いていると、
「や……」
そこには、石川数正さんが立っていた。
「……石川さん」
「……殿が……いや、徳川さまが、こちらに到着されたとのことで」
「そうです。……お会いになりますか?」
「できるはずがない」
石川さんは、首を振った。
「なんと言われても、自分は徳川を見限り殿下の家臣となった身だ。徳川家と顔合わせなど、とてもとても……」
「裏切り、寝返りなど当然の時代ですよ、石川どの」
松下さんが、落ち着いた声で言った。
「某自身も、もとは今川の家臣の家臣でありました。それがいまでは、豊臣と徳川の二股のようになっています。……よくあることですよ」
「私がもう少し若ければ、左様に考えることもできたであろうが」
石川さんは言った。
幼いころから徳川家(昔は松平家だったが)一筋でやってきたために、裏切りが恐ろしいほどの罪だと思えてならない。こんな気持ちになるのなら、やはり一貫して徳川に仕えるべきだったかもしれない……。
「だが、もう遅い。かくなる上は、ただ殿下の股肱となり一心不乱に働き、……徳川家臣とは、ただ羽柴家中の同僚として交際するのみだ。それしかできない」
石川さんはそれだけ言うと、一礼して去っていった。
「生真面目な方だ」
松下さんが言った。
俺も同じ意見だった。
石川さんは、戦場においても確かに猛者であったが、本来はもっと治世に向いている人だったのだろう。平和な時代ならば、あんなに悲しい顔をして悩むことも、もっと少なかっただろうに。
ここにもまた、乱世ゆえに悩み苦しむ男がいた。
俺は石川さんの背中を見送りながら、その乱世もあと一歩で終わりますよ、と心の中で考えていた。
さて、その夜。
俺は自分の屋敷に戻っていたが、あかりに頼んで、酒と、さらに酒の肴をいろいろと用意させていた。特にこの日のために俺は、わざわざ新鮮な魚を屋敷に運び込ませ、塩をよく振った焼き魚にしておいた。
ややあって、
「いよう、弥五郎!」
秀吉の元気な声が飛び込んできた。
俺はニヤリと笑い、立ち上がった。
「藤吉郎、来たな」
「おお、来たわ。――いまから徳川どののところへ遊びにいくぞ。汝、ついてこい」
「そう来ると思っていた。だから、見ろ、魚を大量に用意してある」
「汝は用意がいいわ。さすがじゃ」
秀吉は大喜びして、手を叩き、
「では、ゆくぞ。わしは小姓さえ連れてこなんだゆえ、誰か、ここから家来を貸すがよい」
「それじゃ、伊与とカンナを」
「ふふ。で、あろうな。伊与、カンナ、よいかのう?」
「もちろんです」
「合点承知ばい」
伊与たちはうなずいた。
家康との対面を明日に控えた夜、秀吉が徳川家康の屋敷に向かうのは史実だ。そして、俺も恐らく呼ばれるだろうと思っていた。だから魚を用意したのだ。
カンナなんか、さらっと「もし呼ばれんかったらどうするとね?」などと言って、軽く俺のトラウマを刺激したものだったが。……呼ばれると思っていたら呼ばれない。そんなに悲しいことはないだろうよ。なあ?
