第二十五話 自分を信じるために
その家の前に立つ。
すると、閉まっているはずの雨戸が、わずかに開いているのが分かった。
ここは、海老原村の中にある空き家だ。
人が誰も住んでいないのは分かっている。
それなのに、中には確かに人がいた。それは誰か?
……言うまでもない。
「カンナ」
家に入るなり、俺は声をかけた。
返事はない。しかし彼女がいることは気配で分かった。
「俺だ。入るぜ」
ずかずかと中に入っていくと。
見慣れた金髪が視界に飛び込んできた。
板張りの床の上で、いわゆる体操座りのかっこうをして、目を伏せている。
「弥五郎。……あたしがここにおること、よう分かったね」
「分かるさ。だってここは」
俺はあたりを見回しながら言った。
「9年前、俺たちがふたりで泊まった場所じゃないか」
9年前、あかりちゃんたちとイノシシを退治したあと。
宴が終わってから、俺とカンナはこの空き家に宿泊したのだ。
「……覚えとったんやね?」
「そりゃそうさ。あの夜のことは忘れられないよ」
カンナの金髪碧眼に対して、まだ距離を置いていた滝川さんとあかりちゃん。
そのふたりが、カンナに対して心を開いてくれた。
いやふたりだけじゃない、海老原村のひとたちも……。
そんな人たちの心に触れて、カンナはこう言ったのだ。
――あたし、これからも頑張るけん。……人間をもっと信じたいから。
「あのときのカンナの言葉は、俺にだって心に響いたんだ。……だから、あの日から……俺だって、人間を信じたい。人間を信じるために戦い続けてきたつもりだ。人間は信頼に値するのだと思って……」
かつて、熱田の銭巫女が今わの際に叫んだ言葉を思い出す。
――くたばれ、偽善者。
――希望や信念で世の中が変わるもんかい。
――希望も未来も信頼も、愛情も、そんなものはたわ言だ。
あるいはそうかもしれない、と俺の中の弱い部分が叫び出す。
辛く、厳しく、誰からも愛情や評価を受けられなかった前世や、孤独死という結果に終わった叔父の末路を考えれば、世の中というのがいかに酷薄であるか、それは俺だってよく知っている。
だが、それでも。
そうじゃない、そうじゃないはずだ。
そうじゃない世の中を築くことができるはずだ。
そう信じて、俺は銭巫女を倒してからも生き続けてきた。
その理由は、
「カンナと過ごしたあの夜が、俺にとってもきっと特別な夜だったから」
「……弥五郎」
「でも、ごめん」
俺は頭を下げた。
「理由はいろいろあったけど、カンナの気持ちを裏切ってしまったのは事実だ。だから謝る。本当に悪かった」
「…………。……弥五郎」
カンナは、あくまでも淡々と。
落ち着いた声で問うてきた。
「あんたはさ、あたしが何度好きだと言うても、信じてくれんかった。……伊与だって……伊与だって、何年も前にあんたに気持ちを打ち明けとったのに、あんたはずっと答えを出さんかった。それはなんでなん? やっぱり、温泉のときに言うたみたいに、自分に自信が持てんかったから?」
「……それは……。……そういうことになる」
俺は静かに答えた。
「俺は、人間を信じると言いながら、けっきょく一番大事なものを信じられていなかった」
「一番大事なもの?」
「自分を、信じられていなかった」
自分に価値がないと思っているから。
自分を信じることができないから。
だから、伊与とカンナの告白を受け止められなかった。
どれほど愛していると言われても、その気持ちを信じ切ることができなかった。
自分を、根本的に、好きじゃなかったから。
誰も俺のことなど、愛してくれるはずがないと思っていたから。
「そんなわけないって、分かっていたはずなのにな。――カンナみたいな優しい子が、温泉の中で俺に必死の思いで告白してくれたのに、それで愛情を信じられないなんて、本当にどうかしてる。……その結果が今日の体たらくだ。本当に申し訳ない。……ごめんな、カンナ」
「…………」
彼女の碧眼が、大きく潤んでいた。
そんな彼女の瞳が、俺の顔を一直線に見据えてくる。
「……弥五郎」
「……うん?」
「いまでも、自分のこと、好かんち思うとる?」
「…………」
俺は自分が嫌いだ。
ずっと、そう思っていた。
だけど……
――『俊明』を愛している。
あの夜の伊与のささやきが、頭の中で繰り返された。
愛している。愛される。愛される価値がある。お前は幸せになっていい。幸福を手に入れることができる。そんな、自分を肯定する言葉の数々が心の中に溢れてくる。自分を認めろ。『俊明』を愛していい。――絶望も苦しみも、もはやいらない。自分自身のために、俺はこれからもこの時代で戦い抜いていく。お前はそう決意したはずだろう?
