第570話「温泉宿」
ミラルダの町は、王都から北上した位置にある温泉と漁業の町だ。
「町中、真っ白で何も見えないわね」
「前回よりも酷いな。はぐれないように気を付けよう」
町の西側に連なる山脈にはいくつもの間欠泉があるらしく、有り余る温水が町全体に行き渡っている。
ミラルダの町は北の最果てに位置しているから、その寒さたるや王都の比ではない。
町を凍り付かせないために整備された用水路に流れる温水の湯気が、視界を遮る主な原因だ。
「魔法か何かで消し飛ばせばよかろう」
「レレの魔剣で白いモヤモヤを吹き飛ばせないか?」
「やってみたい気もするけど、危ないからね」
俺たちは今、前回ミラルダの町に来た時と同じ場所にテレポートしている。
町と海を一望できる、小高い丘の上だ……が、今は何も見えない。
「前回泊まった宿は、どこだったかな?」
「完全に平地までは下りなかったわね」
ミラルダの町にある温泉宿は、基本的には町の西側に集中している。
そして、町全体よりも少し高い位置にある。
山から流れてくる温泉を薄めずに使おうとすれば、自然とそうなるのだろう。
「足元の雪は殆ど無いな」
除雪をした形跡も見られないから、この地方はこういうものかもしれない。
早速坂を下って行くと、本格的に視界が白一色に染まり始めた。
「魔法の明かりを強くするわね」
「足元と左側面を照らしてくれ」
前回来たときはレスターの後を何も考えずに歩いていただけなので、前回と同じ温泉宿に辿り着く自信はあまりない。
確か坂を下る途中で左の道に逸れてから、少し坂を上ったような記憶がある。
──いや、あまりいい加減な記憶に頼るのは良くないな。
「ここね」
「ここだの」
ティナとサキさんは自信ありげに道を曲がると、少しだけ坂を下ってから歩を止めた。
建物の外壁に張られた化粧板のような素材が劣化して、随分とくたびれた見た目の宿。
確かに見覚えのある外観だ。
宿の扉は閉め切られているが、そろそろ朝食の時間なので不自然ではないだろう。
「今回も二部屋取ろう」
「うむ」
頷くと、サキさんは躊躇いもなく宿の扉を開ける。
「早く中に入るぞ。冷たい空気が吹き込んだら顰蹙ものだ」
俺たちはさっと宿になだれ込んで、素早く扉を閉めた。
サキさんが宿の部屋を手配しているうちに、まずは食事だと言うことで、俺はティナとレレを連れて酒場の方へ向かう。
ちなみに今は冒険者ロロの偽名を使うまでもないので、普通にレレと呼んでいる。
ややこしいが仕方がない。
マシン村に戻ったときにボロを出さないように気を付けよう。
「共有スペースでも覗いてみるか……」
まだレスターがいるかもしれないと思ったが、すでに朝食を済ませたらしい客が数人いるだけで、レスターの姿は無かった。
流石に何カ月も一つ所に留まるような奴ではないか……。
「ここの酒場は海産物を出さないのかい?」
酒場の席に座るなり、メニューを見ていたレレがおかしな事を言う。
「そんな事はないはずだが……」
レレからメニューの紙切れを受け取ると、確かに肉料理しかない。
いわゆる干物のような加工品の海産物はあるが、そういうのは酒のつまみだ。
「海の方は怪物が出て大変らしいわい」
宿の部屋を取ってから、遅れてやってきたサキさんが教えてくれる。
他所の海域から流れてきた海の怪物が、漁に出た漁船を襲っているらしい。
このような怪物が流れ着く周期は特に決まっていないようだが、ごく稀に現れる空の怪鳥と共に恐れられる存在のようだ。。
一見穏やかなミラルダの町にも、それなりの脅威があるらしい。
「前回、港の方に現れた怪鳥は、意外とあっさり落とされていたよな」
「海の中に潜る怪物は、そう簡単には行かんのだろうの」
怪物騒動が収まるまでは、ミラルダに来ても新鮮な海産物は手に入りそうにないな。
今回は肉料理で我慢しよう。