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第三十五話 血まみれのリボルバー

 夜の世界に、砂煙の匂いが漂う。

 明智軍がこちらに向けて疾走してきているのだ。確かだ。

 しかし信長軍はすでにその動きを察知し、林を出て陣形を整えていた。


「父上、おいでなさるか。信忠でござる!」


「おう、奇妙。予はここにおる。明智軍が来る。数は500だ。このまま蹴散らすぞ」


「承知仕った。しかし明智本人が見つからぬのが歯がゆうございますな」


「やむをえまい。まずは目の前の敵を蹴散らすのみ」


 ――やがて明智軍が、だんだんだぁん! と、鉄砲を撃ってきた。


 信長軍は竹筒を構え、弾丸を弾きながら、じわじわと相手に向かって進んでいく。


「者ども、落ち着け。夜である。鉄砲などそうそう当たるものではない」


 と、若い声が響いた。

 森蘭丸の声だ。


 あの年齢で見事に、将の器の片鱗を見せている。

 さすがだな。信長が可愛がるのも分かる。


 信長軍は一丸となって、明智軍の弾丸を弾き返しつつ、突き進む。

 数はおおよそ2000。明智軍の4倍だ。勝てる。俺はそう判断した。


「つっ……」


 突如、俺は身体に走った痛みに顔を歪めた。


「大丈夫かい、弥五郎」


「五右衛門! いたのか。お前こそ大丈夫なのか?」


 明智軍から走ってきて、俺達に危機を知らせてくれた五右衛門が、いつのまにか俺の隣にやってきていた。


「鍛え方が違うよ。もう万全だ。それよりもアンタの怪我……明智光秀に撃たれた傷だろう。平気か?」


「簡単な手当はしてある。大丈夫だ。それよりも五右衛門、お前こそ少しでも休め――」


「ウチは平気だって。それよりも気になる。明智軍の数が少なすぎる」


「なに?」


「明智軍は10000を超える兵数だった。その一部しか動かせなかったにしても、信長を討ち取るために差し向ける軍勢が500程度なのは怪しい。もしかして」


「……敵に策あり、と……?」


 そのときである。


「山田様」


 と声をかけてきたのは、和田さんから俺のところに派遣されてきた甲賀忍びのひとりだ。

 信長を守るために雇っていた男だが、


「風の流れがおかしゅうござる。南東からゆるやかに風が吹いているのに、織田軍にかかる風が少ない気がいたします」


「風が少ない? ……」


 それがどうした、と思いつつ――

 一瞬後、俺は気付いた。


「まずい、伏兵だ! 五右衛門、上様に報告を……」


 遅かった。

 南東の方角から、突如、弓矢が雨のように降り注いできたのだ。――ひゅっ、ひゅん、ひゅっ!! ぎゃあ、うわあ、と、信長軍から悲鳴が上がる。


「おのれ、猪口才な……!」


 信長の声がどこかで聞こえた。

 俺は舌打ちした。……明智軍め!


「少ない手勢と見せかけてこちらをおびき寄せつつ、伏兵で襲撃か。しかも弓矢とは手が込んでいる!」


 鉄砲ならば火薬の匂いで動きを悟られる。

 だから明智軍は、あえて弓矢で仕掛けてきたのだ。


 しかし、この闇世の中、敵も味方も一種の混乱状態であるのに、こんな伏兵作戦まで仕掛けてくるとは!? 光秀本人にはそんな余裕はないはずだ。だとしたら、誰が――


「弥五郎! 斎藤利三だ!」


「なに!?」


「いま、敵軍からチラッとやつの声が聞こえてきた。斎藤利三が弓矢勢の采配をとっている。やつが来たんだ!」


 明智の懐刀と呼ばれる斎藤利三か!

 俺はほとんど面識もないが、知勇兼備の名将として後世にも知られた男だ。


 手強い!

 俺は改めてそう感じた。


 明智光秀本人にばかり注意していたが、その家臣団もやはり強い。

 歴史に名を残すようなやつらは、やはり並の敵ではない!


