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第十八話 孫を抱く

「三介さまっ! 織田三介さま~ぁ!!」


 1584年(天正12年)11月。伊勢国桑名の地にて。

 織田信雄を前にした秀吉は、突如として平伏し、俺や滝川一益を含むまわりを驚かせた。


「こたびはいかなる行き違いか、三介さまを相手に戦をすることになり申した! なんたることか!


 この筑前、織田さまの軍勢を相手には鉄砲玉の一発も撃つでないぞと固く固く命令しておったものを、兵どもは撃ちまくってしまって! おお、しかしすべてはこの筑前の力不足がため……!


 ああ、この秀吉の、ばか、ばか、ばか! ばかものめ!」


 ポカポカと自分を殴りつける秀吉を見て、織田信雄は慌てて「も、もうよい、もうよろしゅうござる」と止めに入ったほどだ。


 織田家と羽柴家の和睦が成ろうとしていた。

 数ヶ月の戦と経済制裁によって疲弊した織田信雄家は、もはや羽柴家と戦うことはできぬと判断。徳川家康に相談のうえで和議を決定した。


「筑前どの、もうよろしゅうござる。いや、こたびの戦はわたくしも悪うござった。功臣たる羽柴どのを相手に我が儘を言い申した」


 信雄の謙虚な言葉。

 これには俺も、ほう、と思った。


 この場で信雄と秀吉が和睦をするのは知っていたが、ここまで信雄側が丁重な姿勢を示すとは。


「あの方も経験を積んだ、ということよ」


 俺のすぐ背後にいた滝川一益が言った。

 今回の和議において、織田信雄は滝川一益にまず頼った。


 織田家の功臣にして、かつては秀吉と極めて対等に近かった滝川一益ならば和議の仲介役としてふさわしいと思ったのだろう。


 実際、滝川一益はきちんと働いた。

 秀吉に和議の話を通し、実に丁寧に動き、こうして伊勢国の和睦会談の場をセッティングしたのだ。


 さすが久助だ。

 と、俺は内心賞賛していた。


「敗北したら、誰に尻拭いしてもらえるわけでもない戦だった。もう、信長公も信忠公もこの世にいないのだからな。……それを三介さまは、ようやく理解したんだよ」


「よく働いたな、久助。一時は織田家に失望していたお前が」


「働かないわけにはいくまいよ。……人間、そうなにからなにまで割り切れねえ。羽柴と織田が仲直りしてくれたら、言うことはねえさ。ただ」


「ただ?」


「もう織田は、天下は取れまいぜ。ただ、家として続けば上出来だ」


「……うん」


 俺はうなずいた。


「天下は羽柴の意のままさ。しかし、もはや歯がゆくもねえ。山田、お前さんの言う通り、羽柴のおかげで万民が泰平と繁栄を手に入れることができるのなら、オレは喜んで羽柴家に忠義を尽くそう」


「有難し。滝川久助」


「お前さんがいなきゃ、ここまでは割り切れなかったがな。……ああ、あかりちゃんの作った飯を食いてえなあ。早く帰りてえ……」


 小声で冗談を言う滝川一益。

 俺は、思わず笑みをこぼした。

 目の前では、相変わらず秀吉と織田信雄が和睦の話を続けている。


 この和睦により、織田信雄家は本領を安堵された。

 徳川家康は「天下のために大慶に存ずる」とだけコメントを残し、尾張や伊勢に出てくることはなかった。だが、次男(のちの結城秀康)を秀吉の養子として大坂に送ってきた。事実上の人質と言えた。


