第208話「醤油爆弾」
爆発音とともに激しく砕けた壺は、異変に気付いて覆いかぶさったサキさんの胴体を直撃して、覆えていなかった隙間からは、勢いよく壺の中身が噴き出した。
『…………』
本当に一瞬の出来事だったので、醤油の壺が爆発したという現実を受け入れるまでには多少の時間を要した。
ナカミチはその場から動けず仕舞い、俺の目の前の空間は、飛び散った壺の中身で汚れている。ティナは魔法の杖を俺に向けたまま固まっているが、服の半分はエプロンごと茶色に染まっていた。
サキさんはタライの湯の中に半分浸かっている状態で、お湯の色は真っ茶色だ……。
「……ティナ、まずはサキさんをタライから出してくれ」
「ええ……」
ティナが浮遊の魔法でサキさんをタライから引き揚げて横に寝かせると、サキさんは小さな呻き声を上げた。
どうやら死んではなさそうだ。幸い冬服として買った革のジャケットを着ていたおかげで、爆発した壺の破片が体に刺さったりはしなかったみたいだ。
「おい、サキさん、大丈夫か?」
「うむ……意識が飛んでおったが、大丈夫だわい。骨も折れて無さそうだの」
サキさんは調理場の床に寝転んだまま、自分の胸の辺りをトントン叩きながらダメージの確認をしている。
「ナカミチは大丈夫だった?」
「あ、ああ……まさか爆発するとは思わんかったから、抜けてる腰がさらに抜けたわ」
サキさんの真ん前にいたナカミチは、サキさんが両腕でしっかりと壺を抱え込んでいたおかげで、醤油の洗礼を免れたようだ。
ティナは足とスカートの半分が、茶色い水でびしょびしょに濡れている。爆発の衝撃でタライに張ってあったお湯も一緒に飛び散ったから、被害が拡大したんだろう。
対して俺の方は、ティナが張った障壁の魔法で守られていたので何ともない。
足元の床を見ると、壺の内容物が透明なバリケードで遮られたような汚れ方をしている。
ティナはあの一瞬の間に障壁の魔法を使って、俺を最優先で守ってくれたのだろう……。
きっと一瞬でも迷いがあったら間に合わなかったと思う。改めて俺はティナに守ってもらっているのだなと痛感してしまった。
とりあえず醤油作りは大失敗に終わった。途中までは上手くできていたようだが、再チャレンジするにしても、まずはこの状況を何とかしないといけない。
毎度の如く、一番酷い目にあっているのはサキさんだ。背中以外は全部、タライのお湯で薄まった醤油まみれ。
しかも一瞬気を失ったときに、頭からタライに沈んでしまったので堪らない。
「サキさんは風呂に直行かなあ……」
「服は全部、ここで脱いで。水で軽く流してから入ってちょうだい」
「うむ……」
サキさんが服を脱いでいる間に、ティナの浮遊魔法で椅子ごと浮かせたナカミチを、俺は広間まで引っ張って移動させた。
「発酵の力はこえーな。最後の湯煎が良くなかった……」
「次の実験は外でやるべきだな。途中まで上手く行ってたんなら、何度か試してるうちに成功するだろう」
以前魚の燻製を作ったときみたいに、河原に即席の小屋を作って実験するのがいいだろうな。
これから調理場を掃除することを考えると、気が滅入る思いだ。
「言いそびれていたけど、仕事の引継ぎをしてくれる職人は確保してきたから。たぶん間に合わせてくれると思うわ」
「おっ、それは有りがてーな。ずっと気になってたから、ようやく気分が落ち着いたわ。ありがとうな」
俺がウォンさんの事を報告すると、ナカミチの顔からようやく険しさが消えたように見えた。
これであとのことは気にせずに、ゆっくり休んで貰いたいものだ。
それから俺は、部屋に戻ってティナのタイツとスカートを取り出して、調理場に戻った。
サキさんはそのまま風呂に入っているが、ティナの方は足だけなので、魔法で少しだけ浮いてもらってから、水で汚れを流した。
「サキさんが押さえ込んでいたのに、それでも結構派手に飛び散ったなあ」
「そうね……」
ティナは自分の魔法で空中に浮いたまま、体を丸めてタイツを穿き直しているのだが、その姿が宇宙飛行士の空中遊泳のように見えて少しおかしい。
「じゃあ悪いけど、床の方はミナトが水で流してちょうだい。私は壁の方に飛び散った汚れを何とかするわ」
「わかった」
俺は水の精霊石を取り出して、床石に高圧の水を当てた。いわゆる高圧洗浄機と同じものだが、魔法で高圧にしているので、威力や水量の調整は思いのままだ。
ティナの方は、飛び散った汚れを魔法の杖で軽くなぞると、その部分の汚れだけがどこかへ消えている。
「それ凄いな。どういう理屈なんだ?」
「飛び散った汚れだけを、そこにあるゴミ箱の中にテレポートさせてるのよ。染み込んだ水や水滴は難しいけど、固形物なら何とかなるわ」
実際の飛び散り具合はかなりの大惨事だったが、今まで散々家事や日常で魔法を使ってきたせいか、そこまでの苦労もなく調理場の後始末を終えることができた。
「この汚れた服はもうダメかな?」
「醤油が跳ねたくらいなら洗えるけど、色染めしたレベルだと手に負えないわね」
「だよなあ」
サキさんの革のジャケットは結構いい品だったのだが、醤油に漬け込まれたような状態では、さすがにもう着れないか……。
革自体はよくても、裏地がもう完全にアウトだからな。
後日焼却処分だな。醤油特有の臭いもあるので、これでは雑巾にすることもできない。
調理場を元通りにして、他にどこか飛び散っている部分が無いかを二人で確認していると、全裸のサキさんが風呂から上がってきた。
そういえば、着替えを用意せずに風呂に入ったから、全裸やむなしだったな。
俺もティナも、前すら隠さないサキさんの傍若無人ぶりは気にせずにおいたが、全裸のサキさんが広間の方へ消えた途端、エミリアの悲鳴が聞こえた。
エミリアがサキさんの裸を見るのはこれで何度目だろうな?