「五右衛門、神砲衆に指示を。弓矢衆の方角に向けて連装銃を撃ち放て――」


 その瞬間だ。

 さらに別方向から、今度はとんでもない灯火の数々が飛んできて――火矢だ! 今度は火矢が飛んできた。別の伏兵が仕掛けてきたのか。数は少ないが、その猛攻により、信長軍は一時的に混乱した。信長みずからが統率しているというのに、この始末とは――


「明智軍め、さすがにやる……!」


「弥五郎、まずいよ、これは。反撃どころじゃない! いったん撤退だ!!」


「分かってる。しかしまずは上様のところへ……」


 俺は五右衛門と共に、信長のところへ急ぐ。

 信長は、信長軍の中心にいるはずだ。走る。走る。


 1分と経たぬうちに、俺は信長と合流できた。

 信長の周りには――何人もの兵が倒れていた。

 先ほどの弓矢攻撃で、討ち死にした者たちだろう。その中には見覚えのある顔がいくつもあった。それは、


「丹羽さん。……それに、毛利さん」


 俺と何度も話した丹羽兵蔵さん。

 さらに、桶狭間の戦いで活躍した毛利新介さん。


 二人が、絶命していた。

 それだけではない。


 森蘭丸。

 さらに、俺は顔くらいしか知らなかったが、森蘭丸の弟たちもその場に無言で突っ伏していた。


「や、山田」


 よく見ると信忠まで、手傷を負っている。


「見ての通りだ。怪我人が多い。山田、手当をする薬はないか……」


「血止めならば」


 言いながら俺は、信忠の傷口にまず綺麗な手ぬぐいを当ててやった。……すぐに黒く染まる。いけない。早く消毒をして、ちゃんとした薬師に見せてやらないと……。


 信長本人は無傷だった。

 堂々とその場に立ち、信長健在を周囲にアピールするように、


「明智どもめ、やりおるわ!」


 大声で叫んだ。

 その一言で、周囲の士気が少し回復する。


 信長はまだ生きている。

 信長はまだ負けていない。

 その認識がどれほど兵たちを勇気付けることか。


 しかし同時に信長は、現実を把握しており、


「山田。いったん退くぞ」


 と言った。


「はっ、山科まで退きますか」


「馬鹿め。安土までいっきに退くのだ」


 退却――

 その判断もやむなしだろう。

 信忠の傷も気がかりだ。俺はうなずいた。


「逃げましょう」


「味方を見捨てるな。生きているものは可能な限り連れていく」


「もちろんです」


「父上、信忠はまだやれます。逃げようとして背中を斬られて討ち死にするは武士の恥。ここは死物狂いでさらに明智と戦いましょう。敵も疲れているはず」


「たわけ。このようなときに恥もへったくれもあるか。……明智が甘い相手でないことはそちにも分かったはずだ。予もやつを――いや、明智家やつらを甘く見ておった。ここは逃げて体勢をたてなおすのみだ。……しかしどのようにして逃げるか。安土への道には、また明智の伏兵がおるかもしれん」


 と信長が言ったとき、俺は一歩前に出て、


「甲賀に参りましょう。甲賀までいったん逃げて、疲れを取り態勢をたてなおし、そこから安土に向かうのが上策かと。実は、なにかあったときに対応できるように甲賀には話をつけております」


「山田、そちは役に立ちすぎる。ようした。では逃げるぞ」


 こうして信長軍は、一時撤退することに決まった。


 東の空から夜が明け始めている。夜のうちに撤退したい。急がなくては。


「信長が逃げるぞ、信長が逃げるぞ!」


 明智軍が、わあわあと騒ぎ出した。

 ちっ、と俺はまた舌打ちして、リボルバーの引き金を何度も引く。


 俺の周りにいた甲賀忍びたちも、炮烙玉を投げまくって明智軍を攻撃する。しかし明智軍はまた弓矢を撃ちはなってきた。しつこいやつらめ!


