第二十六話 その女の言い分
大友宗麟は秀吉に、九州まで早く来てほしいらしい。
それほど島津氏は、猛烈な勢いで北上している。
しかし秀吉にも事情があった。
徳川家との和睦がまだ完全に成立していないのである。
「いま九州に取り掛かれば、徳川は攻めてくるかもしれん」
という恐怖を、秀吉は常に抱き続けている。
だから秀吉は、5月になると、数年前に夫を亡くし、独身だった秀吉の妹、旭姫を家康の正室とする話を進めた。
世間では、夫と旭姫を無理やり離婚させて家康に嫁がせた、という風聞が飛び交ったが、それは間違いだ。旭姫は間違いなく独身だった。ただ、年齢が高めだったので、本人もまさかここから再婚するとは思わず、かなり戸惑っていたようだが……。
とにかくこうして、秀吉は家康を義理の弟とした。
家康を弟分としていた信長公を見習ったのかもしれんと、俺は少し思った。
この頃にはもうひとつ、秀吉にとって痛い出来事が起こっていた。
いや、それは俺にとっても悲しく痛いことだった。
蜂須賀小六が、亡くなったのだ。
数ヶ月前から体調をよく崩していた蜂須賀小六だったが、いよいよ調子が良くないと聞いた俺は、伊与とあかりを連れて、大坂城の蜂須賀屋敷へ入った。屋敷内には多くの者が詰めかけていたが、その中でも、黒田官兵衛が俺を見つけて、近づいてきた。
「おう、山田どの……」
「小六は、どうだ」
「うむ、ずいぶん厳しい。心も弱くなっている。おそらく今夜か明日には……」
俺はうなずいて、蜂須賀小六の寝床へ向かった。
小六は横になったまま、薬師や小姓に世話をされている。
俺に気がつくと、顔を横に向けたまま、微笑んだ。
「……ょ……」
「喋るな。そのまま、そのまま」
「……いや……。……情けないことだ。……こんな寝床の上でオラが亡くなるとはな……できれば戦場で死にたかったが……」
なるほど、弱気だ。
もう自分が亡くなることを察している。
生き抜こう、という意思が感じられない。
昔の小六とは別人のようになっている。
そのときだ。
おう、おうおう、という声が聞こえてきた。
あの声は、ああ、間違いない。
「小六兄ィよお、なにを寝ておるんだ。起きろ、起きるでよぉ、おい!」
秀吉だった。
小一郎を連れて、小六の枕元にやってくると、細くて老いたその腕をつかみ、
「いよう、小六兄ィよ。もうちょっと頑張れや。兄ィらしくねえ。せめてわしがよ、徳川や島津や北条を従えてよ、日ノ本全部を手に入れるまでは起きとけや。な、な、な。あと三年、いや一年踏ん張れ。こりゃ関白の命令じゃぞ!」
「関白か……」
小六の瞳が、薄青くなってきた。
いよいよ彼から、生気が失われようとしている。
「猿が……関白になるとは、乱世極まるなあ……」
「その乱世も、間もなく終わるんじゃ。だからそれまでは辛抱せいや、なあ!」
「まこと、夢のようだ。津島で、大橋屋敷で、オラとお前でだべっていた頃が……山田と蜂楽屋とオラがケンカしてさあ……おめえが、間に入ってきて、さ……あれが……いまや関白……」
「小六」
確かに、俺と彼の出会いは最悪だった。
だがその後、俺たちは共に死線をくぐり抜けた盟友となったのだ。
俺も近づき、彼の手をそっと触った。
冷たい。血が感じられない。……小六!
小一郎が、官兵衛が、伊与が、あかりが。
そして小六の家族たちが、彼をぐるりと取り囲む。
小六は、笑った。
「おもしれえ人生にしてもらった。感謝しておる。……皆の者」
「兄ィ……!」
秀吉が、甲高い声を出した瞬間に、薬師が身を乗り出した。
ややあって、薬師が首を振ったとき、小六は笑ったまま、もう口を動かさなくなっていた。
「小六」
俺はその名を呼んだが、もう返事が来ることはなかった。
蜂須賀小六はいま、世を去ったのだ。
涙が、わずかに滲む。誰もがうつむく。
おぉぉおお……
うおおぉぉぉん……!