ともあれ、俺たちは夜の大坂城をコソコソとゆく。
「昔を思い出すのう。この四人で夜の道を歩くと」
秀吉は、にやにやしている。
「夜這いのようではないか。のう?」
「藤吉郎さん、あたしたちもおるのに、はしたなか~」
「照れるような年齢か。……若いころは、私たちでずいぶん旅をしたり商ったりしましたな」
「わっはっは。楽しかった。わしはどじょう売りになって、なんとかいう偽名を使ったのう。名前は忘れたが」
「俺も梅五郎と名乗ったな。……三河で岡崎城にいって、なんとかいう今川の奉行に、いっぱい食わせたこともあった」
「なんとか、なんとかって言うのやめりいよ。なんか、えっらい年寄りめいたごたる」
「まったくじゃ。次にこの話をするときは、なんとかはなしじゃぞ、弥五郎」
「そっちこそ……」
俺たちは、本当に何年ぶりかに昔話や馬鹿話をしながら、そしてついに家康の泊まっている館にやってきた。
「おう、徳川殿はおるかよ!」
館の周囲を囲んでいる、徳川の兵たちに向かって、秀吉は大声をあげた。
「わしは豊臣秀吉じゃ。徳川どのに会いたいと思ってやってきたぞ。通さんか、ほれ」
兵たちは、戸惑い気味に互いの顔を見ていたが、やがてそのうちの一人が、
「間違いない。こりゃ、木下とうき――ああ、いえ――関白さまじゃ……!」
すると兵たちがさらにざわつく。――「本当か?」――「本物だ。隣にいるのは山田弥五郎だ」――「間違いない、俺も見たことがある」――「後ろの女は堤伊与と蜂楽屋カンナだ」――「あの綺麗な金色髪、忘れるはずもない!」――「誰か、殿を呼んでまいれ! 殿を!!」…………
やがて、俺たちの前に、家康本人が現れた。
「これは……羽柴どの……いや、殿下……」
「わっはっは。徳川どの、夜分に失礼させてもらう。夜話などせぬか? 焼いた魚も持ってきた。ほれ、共に食そうぞ」
「はっ……ははっ! ……これ、殿下のために道を開けい。……オレが……ああ、いや、儂が殿下を案内する……!」
こうして、俺たちは家康の案内によって館の中へと入っていった。
「うふっ、さっき言われた。綺麗な金色髪やて。あたし、まだもてる?」
「喜ぶところがそこかよ。……少し静かにしろ、カンナ」
「わっはっは、わしよりカンナのほうが徳川兵どもはよく覚えておるか。もっとも、もっとも」
「は。……ははは、お恥ずかしい限りで」
家康は苦笑いを浮かべていた。
こうして宿館の奥、八畳ほどの一室にて、俺たちは集まった。
こちらは秀吉、俺、伊与、カンナ。
あちらは、家康のほか、ただちに現れたのは酒井忠次に本多忠勝、井伊直政といった徳川家の重臣たちだ。重臣であると同時に、警護役でもあるのだろう。俺は彼らの気持ちがよく分かったため、すぐに両腕をひらひらとさせて、
「ご覧の通り、今日はリボルバーどころか脇差ひとつありません」
「は。……いや、それは」
本多忠勝が、ちょっと困り気味に眉をあげた。
「伊与もカンナも同様。殿下は脇差を帯びておりますが」
「これがなんと、竹光よ」
秀吉は脇差を抜いた。
一瞬、井伊直政が目を光らせたが、秀吉が持っているのが紛うことなき竹光の脇差であることを知ると、いよいよ呆気にとられていた。
「言ったろうが、ただ話だけがしたい、と。のう、徳川どの。……わしと御身が知り合うたのは、もう三十年は昔になろうかのう」
「は。……駿河の、屋敷で……」
「そうじゃった、そうじゃった。わしと弥五郎は商人のふりをしていたのじゃった」
「……儂は今川家の人質でござった。まあ、それなりに良い扱いもしてもらいましたが……」
秀吉と家康は、本当に昔話だけをしていた。
それも、あまりに昔の話すぎて、酒井忠次や本多忠勝でさえ、話についてこられていなかった。俺と伊与とカンナと、秀吉と家康だけが分かる世界。……ここに石川さんがいれば、さらに話が盛り上がっただろうのに、と俺は思った。
今川義元の御前に出て、スパイだとバレて、さんざん殴られ、しかしそこから逃げだし、松下嘉兵衛さんに見送られ、一度は信濃に逃げて、武田家臣ともばったり出くわし、そこから美濃に戻っていった……
そんな三十年前の冒険譚を、俺と秀吉は語り、家康はやがて手を叩いて面白がり、井伊直政までが「そのようなことを、殿下が……」と驚嘆していた。井伊は若い分、活劇めいた話がずいぶん面白かったらしい。
