第412話「鹿は暗闇と共に消える」
半透明の鹿には、骨や内臓といった「中身」が見当たらない。
例えるなら鹿の形に固めたゼラチンが、ぎこちなく動いているように見える。
ただ一つ、固い部分があるといえば、頭から生えた白い角だが……。
「………………」
半透明の鹿は、ゆらゆらと不安定な足取りで、まっすぐ俺の方に向かってくる。
いやいや、こいつは元々、サキさんにちょっかいを出して斬られた魔物じゃないか。
あの時の報復なら、サキさんの方に行けよ!
「ひっ……!」
声は出せないけど、喉の奥から漏れる情けない音が響く。
半透明の鹿は俺の目の前で立ち止まり、俺の指を踏んだり噛んだりし始めた。
噛むと言ってもゼラチンのような体なので、別に痛くはないのだが……。
「!!」
すると突然、黒板を引っ掻くような金切り声が聞こえるようになった。
これも鹿の攻撃か!?
そういえばサキさんも、先日この金切り声を聞かされていたらしいな。
あの時はサキさんだけが聞こえていたようだけど、実際に聞こえるとかなりキツイ。
「…………」
相変わらず体は動かないし、声すらも出せない。
半透明の鹿は金切り声を出しながら、その白い角で俺の体を刺している。
ただ角を当てているだけなのか、全く痛みは感じない。
しかし、こいつの目的がわからないだけに、行動そのものが不気味だ。
次第に俺の心は、得体のしれない恐怖から、苛立ちの感情に変わりつつある……。
それと同時に、この金切り声も一種の言語だと理解し始めていた。
だが明らかに人声の音域からは外れているため、その内容を読み解くことはできない。
もしも手元にヨシアキのスマホがあれば、後で録音した声を調べられるのだが──。
散々角で俺の体を突いてくれた後は、同じようにユナの体も突き始めた。
角で突かれても痛みはないし、この通り生きているんだが、随分長い間角で突かれ続けているユナはかわいそうだ。
ユナのことだから、冷静に逆襲の機会を窺っているのかも知れないが……。
ユナが終わると次はサキさん……とはならなかった。
まさか全員を突いて回るのかと思っていたが、角で突くのはそこで終わり。
ティナとサキさんとグレンには手を出さないようだ……。
半透明の鹿、とにかく何がしたいのか全く意味不明だが、散々俺とユナを角で突いて満足したのか、心なしか金切り声も穏やかになりつつ、暗闇の奥へと消えていった。
俺たちが体の自由を取り戻したのは、半透明の鹿が立ち去って暫く経ってからだ。
「何度も角で刺されたと思うが……うわぁ……」
俺は自分の服に空いた穴を見て、自分の目を疑った。
が、穴だらけなのは服だけで、これといった外傷はない……。
ユナも同じく。
インナーを捲って確認するも、あざの一つも見当たらなかった。
「でも確実に刺さっていたわよ。もう駄目かと思った……」
ティナは目に涙を浮かべて、俺とユナを抱擁する。
それから俺たちは焚き火を背に警戒態勢を敷き、落ち着きを取り戻したのは、空が明るくなり始めた頃だった。
「サキさんが言ってた金切り声、初めて聞いたけど凄かったな」
「うむ。あの声は忘れられぬ。彼奴が現われたのは、寝床を出る前からわかっておったわい」
それでサキさんは、一人で片付けると言ったのか。
まあ、俺が聞こえるようになったのは、鹿が目の前まで迫って来てからだけど。
「金切り声なんてしましたっけ?」
「シテナイゾ」
ユナとグレンには、最後まで聞こえなかったようだ。
「聞こえなかったわね。物凄い精霊力は感じたけど……」
ティナも聞こえなかったのか……。
半透明の鹿の声が聞こえたのは、俺とサキさんの二人だけ。
もっとも、俺が聞こえたのは途中からだけど……。
角で体を突かれまくったのは、俺とユナの二人で、最初から鹿の声が聞こえていたのはサキさん一人。
ティナとグレンの二人だけは、声も聞こえないし、角で突かれてもいない。
何かの法則があるんだろうか?
それ以外で奴がした事と言えば、俺の指を踏んだり噛んだりしていたことか……。
俺は自分の指が、どうにかなっていないかも確認した。
「あれ? ない……。あれ?」
俺は反対側の指も確認するが、ない。
すでに体の一部と言っても過言ではない、「偽りの指輪」が消えていた。