 その後、秀吉は上洛。

 朝廷により従三位権大納言じゅさんみごんだいなごんに任じられた。


 これにより秀吉の官位は織田信雄を凌ぐ。

 織田信雄はこのとき、正五位下左近衛中将しょうごいのげさこんえのちゅうじょうであった。


 まさに主従、逆転の構図であった。




「我々は、いずれあの世で信長公に叱られるかな」


 津島の屋敷にて、伊与がぽつりと言った。


 織田と羽柴の和議により、経済制裁を解くために、俺たち神砲衆は津島に残って仕事をしていたわけだ。


 古屋敷のひとつを買い上げて、伊与やカンナと商務を遂行していたとき、伊与がそう言ったわけだが、


「信長公なら分かってくれるさ。俺たちなりに、やれるだけのことはやってるんだ」


「ねえ、弥五郎。ふっと思ったんやけど、死んだ人はみんな、あんたみたいに転生するんかな? やったら信長公とか、竹中半兵衛さんとか、他の死んだ人たちも生まれ変わるんかなあ?」


 カサカサのもみじが、風に乗って部屋に飛び込んできた。

 少し、肌寒い。12月の津島である。


「俺にも分からん。剣次おじさんは俺の夢枕に立ったけどな。成仏したのか転生したのか、天国か地獄にいったのか」


「虫かなにかに生まれ変わるかもしれないぞ。人間になるのはかなりの幸運でないと無理だと思う」


「ありえるねえ。人生なんか蝶々の夢かなにかだった、みたいな話をあたし聞いたことがあるよ。あたしは蝶々の生まれ変わりかもしれんばい」


「蝶々なら悪くないな。次の人生は蝶になって自由に空を舞ってみるか」


「なんにせよ、乱世は御免被るな。次は平和な世に……」


 と言いかけて、自分がかつては平和な未来の出身なことを思い出す。


 皮肉なことだ。

 平和な世界では負け犬だった俺が、戦国時代ではうまくやっているなんてな。


「あたしは次の人生、どこでもなんでもいいけどさ。また弥五郎と会いたかよ。それに伊与に五右衛門に次郎兵衛にあかりに……藤吉郎さんも信長公もいて。


 あたし、生まれ変わっても、みんなにまた会いたいよ」


 カンナの言葉は実感だった。

 俺だって、


「みんなといつまでも過ごせたらいいな。いつまでも、いつまでも」


 孫さえ産まれた自分だというのに、少年のような願いを口にする。


 伊与やカンナもそうだ。

 人間とはどんな時代でも、そんなものかもしれない。


 部屋の中のカサカサもみじが、ひとつ。

 風に乗って、今度は外へと飛び出していった。




 さて、津島で働いていた俺達のところに知らせがひとつ飛び込んできた。


 駿河に住んでいる樹からの手紙である。

 孫は、じん、という名前がつけられたらしい。

 少し変わった名前だが、相手方の祖父が仁左衛門という名前だったのでそこから一字を戴いたらしい。


 手紙には、


「五右衛門と次郎兵衛が自分を守ってくれたので安心した」


 という言葉と共に、


「いくさも落ち着いたのなら、ぜひ父上と母上とお会いしたい」


 とあった。


 と言っても、赤子を抱えた樹に津島まで来いとは言えない。

 ならば俺たちが駿河まで行くか、となると、少し話が微妙になる。


 駿河は徳川領だ。

 和議が成立したとはいえ、少し前まで戦をしていた羽柴家の商人司たる山田弥五郎が、出向いていっていいものか。家来の誰かならともかく、俺自身が行くとなると少し厄介になるかもしれない。


「だが、これは良い機会かもしれないぞ」


「なにがだ、俊明」


「俺自身が駿河に行けば、樹と孫に会える。それに徳川領の偵察もできる。五右衛門たちと合流して話を聞くこともできる。良いことずくめだ」


「それはそうだが……。徳川家のほうがどう思うか。せめてあと数ヶ月後ならば、と思うが」


「それじゃ遅い。実は俺がいま徳川領に行きたい理由はもうひとつある。……佐々内蔵助がまもなく徳川領にやってくるんだ」


 いわゆる、佐々成政のさらさら越えだ。


 織田徳川が羽柴家と和睦した話を聞いた佐々成政は怒り狂い、そして戦いの継続を依頼するために、道なき道を突破して、越中から浜松までやってくるんだ。


「これ以上の戦は無用だ。俺は俺自身で内蔵助と会って、説得をしたい」


「やったら、やっぱり藤吉郎さんに話をしておくのがスジよ」


 カンナが話に入ってきた。


「あんたの独断で徳川家に向かったら、伊与の言う通り、もめ事になりかねん。羽柴家のお墨付きを得た上で、とにかく孫に会うことを第一目的として旅をするのなら、問題にはならんのやない? ……それと、なるべく少なめの人数でね」