「上様、殿様、お逃げを!」


 そのとき、信長軍の中から一歩飛び出して、弓矢を撃ちはなったのは、野々村三十郎であった。


「野々村!」


「それがしが殿軍しんがり、それがしが殿軍! 構いませぬ、それがしに任せて上様はお逃げを! それがしが殿軍!」


「野々村! その忠義忠節、信長、百度生まれ変わっても忘れまいぞ! ……逃げる!」


 信長にとって、死ぬほど辛い決断であることがわかった。金ケ崎のようなことはもうごめんだと言いながらも、それでもこの状況では誰かが殿軍を務めねばならないのだ。


 野々村三十郎と、その仲間たち数人が殿軍を申し出た。信長軍は、野々村三十郎たちの奮戦に感謝しながら、甲賀へと退却することになった。


「――こんなことになろうとは」


 と、俺は歯ぎしりしたが、すぐに気持ちを切り替えた。


 まだ終わっていない。

 苦戦はした。だが、信長も信忠も明智軍から助けることができたのだ。


 そうじゃないか! 本能寺の変が起きて死ぬはずだった二人をとにもかくにも助けている。大丈夫、まだ終わっていない!


「落ち込む理由はない。まだ戦うさ」


 俺は、ずきずきと痛む体をさすりながら、足を必死に動かした。


 朝が来た。

 信長軍は、甲賀に向けてけもの道を突き進む。


 信長軍は、けっきょく、おおよそ400ほどの数にまで激減した。兵たちが討ち死にしたり、逃亡したり、行方不明になってしまったのだ。俺の部下も大多数がいなくなってしまった。


 こうなると、伊与やカンナ、さらに神屋さんたちを先に逃がしていてよかったと思う。


 そして、逃げる途中、俺はかたわらの五右衛門に目を向けて、


「五右衛門。力は残っているか?」


「残っている。残っていなくても、残っていると言う」


「ありがたい答えだ。……ずっと走ってもらっていて、気が引けるが、さらに走ってほしい」


「承知した。どこに走ればいい?」


「備中高松城」


 言いながら俺は、リボルバーを五右衛門に手渡した。


 弾丸は入っていない。それどころか、俺の傷口から溢れた血がこびりついていて、べとべとだ。おそろしく汚い。


「この銃を、藤吉郎に見せてくれ。それだけでいい」


 そうすれば、あいつはきっと気づいてくれる。

 すべてを理解してくれる。信じていた。確信していた。


「分かった」


 五右衛門は、うなずくと、


「任せろ。命に代えてもこの銃を届ける」


「いや、命には代えるな。お前のほうが大事だ、五右衛門」


「……その言葉、すべてが終わったらまた聞きたいな」


「何度でも言ってやるさ」


「……行ってくる!」


 五右衛門は、信長軍から離れて、疾風のごとき素早さで西に向かって駆けていった。


 これでいい。

 これできっと、秀吉は来てくれる。




 備中高松城――

 毛利方の武将、清水宗治が立てこもるこの城に、羽柴秀吉は大量の水を流し込み、いわゆる水攻めにしていた。


 戦況は優勢。

 清水軍5000を水浸しにして、城から一歩も出せぬようにしたうえ、羽柴軍20000で取り囲んでいるのだ。確実に勝てる戦いであった。


 だがそこへ、毛利軍が数万の兵でやってきた。

 こうなると、さすがの秀吉といえど苦戦は免れない。

 そこで秀吉は、信長に援軍を依頼したのだが――


「そろそろ、上様の援軍も来るはずじゃが」


 秀吉は、羽柴の本陣で腕組みしたまま、天を仰いだ。

 夜空は満天の星模様。かたわらには実弟の小一郎、さらに腹心たる蜂須賀小六に黒田官兵衛も控えている。


「兄上、夜も更けた。そろそろお休みになっては」


「うん、……そうじゃの」


 と言いつつ秀吉は動かなかった。

 今夜にも、援軍到着の使者が本陣に飛び込んでくるかもしれない。

 そんなときに、羽柴の大将がグウグウと眠りこんでいては悪評が広まるというものだ。


(特に上様は、案外、そういうところにうるさいからのう)


 秀吉は、しかし、金切り声をあげる信長の姿を空想して、わずかににやけた。

 若い頃から、どういうわけか、信長の喜怒哀楽すべてが好きであった。身分卑しき自分に対して、他の重臣たちと変わらぬ接し方をしてくれる――つまり感情を出してくれる主君が、秀吉にとっては涙が出るほど大好きだったのだ。


(褒められるもよし。叱られるもよし、よ)