場は和んだ。
秀吉の弁舌はさすがに巧みなもので、家康が本当に嫌がりそうな話題は避けて、自分たちの馬鹿話や、良い思い出の話だけを繰り広げる。金ケ崎の撤退戦や信玄暗殺について話したときは特に盛り上がった。
だがやがて、秀吉は、
「徳川どの」
と、声を低くして、
「頼みがござる」
「頼みとは……」
「わしは明日、諸大名の前で御身と会見する」
「はっ」
「そのときわしは、いばる。これでもか、というくらい、いばる。そこで貴殿には、どうかその場所で、このわしに平伏していただきたい。
……ご承知くだされよ。かつて信長公と同格の同盟相手であった貴殿よりも、関白豊臣秀吉のほうが上だということを、諸大名に、いやいや天下万民に知らしめねばならぬ。そうすれば、わしのことを百姓上がりだと軽んじている諸将も、また民衆も、ああ、ついに豊臣の時代がやってきたのだと理解できるであろう。
そうすれば、まだわしに従わぬ諸国の大名も、豊臣公儀のもとにひれ伏す。無駄な血が流れずに天下は泰平となり申す。
どうか、その役目を、徳川どのに務めていただきたい。業腹は承知の上で、なにとぞお頼み申す。なにとぞ。……」
「…………」
必死に頼み込む秀吉の姿を見て、家康は複雑な顔をしていた。
一瞬、むっとしたような気配も見せた。――家康は、秀吉の言うとおり、かつては信長公と同格だった男だ。それが信長公の家臣だった秀吉に、自分は明日いばるからどうか土下座してくれと頼まれたら、怒りの感情を持つのは当然だろう。
だが家康は、すぐにその怒気を消した。……そう、かつて俺と家康が初めて出会ったあのとき、家康は隣人に対して怒り散らかしていた。佐々成政のさらさら越えのときにも、義理と忠誠の心をもって秀吉と戦おうとしていた。……
家康は生来、短気なのである。激情的な男なのである。理不尽に対して怒ることができる人物なのである。だが家康はもはや、みずからの怒りを押さえつけることができる男になっていた。
やがて家康は、微笑を浮かべた。
「よろしゅうござるとも。……思えば信長公のご遺志である天下布武。あの天下布武の願いがいよいよ叶うときがきた。その天下布武に力を貸すことに、この徳川家康、なんのためらいがございましょうや」
「おお! では、してくれるか!」
「しますとも。元より関白殿下に従うことを表明するための上洛でござるゆえ」
「徳川どの、見事じゃ。やはり貴殿は大した男じゃ!」
秀吉はぐっぐっと家康の両手をつかみ、力強く握っていた。
「器がでかい。さすがは信長公が見込んだ方よのう」
「殿下こそ。あなた様こそ、信長公が誰より見込んだ人物でございます」
「わっはっは、嬉しいことを言ってくれる。……そうさな、信長公。……見込んでくださったわ、この猿を……」
そのとき秀吉のまつ毛が、わずかにだけ濡れた。
家康も、うん、とばかりに小さくうなだれた。
「……お優しい方で、ございましたな」
「……うむ、とても、優しかった……」
いま、交わった。
わずかに顔を上げた秀吉と。
その秀吉を見つめている家康。
ふたりの視線は確かに交差したのである。
目に見えないなにかが、この場を支配したのを俺は感じていた。
信長公が二人を結びつけてくれた。それは友情とか信頼とかをさらに一段飛び越えたものだった。織田信長の思い出を通して、天下を統一するという使命感が、ふたりの間に無言で共有されたわけだ。
俺は肩を震わせた。
思わず、涙を流しそうになったが、ぐっとこらえた。
異様な感慨を覚えていた。いまから三十年以上も前に、駿河の片隅にて、秀吉と家康が対面し、信長論を交わしたことを思い出す。あのときあの瞬間、すでにこのときの伏線は張られていたのかもしれない。人生とは、運命とは、なんて数奇なものなんだ……
「弥五郎。汝が泣くやつがあるか。自重せい」
秀吉が俺をたしなめた。
「す、すまない……俺は……」
こらえたと思っていたのに、涙がぽろぽろと溢れ出ていたのだ。
伊与とカンナが、揃って手ぬぐいを出してくれた。
俺は涙を拭きながら、何事かを口走った。自分でもよく分かっていなかったが、のちに伊与に聞いたところによると、このときの俺は、こう言ったらしい。
「豊臣と徳川の和議成立、誠にもって祝着至極。これにて天下は見事、必ずや泰平になり申そう。応仁以来の騒乱も、もはや本日限りなり。この日の幸福は苔のむすまで。未来永劫、この安定が続きますように」