「そうだな。……そうしよう。じゃあ、俺と伊与とカンナでいくか」


「あたしは津島でまだ商いがあるけん。あんたたちだけで行ってきいよ。樹のことやったらやっぱり両親だけで行くのが一番よ」


 というわけで、俺はまず大坂の秀吉に使いを飛ばした。

 徳川領に孫の顔を見に行っていいか、というお尋ねである。


 こういうときに五右衛門か次郎兵衛がいたら三日もかからず帰ってくるのだが、不在だったので六日もかかった。秀吉からの返事は「承諾」とのことだった。


「津島から船を使って駿河に行くといい。またこちらから、松下嘉兵衛どのに使いを出しているので、徳川領にいる間は松下どのを頼みにしておくこと。そして可能ならば徳川領の世情や士気、噂話などを調べておいてくれ」


 ソツのない返事であった。

 こうして俺と伊与は船に乗り、駿河へと向かった。


 約30年ぶりだ。

 かつて信長公の命令を受けて今川領を旅したことを思い出す。


 海の上から、富士山の頂が見えた。


「見事だな、俊明」


 かたわらで伊与が、黒髪を潮風になびかせながら目を細める。


「だな。落ち着いて山を眺めるなんて、何年ぶりだろうか」


「お前はせわしないからな。……幸せだ。こうして二人で富士の山を眺められるなんて」


 そういえば、伊与と二人きりでゆっくり喋るのも久しぶりな気がする。


「しかも、駿河行きの最大の理由は孫の顔を見るためだ。どう思う、俊明」


「どうって……なにがだ」


「私たちが、おじいちゃんとおばあちゃんだぞ」


「むう」


 押し黙るしかできない。

 伊与は見たところ若々しく、実年齢より10は若い――まだ30代半ばくらいにしか見えないが。……俺はもっと若かったころを知っているからな。年齢が一桁だったころを。


 まだ、山田俊明の記憶が戻っていないころ。

 大樹村の片隅で、ふたりで木に登ったり、泥まみれになって走り回ったり。

 あの伊与と夫婦になって、いまや孫、か。


「弥五郎じいちゃん。……あはは……」


「なんだ、いきなり。よせよ、ぞくっとする」


「久しぶりに弥五郎と呼んでみたかったんだ。弥五郎じいちゃん。おじいさま。たまらないな。ふふ、ふふふっ……」


「だったら伊与ばあちゃんと呼ぶぞ。伊与ばあちゃん。なあ、おばあさま」


「よ、よせ。分かった。私が悪かった……ほら、弥五郎――俊明。もうすぐ、駿府だぞ」


 船は駿府の港に入ろうとしていた。




「父上、母上! お久しぶりたい! よう来てくれたよ~!」


 駿府港に入るなり、樹がカンナ譲りの博多弁で俺たちを出迎えてくれた。

 もちろん一人ではない。嫁ぎ先の旦那、使用人が3人。

 そして、樹が抱いている孫――俺と伊与の、孫。


 仁だ。

 小さくて、あまりにも小さくて。


「俺たちの孫か。これが……」


「昔の樹に似ているな。抱いてみてもいいか?」


「もちろんたい」


 樹とその旦那はうなずいてくれた。

 まずは伊与が、首がすわったばかりの仁を抱き。


 次に、俺。

 恐ろしく柔らかく、あたたかな命が俺の腕の中にいる。


 孫は子供とはやはり違う。

 樹とも牛神丸とも異なる、自分の子孫。

 山田弥五郎俊明から数えて3代目の生命が、いまこの戦国時代に息吹いている。


「……うん。……ありがとう」


 俺は仁を樹に返した。


「おじいさまになったご感想は?」


「じいさまはよしてくれ。それはさっき、伊与とさんざん船上でからかいあったんだ。……でも、いいな。……すごく、いい……」