秀吉だけが、噴火のように号泣していた。
俺と会うよりも先に、小六と出会っていた秀吉。
家族以外では恐らく最初の友人にして兄貴分だった男を失った悲しさは、いかほどだろうか。俺はただ無言のまま、ただしばらくの間、秀吉の隣にいようと思った。
蜂須賀小六が没した日の、深夜――
秀吉は大坂城の奥で、たった一人だった。
山田弥五郎や堤伊与まで退出したあと。
近侍や小姓さえも遠ざけて、あぐらをかいて座り込み、ぼうっと虚空を見つめていた。
友の死――それは秀吉にとって、覚悟していたよりもずっと、心に堪えた出来事だった。竹中半兵衛が亡くなったときも、織田信長が滅したときも、それはもちろん傷つき苦しんだけれども、幼いころより身近にいた蜂須賀小六の逝去は、さらに一段上の辛苦であり、別種類の艱難として秀吉に襲いかかってきたのだ。
(女に会いたい)
ふと、そう思った。
元より自他共に認める女好きの秀吉だが、信長死後はいっそう女性を求め始めた。それはもちろん欲望が理由でもあるが、別の事情もある。
ひとつは、秀吉自身を政略結婚の道具としたことだ。秀吉は、織田家や前田家、さらに他の名家の姫君をよく側室にした。それは元よりなんの後ろ盾もない羽柴家を、有力な大名や公家と結びつけるためでもあった。
そしてもうひとつは、女性が近くにいなければ、精神的に耐えられない状況が相次いだこともあった。天下を取るために、働き続ける重圧は、数多くの女性と交流することによって癒やされた。
いまも、まさにそうだった。
片腕であり、親友であり、重臣であり、兄貴分だった蜂須賀小六。
彼が亡くなったことで秀吉の心は疲弊した。女のところへいきたいと、ほぼ本能的に思った。
(誰のところへいくか……。……そう、信長公の姪御たる茶々、あれも良い女となっている……。わしを受け入れてくれはせんものか……)
この日の秀吉は、特に疲れていた。
ふらふらと、たった一人で、大坂城の奥へと向かっていく。
その途中であった。
ひとりの女性と廊下で出くわした。
女性は、すぐに横にずれて平伏した。
白い首筋から、妙な色香が漂っている。
年齢は、おそらく三十代の後半で、若くはない。
しかしなにか、妙に心惹かれるところがあり、秀吉は思わず声をかけた。
「汝は誰じゃ」
「はい。大友家に仕えている、侍女でございます」
――大友の侍女が、なぜこんな時分に大坂城の奥におるのだ。
とは、秀吉は思わなかった。
それだけ精神的に疲弊していた。
「汝は、親は誰じゃ。九州の誰かか」
「いいえ、元は遠江の武家の娘でございます。しかし家が滅び、流れ流れて九州へ参りました。その後は婚姻もなせぬまま、博多商人の島井宗室さまのところに拾われ、さらに大友さまに拾われた……流れ者でございます」
「ほう、それは哀れな……」
と言いながら秀吉は、
(そういう身の上の女ならば、手をつけてもよかろうな)
と計算していた。
それなりの家の娘や、夫がいる身ならば手を出すと揉めるかもしれん。関白といえど、いまは九州の勢力とわずかなりとも揉めたくない。だが、流れ者の娘ならば――年齢を考えても、小娘のように騒ぎ立てたりはするまい――
「ちょうどよい、わしの腰でもひとつ、揉んでくれんか」
秀吉はそう言って、女に一歩、近づいたが、そのときである。
「わたくしは、以前、殿下にお目にかかったことがございます」
「……なに?」
「もはやお忘れでございましょうか。はるか彼方、飯尾豊前守の屋敷であなた様と山田弥五郎さまに可愛がっていただいた、わたくしを……」
「飯尾……じゃと?」
妙な名前が出てきおった、と秀吉は思った。
飯尾といえば、確か、昔、遠江に情勢調査のために弥五郎と向かったときにいくらか世話になった、確か今川家の家臣だった家だが――そうじゃ、そのときの娘は生き延びて、わしと弥五郎の敵になって――と、記憶の底から彼女のことをほじくり出していたときに、
「殿下、是非わたくしのお話をお聞きくださいませ。博多商人の島井宗室さまは織田信長公と共に、明智光秀の乱を乗り越えた方です。その島井さまが、ひそかに聞いたそうなのです。信長公と山田弥五郎が、ある夜にコソコソと不思議な話をしていたことを。
それはなんと、あの山田弥五郎が、はるか時の彼方――何百年も未来の世界からやってきた人物、という話でした!
まさか、と島井さまもその話を容易には信用しなかったそうですが、しかし、嗚呼、しかし、あの信長公もそのことはご承知の様子だった、というのです! 山田弥五郎は未来からやってきた人間、信長公もそれを知っていた……。
あまりにも不気味な話でございますゆえ、殿下も容易には信用できぬことでしょう。ですがこれは真実でございます。合点がいきませぬか!? 山田弥五郎が、未来から来た、という話は――」
「汝は、誰じゃあッ!!」
秀吉は激昂した。
その声を聞いて、遠くの部屋から次々と侍が登場し、駆けつけてくる。その中には福島正則や加藤清正らの姿まであった。
「汝、なにをもって我が友弥五郎の、また我が旧主信長公の悪口を言いふらすかッ! 許してはおかんぞ!!」
「殿下、わたくしは、未来でございます! お忘れでしょうか、このわたくしを。……斬り殺されても構いません。その覚悟でここに参りました。お手討ちなさいませ。その代わりに、どうぞ信じてくださいませッ! わたくしの、わたくしの話を……!」
「黙れ! ……市松(福島正則)ゥ……この女は壊れておる。斬れ――いや、仮にも大友の家の女じゃ。どこぞの部屋に閉じ込めい!! 沙汰は追っていたすッ!」
「ははっ!」
福島正則は、未来を捕まえて、別室へと強引に連れていった。
未来はどこか、満足げな微笑を浮かべていた。
すべてを見抜いています、とでも言わんばかりの笑顔は、いっそう秀吉の怒りに油を注いだが――
(……未来から、来た? 弥五郎が? 信長公もそれを知っていた? 馬鹿な……いや、しかし……)
完全に否定できないなにかを、秀吉は感じ取っていた。
(……未来……から……? 信長公……も……?)
言葉にできぬ苛立ちを感じていた秀吉は――
信長の顔をふっと思い出した。そして、
(茶々のところへ参るッ)
無性に茶々に会いたくなった。これまでは信長の姪程度にしか意識していなかったあの娘に。信長に――どこか似ているあの女に。話がしたいのか、気持ちをぶつけたいのか、自分でもよく分からぬままに――秀吉は、茶々のところへと向かっていた。
今年の投稿はこれで終わりに致します。
次の投稿は来年1月3日(金)の21時ごろにする予定です。
「戦国商人」は恐らく来年中に完結すると思います。
長い長い話となっていますが、どうぞ最後までよろしくお願いします。