俺がそんな仰々しい喋り方をしたのかと、さすがに信じられない思いだったが、心の中身は確かにその通りだった。
もうこれ以上、大きな戦いは起こらない。あとは秀吉と家康が力を合わせれば、天下は必ず平和になる。心からそう思っていたのだから。
翌日。
家康は、大坂城に登城し、謁見の間において、秀吉を前に平伏した。
秀吉は大いばりになり、
「徳川中納言、大義!!」
と、大声で吠えた。
家康は「ははっ!」とさらなる土下座をした。
秀吉は、さらに大きな声で、
「よくぞ大坂に参られた。これより以後は徳川家、豊臣氏の一股肱となりて、主上のため、関白のために尽くし、万民のために働かれよ!」
「心得ております。徳川中納言、殿下に忠義を尽くし働き、天下の御為となることを誓います」
「よくぞ申した! これにて天下は万歳、万歳! はっは……」
「つきましては、殿下」
「ん? なんじゃ……」
秀吉はちょっと驚いた顔をした。
家康がここで発言をすることは、昨晩の取り決めにはなかったことだ。
「殿下にお願いがございます。よろしければこの家康に、殿下ご愛用の陣羽織をくださりませぬか。徳川家康が殿下のおそばに参りましたからには、以後、殿下に陣羽織をお着せするようなことはございませぬ」
秀吉にはもう戦いをさせない。
これからは家臣として自分が戦うから、という意味だった。
秀吉は、大きく笑って、
「承知した!」
ひざを何度も叩いた。
まったく、関白にしては品がない。
俺は心の中でニヤニヤ笑っていた。
「わしは良き家来、良き義弟をもったものよ。よう申した、よう……。徳川次郎三郎どのはまったく、地球一の弓取りなり!!」
地球、という言葉を知る一部のもの以外はポカンとしていたが、秀吉はとにかく上機嫌であった。
この日、家康は確かに秀吉の臣下となった。
そして、豊臣氏による天下統一はもはやリーチ。
すごろくで言うところの『あがり』まで、本当にあと一歩。サイコロの一振りで終わるところにまで来ていたのである。
その頃、大坂城内は、てんやわんやであった。
家康だけではなく、上洛してきた徳川家臣たちに対して食事を提供せねばならない。料理人や使用人たちは働きに働いた。特に小一郎と、神砲衆のカンナは運ばれてきた食材を逐一吟味し、大労働であった。料理人たちとカンナたちの間を取り持ったのはあかりで、忙しく動き回っている。
さらに、豊臣家臣と徳川家臣が、今後、共にやっていくためとして、秀吉の家来と家康の家来はお互いに顔を合わせ、これからどうぞよろしくとばかりに挨拶を交わしたり、情報を交換したりし始めていた。ここで活躍したのは、駿河に娘をやった伊与であり、東海地方出身の五右衛門であり、また松下嘉兵衛であった。
その嘉兵衛。
さすがに疲弊し、夕方になると一休みとばかりに厠へ向かった。
小便を済ませ、また大坂城内を歩く。
不気味なくらい、人間がいなかった。
誰もが、豊臣と徳川の和平のために動いているのであり、大坂城の片隅にある厠には誰もいなかったのだ。
(この厠まで来てよかった。人がいなくて、いい)
嘉兵衛は深呼吸を繰り返して、疲れを取ろうとしていた。
そのときである。
「……ぁ……」
声がかすかに聞こえた。
(なんだ? ……女の声? ……座敷牢に捕まっているという例の、おかしな女か)
嘉兵衛は、興味がわいた。
声がするほうへ向かっていた。
大坂城の奥深く、陽も当たらないような薄暗い場所に声が響く。嘉兵衛はゆっくりと近づいていった。すると座敷牢が、確かに作られていた。そして牢の中からは、女の声が――
「出してくださいませーェ……木下藤吉郎ォォ……山田弥五郎ゥゥ……わたくしは……わたくしは、こんな、こんなところにいとうはございませぬーゥ……弥五郎ぉぉぉ……」
「そ、そなた、まさか」
嘉兵衛はその女を見て、仰天した。
昔見たときよりも、はるかに老けて、痩せているが、しかし間違いない。
「未来ではないか!? 飯尾家の……まさか!?」
「……ああ、松下、嘉兵衛、さま? 間違いない……嘉兵衛さま、出して、だぁして、くださいませ……。どうか、この未来に慈悲の心を……。そしてぇ、そしてぇ、あの山田弥五郎に、一度だけでも、会いたい、あいとう、ございますぅ……」