 芸の無い感想を返しながら、それでもまなじりに涙が浮かびそうなほど、俺の心は感極まっていた。


 この子が、仁が――30歳になったころに、大坂の陣が終わり、泰平の時代がやってくる。俺が知っている歴史通りになれば、だが。……そうなるかどうかは分からないし、できることなら、豊臣が滅びる未来など見たくはないが……。


 だが。

 たったひとつ言えることは。

 この仁が、小さな生命が、決して暴力で失われることなく。


 そういう時代になってほしいと。

 俺は心から、本当に真心から祈り抜いたのである。


「弥五郎」


 声が聞こえた。

 振り返ると、松下嘉兵衛さんが立っていた。


「孫との対面は済んだかい? ……いや、悪いと思ったが、お孫さんとはこの某が先に出会ってしまったよ。ははは」


「それは仕方が無いですよ。抱いてみますか、仁を」


「いや、遠慮しておこう。もし落っことしたら大変だ。それよりも、宿をとってある。まずはそちらへ」


「……分かりました。行こう、伊与」


「父上、母上。お役目、がんばりんしゃい」


 樹と仁と別れ、俺と伊与は松下さんに連れられて、港から駿府の町に入った。

 本当は樹や仁と、もう少し一緒にいたかった。樹の嫁ぎ先に入って、せめて夕方まで、場合によっては一晩泊まらせてもらおうかと考えていたのだが。


「急がせてすまないな。ただ、羽柴家の商人司たる弥五郎だ。あまり町中を歩き回ってほしくない、というのが徳川さまの意向なんだ」


「……やはり、そうなるか。無理もないが……」


「松下さま。あとで樹にふみを出すのは構いませんか?」


「ああ、それくらいはもちろん構わない。某の家来を使って、文を送るといい」


 伊与が言ったのは、五右衛門たちのことだろう。

 先ほどの場では姿を見せなかったが、五右衛門たちは影から樹を守りながら、徳川領の情勢を探る役割をしているから、出てこないのは当然だった。


 伊与は手紙で、五右衛門たちと連絡を取ろうというのだろう。

 俺も賛成だった。五右衛門か次郎兵衛か、どちらかと合流して話を聞きたい。


「徳川家は、どうですか」


「……ここだけの話だが、ずいぶん揉めている」


 松下さんは、疲れたような顔で、


「なぜ、木下藤吉郎を相手にこんなにへりくだるのだ、徳川家から人質を送るのはなぜか、まだ戦えたはずだ、と言う者もいれば、もはや戦いは限界だ、織田家が和睦したる以上、徳川家も完全に和睦し、最後は羽柴の傘下に入るべきだと主張する者もいる」


「羽柴の傘下に入るべしと主張しているのは、だれです」


「おもに、某。そして石川どのだ」


 石川数正か……。

 徳川家康の腹心にして、外交上手の人物だ。

 俺も何度か顔を合わせているが。……あの人は――


「肝心の徳川さまは、どうお考えですか」


 伊与が尋ねた。


「なんとも……。徳川さまは、なんというのか、こうして家中が紛糾すると、議論に参加するでもなく、素知らぬ体をすることが多い。本音がどこにあるのか、某でも分からない。……そうだ、そしてその徳川さまが、弥五郎、そなたと会いたがっている」


「俺と? 徳川さまが」


「弥五郎、そなたが徳川のことを探りたいように、徳川も上方のことを探りたいのさ。……どうする、我が殿と会うかい?」


「もちろんです」


 ここで家康の腹を見ておきたい。

 それに、もうすぐ佐々成政がやってくるはずだ。

 家康と佐々成政。ふたりと会い、もはや無益な戦はやめるように説得するのだ。




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