俺とティナは特に気にもせず、マイペースに汚れの確認をしてから、ようやく広間の方へ戻ることができた。
広間には、服を着たサキさんと、ソファーに座り直したナカミチと、いつもの椅子に座って、下を向いたまま顔を赤らめているエミリアがいた。
「エミリア、今日は早いな。サキさんの裸を見に来たのか?」
「違いますー!! 薬を持って来たんですー!!」
エミリアは声を張り上げて否定した。こんなにムキになって否定するとは怪しいやつめ。
「……前回の反省点を生かして、導師モーリンがカルモア熱に効くかもしれない、新たな薬を調合したんです」
そう言いつつ、エミリアはテーブルの上に小さな茶入れのような小壺を置いた。
小壺の中には薬の粉が入っていて、耳かきのような小さなスプーンを使って飲むらしい。
「こんな世界にも薬があるとはね。病気になったらどうすんのかと心配はしていたが……」
「ナカミチ飲むのか? チャレンジャーだな」
原因そのものがわかっていないカルモア熱に、薬もへったくれもないことは、以前サキさんが倒れた時に思い知っているのだが、薬の存在はナカミチを勇気付けたようだ。
ならば黙っておこうか。病は気からの言葉が示すように、気休めでも信じる心があれば、気分的には楽になるだろう。
前回もそうだが、体よく薬の実験台にされているような気がしないでもないのは、俺の気のせいだろうか……。
ティナとサキさんとナカミチが、次の醤油作りのプランを練り終わって、ティナは調理場に、サキさんはミシンの続きを始めた頃、ユナとサーラが街から帰ってきた。
「やぁ……色々回っていたら、遅くなってしまいました」
「いいのはあった?」
「はい!」
俺の質問に応えるように、サーラは街で買ってきた服を広げて、俺たちに見せてくれた。
それは厚手の生地で作られた、大人しめで質のいいアンサンブルのドレスだった。
サーラが自分で選んだのかな? 落ち着いたデザインで、センスもいい。
「これは余所行きですね。普段着も別にありますよ」
「だよな。こんな上等な服でナカミチの手伝いなんかさせられたら、堪ったもんじゃないわ」
「待て待て。俺はサーラに汚れ仕事の手伝いはさせてねーぞ」
さっきまでポカーンとした顔で、サーラに見とれていたロリコンおやじが反論した。
ナカミチ的には少女趣味全開の服よりも、少し大人びた感じの服が好みのようだ。
サーラの服を買うついでに、ユナはナカミチの服も買ってきていた。
聞けば普段着は一着しか持っていないという。
けどまあ俺も、元の世界では毎日同じ服を着たままだったので、人の事は言えないのだが……。
「買ってきた掛布団はどうしましょうか?」
「今から干してもしょうがないから、荷車に載せたままでいいと思う。明日の朝に干そう」
それからユナとサーラは調理場に消えて、サキさんはナカミチと将棋を始めてしまった。
夕食が出てくるまで居座るのかと思っていたエミリアは、一度学院に戻ってしまったので、俺は誰かが取り込んでいた洗濯物を二階の部屋まで持っていき、それを畳みながら時間を潰した。
俺が洗濯物を畳み終わった頃、再びエミリアが広間に現れているのが見えた。
二階廊下の手摺りから見下ろしていると、自然に人が集まる家というのも悪くないなと思えてくる。
調理場から夕食を持ってくるユナの姿が見えたので、俺は一階の広間に下りた。
「……あ、ウォンさんにも食事を届けないといかん。酒も一緒に欲しいとか言ってたな」
「ミナトよ、そういうことは早く言うが良い」
「ティナが夕食を作る時に言おうと思ってたんだよ。でもエミリアがサキさんの裸を見て転げまわった事件のせいで、何もかもが吹き飛んでいた。だからエミリアのせいだ」
「それはすみませんでした。でも喜んだりはしていませんよ!」
「またですか……ティナさんには私が報告してきますから、サキさんはお酒を出しておいてください」
「うむ」
こんなやり取りをしていたので、今日の夕食は少し遅れて取ることになった。