第178話「大渓谷」
霧雨の中、岩山の頂きも微かに青みを帯びてきた。カルカスとエミリアが乗る屋根付きの馬車を先頭にして、二台の荷馬車が続いている。
俺たちが乗っている空の荷馬車は、屋根付き馬車のすぐ後ろ、隊列の真ん中だ。
ここは王都の平野よりも標高が高いのだろう。カルカスの屋敷から出発してすぐに霧雨は止んだが、代わりに濃い霧が辺りを覆い始めた。
「凄い霧だな。ランタンの明かりじゃ手元すら霞んでしまう」
「この辺りは岩山に囲まれた地形ですから、雨が降るとこうなんですよ。お屋敷の方もこうなりますよ」
御者席に座っている兵士の一人が答えた。外套を被っているとはいえ、正面から霧雨を浴びていたせいで、顔が水浸しだ。
俺たち四人は幌付きの荷台にいるので湿っぽいだけで済んでいるが、御者席は最悪だな。
「ぜんたーい、とまーーれー! とまーーれー!!」
濃霧に紛れて姿もおぼろげだが、近くにいるらしい騎馬兵が声を上げる。
俺たちが乗っている荷馬車もそれに合わせて速度を落とし──屋根付き馬車のすぐ後ろで停車した。
各荷馬車から兵士が一名ずつ、カルカスの屋根付き馬車の方へ走って行き、何かの相談をしている様子だった。
そうこうしているうちに、俺たちの荷馬車にはエミリアが潜り込んでくる。
「どうした? 行儀が悪くて屋根付き馬車を追い出されたのか?」
「違います! 霧が濃くて危険なので、各馬車に一名ずつ魔術師を乗せて魔法の明かりを使うことにしました。私は最後尾の荷馬車を担当しますので、この荷馬車の明かりはティナさんが担当してください」
「それはいいけど、先頭の馬車は誰が明かりを灯すの?」
「先頭にはペペルモンド卿がいます」
「あのおっさんも魔法が使えるのか……」
かくして、先頭の屋根付き馬車はカルカスのおっさん、真ん中の荷馬車はティナ、最後尾の荷馬車をエミリアが担当して、それぞれ魔法の明かりを使うことにした。
「車のヘッドライトみたいなイメージでいいのか? エミリアは荷馬車の前方に大きな光の球体を出しているみたいだが……」
「なるべく地面の近くを照らさないと、光が霧に反射して先が見えないわよ」
「面倒だの。いっその事、地面を光らせてはどうかの?」
「それもそうね」
ティナは荷馬車の前後20メートルほどの地面をすべて光らせた。正確には光の絨毯を敷いたと言った方が近いかも。随分力任せな魔法だと思ったが、ティナによると後ろでエミリアが出している大きな光の玉より省エネらしい。
展開の仕方によっても随分と魔力の消費に違いが出るものだな。
「あ、エミリアさんの方、明かり消しましたよ」
「ティナの魔法が思ったより明るくて、自分の方は消しやがったな」
地面が直接明るいと、濃霧でも進むべき道がよく分かる。これは御者席の兵士たちにも好評で、気付くと先頭馬車のカルカスも似たような魔法に切り替えていた。
どれくらい進んだのか、辺りは真っ白で何も見えずにいたのだが、徐々に日が昇ってくるに従って、霧と闇に隠されていた風景がゆっくりと浮かび上がってくる。
──ようやく魔法の明かりが無くても進めるようになってきたな。
「これはどの辺りかな?」
「自分たちも初めて来た場所なので正確な位置は……出発前の話しでは、そろそろ最初の休憩地点に到着する頃合いですが」
俺が御者席の後ろに立って辺りを見渡すと、そこは左右にそびえる岩山に挟まれた渓谷のような土地が広がっていた。
「すごい景色ですね。前も後ろもずっとこんな感じですよ」
ユナも感心したように辺りを見渡す。左右の岩山は断崖絶壁という程ではないが、山越えをするにはそれ相応の覚悟が必要になるだろう。
少なくとも荷馬車が越えられるような地形ではない。
「畑のような跡が見えるの」
サキさんが指差した方を見ても、俺にはさっぱりわからない。サキさんが言うには、そこらじゅうに人の手の入った形跡があるという。
俺たちが半ば観光気分で外の風景を眺めていると、やがて最初の休憩地点に到着した。
休憩地点では馬車に車止めを噛ませるなり、兵士たちは最後尾の荷台から何かを降ろして作業を始めている。
「エミリア、あれは何をやっているんだ?」
「まだ使える古井戸があるので、新しい滑車とバケツを設置するんだそうです」
「へえ……」
事前に採石場の場所を確認しに行った兵士が見つけたんだろう。
古井戸の朽ちた木材を素早く撤去すると、地面に杭を打ち込んでから手際よく棒を渡してそれを固定している。
古井戸の真上に鉄棒を設置して、その鉄棒に滑車を吊るし、ロープとバケツを取り付けて完成のようだ。慣れているのか随分と手際がいいな。