 秀吉はそんなことを考えながら、ふと、小一郎に、


「於次丸どのは、どうしておるかの」


 と、尋ねた。


「夜が寒いといって、すでにお休みですよ」


「ああ、そうかい」


 秀吉は目を細めたが、――内心はあまり愉快でもなかった。

 戦場だというのに、養父であり大将でもある自分にあいさつもせずに眠りこくるとは。まさに、そういうところだ。身体があまり強い養子でないのは知っているが、それにしても。――上様のお子でなければ、怒鳴りつけておるところじゃわい……。


 そのときであった。


「羽柴様」


 と言って、ふっと秀吉の背後に男が立った。

 甲賀の次郎兵衛。弥五郎が自分につけてくれた甲賀の忍びだ。

 もうそれほど若くもないくせに、昼も夜も自分の近くに必ずいてくれる。


 これだ、と秀吉は思う。

 こういう目に見えぬ忠義を見せてこそ、男は主に愛されるもの。世間は必ず認めてくれるもの。そう信じている――


「おう、どうした、次郎兵衛。汝も夜更けまで忍び仕事で骨折りなことよ」


「は、ありがとうございます。……それよりも、奇妙な男が羽柴軍の隅っこに入り込んできたッス」


「奇妙? どう奇妙なんじゃ」


 黒田官兵衛が尋ねた。

 次郎兵衛はうなずいて、


「どうも、忍びの者らしいッス。なまりは上方で、……どうやら、西の毛利軍に忍び込もうとしたところを、羽柴軍の足軽に見つかってしまった、と」


「まぬけな忍びよのう。……どこの家が毛利に忍びを送ったのじゃ?」


「それが、さんざん責めても一言も吐きません。……ただ、うつろな目をしながら言ったそうッス。……上方で、明智光秀が、上様にご謀反、と……」


「なに」


 秀吉はじろりと次郎兵衛を睨んだ。

 小一郎や蜂須賀、官兵衛もお互いの顔を見合う。

 だが、すぐに官兵衛は笑って、


「虚報でござろう。こちらを惑わせるための毛利の策略かと」


「……ふむ。……まあ、そうよな……」


 内輪揉めが起きたとか、誰々が裏切ったとか、そんなニセ情報をもたらそうとする敵は多い。


 そんな情報にいちいち右往左往したり、対処していてはいい物笑いの種だ。

 官兵衛の言うとおり、虚報の策だろう。秀吉はそう思っていたが、


(しかし、明智が謀反……)


 その言葉に一種の真実味を感じた。

 織田家の主流から明智が外れてきていたのは事実。

 ありえない、と斬り捨ててよいものかどうか。秀吉の頭脳は回転を始めた。


(柴田は北陸、滝川は関東、わしは中国。……丹羽は大坂じゃが、大軍を擁しておらぬ。明智が謀反をするならもってこいの状態じゃが……。しかし上方には弥五郎もおる。仮に謀反が起きても、容易に対処できるじゃろう)


 そう。

 謀反が起きた、という情報だけがいまの秀吉にもたらされたのだ。

 信長がどうなったのか。織田家がどうなったのか。その状況が分からない。


 ならば、自分は動くべきではない。

 例え謀反が本当だったとしても――


「兄者!」


 小一郎が叫んだ。

 思考していた秀吉ははっと我に返った。


「どうした、小一郎」


「大変じゃ。五右衛門が来た。あの石川五右衛門が飛び込んできたそうじゃ」


「五右衛門? ……通せ!」


 秀吉は急ぎ指示した。

 ややあって、五右衛門が現れた。

 肩で息をしている。顔は真っ赤である。


 どれだけ急いで、走ってきたのだろうか。

 あの五右衛門が、どこか飄々としている女泥棒が、これほど汗だくになって疾走してくるとは?


「五右衛門。どうしたんじゃ、いったい――」


「…………! …………」


 五右衛門はあまりに疲れているのか、声も出さない。

 ただ呼吸を荒々しく繰り返しながら、小刻みに震える手で。


 リボルバーを差し出した。

 血まみれのリボルバー。銃弾も入っていない。

 それを見た瞬間に、秀吉は雄叫びをあげた。


「上方に異変あり。急ぎ戻る。官兵衛、毛利方と和議の準備を。決して敵に事情を気取られるな。……小一郎、小六兄ィ、大返しじゃ! 羽柴軍は京に戻るぞ!!」



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