走馬灯のように、これまでの努力が脳裏を次々とよぎっていく。
大樹村への転生。
シガル衆との戦い。
伊与やカンナとの恋。
藤吉郎さんとの誓い。
青山聖之介さんの死。
駿河への旅。
川中島の戦い。
松下嘉兵衛さんとの友情。
銭巫女との決戦。
京や堺の栄え。
田楽狭間での敗北。
いろんなことがあった9年間だった。
辛いことも楽しいこともあった時間。
うまくいったこともあれば、失敗したこともある。
だが俺は、生き残った。
精一杯、自分なりに頑張った。
その結果、支えてくれる仲間がいる。愛してくれる女性がいる。
そんな自分を、俺は――
「好きさ。かけがえのない自分だもんな」
人間をもっと信じたい。
9年前に決めた誓い。
その『人間』という大きなククリの中に、いま、『自分』が入った気がした。
カンナが、わずかに瞳を潤ませていた。
なんの涙なんだろう。よく分からない。だけど俺も、少し眼を滲ませていた。
「カンナ。いまさらだけど」
俺は、改めて告げた。
「俺を好きになってくれて、ありがとう」
「…………」
「俺も、カンナのことが好きだ。これからも一緒にいてくれ。……必ず幸せにする」
次の瞬間。
がばっ――
と。
彼女は突如、俺に抱きついてきて、唇を重ねていた。
思っていたよりも、ずっと熱い感触が、俺の心に伝わってくる。
「…………」
「…………」
「……カン、ナ」
「……えへ」
やがて彼女は、俺から身体をゆっくりと離すと、ゆっくりと微笑んだ。
「やっと、言うてくれた。何年待たされたっちゃろ、あたし」
「ごめん」
「また謝る。好かーん。そげんして何度も謝らんでよ、もう」
カンナは口を尖らせたが、しかしすぐに笑顔になった。
「威勢のよかこと言いよったね。必ず幸せにする、やち。ようそげんこと言える。ちょっと前に伊与にも似たようなことば言うたっちゃろ?」
「え? あ、いや……」
俺は、思わずしどろもどろになる。
するとカンナは、ますます笑って、かと思うと今度は真面目な顔になり、
「ね、弥五郎。ひとつだけ聞きたいんやけど」
「う、うん」
「寝たのは伊与が最初かもしれんけど。……口吸いは……どっちが先?」
なんて質問だ。
どっちが先って。
それは……そんなのは……
「カンナが……先だよ。堺の町で、しただろ。……こっそりと」
「ほんと!? 弥五郎が初めて唇を重ねたのは、あたしが最初ってことでよかとよね? 伊与やないよね!?」
「あ、ああ。……本当だ」
「八幡大菩薩に誓える!?」
「八百万の神々に誓えるよ。……俺の口吸いは、カンナが初めてだ」
とにかくこっぱずかしいが……はっきりと答えた。
するとカンナは、両頬をピンク色に染めながら「えへへ、えへへ」と上機嫌になり、
「許しちゃあたい。なんもかも」
明るい声で、そう言った。
「なんもかもって……全部をか?」
「ん。……しゃあないね。惚れた弱みやもんね、えへへ」
カンナはとにかくご機嫌だった。
初めて口吸いをした相手ってことが、とにかく大事だったらしい。
ま、まあ、分からんでもないけど……。
「長かったね」
「ああ。何年も待たせてごめん。これから必ず、埋め合わせはするから」
「そうやなくて」
「え」
「弥五郎が、自分を信じてやれるようになるまで、長かったねって。……前世からずっと、自分のことを愛してやれんかったんやろ?」
「カンナ」
俺が話した、未来からの転生の話。
信じて、くれたのか……。
「まだ、よう分からんところもあるけど。やけどあたし、弥五郎が言うことやもん。信じるよ。あんたが、遠い未来の世界からこの時代にやってきたこと」
「……ありがとう」
俺はゆっくりと告げ、そしてそのまま、
「きゃっ」
カンナを抱きしめると、今度は俺のほうから、そっと唇を重ねた。
我ながら、なんというかぎこちない口吸い《キス》だったし、なんていうか勇気が必要だったけど。
「……えへ」
でも、気持ちは伝わったと思う。
カンナは身体を離したあと、にこにこと笑ってくれた。
……そして。
「――やけどこれからが大変やね。上総介さまって、本当は今川治部を相手に勝つはずやったんやろ?」
「そうなんだ。上総介さまの戦いはこれからも繰り返されるけど、桶狭間の戦いだけは特に大事だ。ここで負けたらすべてが終わる。今後の歴史のなにもかもが狂っていく」
信長がここで今川義元に負ける。
そんな状況だけは、避けなければならない。
「これからの日本のためにも、俺たち自身のためにも、織田家は今川家に勝たないといけない」
「勝つばい。きっと」
カンナは、断ずる口調で言った。
「まだいくさは終わっとらん。もう一度戦って、勝てばいいだけやん。上総介さまも藤吉郎さんも、織田家のみんなも生きとる。それになによりも」
彼女は、俺の顔を覗き込みつつ、告げた。
「あんたがおる」
「……そうだな」
俺は大きくうなずいた。
「俺がいる。山田弥五郎俊明が希望を持って生きている限り、織田家の命運は終わらせない」
「その意気ばい。勝とう、弥五郎。……人間を信じるために」
雨音が、聞こえにくくなっている。
いつの間にか、外は小雨になっていた。
夜明けには、太陽が見えるに違いない。
翌朝――
俺は伊与とカンナ、そしてあかりちゃんを伴い、津島へと向かった。
あかりちゃんは海老原村に残るべきだと俺も八兵衛翁も主張したのだが、
「にぎりめしを作るだけでもいいんです。わたしも、いくさに参加させてください」
彼女は、そう主張して譲らなかった。
「わたしだって、神砲衆のひとりでしょう? ……山田さま」
あかりちゃんは、俺のことを『お兄さん』とはもう呼ばなかった。
その意味が、俺にはなんとなく分かった。だからこそ、俺はついには折れ、津島までは彼女に同行してもらうことにした。
そして津島の町に戻ると、町人たちはざわついていた。
なにがあったのか、通行人に尋ねると、
「今川の殿様が、いよいよ動き出したそうですぜ。田楽狭間からゆっくりと北に陣を進めているとか」
――来たか。
手傷を負って、しばらく動きを止めていた今川軍が動き出したのだ。
それは決戦を意味していた。俺は振り返り、伊与たちとうなずき合った。
戦いが始まる。
絶対に負けられない、二度目の桶狭間の戦いが――