もしも近い将来、採石場が再稼働するようなことがあれば、道中の休憩所として機能してくれるのだろう。
この場所は渓谷だが、谷底の幅が広すぎるせいか、残念ながら川は流れていない。
しかしここは……改めて地形を観察すると、岩山の麓には木が生い茂っているのに対して、谷の中心に向かうほど緑が薄くなっていく。
俺たちが通って来た道は谷のほぼ中央にあるが、刈り込んだ芝生のように短い草が所々に生えているだけ。言わば自然にできた道なのだろう。
井戸があることからもわかるように、昔はこの辺りにも人の手が入っていたらしい。
緑に覆われているので気付かなかったが、倒壊した小屋の屋根らしい部分をいくつか確認することもできた。
一通り辺りを見て満足した俺が荷馬車に戻ると、荷馬車にはユナが一人でテレポーターの子機を見張っている。
「みんな家に戻ったのか?」
「はい。サキさんとエミリアさんが何か食べたいと言うので、一度家に戻っています」
今日は朝が早くて量も少なかったから仕方ないか。俺の方はそこまで腹が減った感じでもないので、ここでユナと一緒に待つことにした。
やがて休憩も終わり、再び荷馬車が動き始めて暫く経った頃、サキさんとエミリアがテレポーターから姿を現す。
「腹は膨れたか?」
「もう食べられません……」
「満タンになるまで食わんでもいいだろうに」
「思ったより量が多かったわい」
「……私たちのは残ってなさそうですね」
サキさんとエミリアは、この短時間の間に二人で五人前を平らげてきたのか……。
そしてティナは一人家に残って二人の後片付けをしているのだろう。呆れるを通り越して素直に凄いと思ってしまった。
「今気付いたんですけど、テレポーター自体が移動している状態でも使えるんですね」
ユナがそんな事を言い始めた。言われるまで気にならなかったが、テレポーターはその場に固定されてなくても機能するんだな。
「む? では船の上でも使えると言うことかの?」
「横に移動していても使えるんですから、縦揺れが加わっても大丈夫でしょうね」
船上でも使えるなら、俺たちはこの世界のどこへ行っても遭難する可能性が限りなくゼロに近いということになる。
家に帰ったら水中でもテレポートできるのか実験してみよう……。
後片付けを終えたティナも荷馬車に戻ってきて、結局、荷馬車の中はいつもの五人組が揃っている状態だ。
エミリアは先頭の屋根付き馬車に戻れば快適だろうに、よほど将棋が気に入ったのか今もサキさんと対戦をしている。
荷馬車の床に置くと振動で駒が弾け飛ぶので、わざわざティナの魔法で将棋盤を空中に浮かせている状態だ。
あれ? 荷馬車は動いているわけだから、空間に固定したら将棋盤が後ろに移動していくと思うのだが……。
「電車の中でジャンプしても着地点が変わらないのと同じ理論かもしれないわね」
「物理学はよくわからんがイメージは掴める」
「今までだってしてたわよ。荷馬車の中で明かりを点けたり、御者席の前に雨よけの障壁を張ったり……」
「それもそうか。物理法則を捻じ曲げるのが魔法なのに、おかしなものだなあ」
サキさんとエミリアは将棋で遊んでいる。荷馬車は御者席の兵士二人が交代で操っているので、正直何もすることがない。
もう家に戻っておいて、何かあったら呼びに来てと言いたいところだが、それではあまりにも不誠実なのでこうして荷台に揺られている感じだ。
仕方ないので、俺とティナとユナは三人で外の景色を楽しむことにした。
「野生動物の数が増えてきましたね」
「名前は知らんけどな。一番大きいのは、あそこにいる鹿みたいなやつか?」
「逃げる気もなさそうね。遠巻きにこっちを見てるわ」
もう随分奥の方へ来たと思う。渓谷は緩やかなカーブを描いていることもあり、今では四方を岩山に囲まれているような錯覚に襲われる。
サキさんとエミリアが三度目の対戦を終えた頃、急に先頭馬車の速度が落ちた。
なにかのアクシデントかと思って御者席の上から辺りを伺うと、俺たちは廃村の入り口付近に差し掛かっていた。
──廃村だ。道の左右に別れて建物が並んでいたのだと思うが、殆どの建物は倒壊して、屋根の部分すら瓦礫のように崩れている。
石やレンガはまだ辛うじて原型を留めているが、まるで怪獣が暴れた跡のような雰囲気だ。嫌な予感がする。こんな場所までトロールが移動してきたのか?
「こんな場所にトロールが出没するとは思えませんけど……」
「そうか。それにしても酷い荒れようだな」
『うおおぉーーぅ……』
突然外の兵士たちが低い唸り声を上げたので、俺も兵士の一人が指を差す方向を見た。