第176話「冒険の準備」
「降って来ましたねー」
二階の部屋でハーブの調合をしていたユナが、一階の広間に下りてきた……と思ったら、そのまま素通りして調理場の方へ行ってしまった。
ハーブの匂いがどうとか言っていたから、先に手を洗いに行ったのかな?
少しして調理場から戻ってきたユナは、俺に両手を差し出してきた。
「ティナさんに言われて使ってみたんですけど、手を洗うのは浄水の壺が便利ですよ」
「お?」
これは手の匂いを嗅げということか? 俺はユナの手を取って嗅いでみたが、何というか、特に何の匂いもしないが敢えて言うならユナの匂いがした。
いや、ユナの匂いって何だ? 俺はユナの体を抱き寄せて匂いを嗅いでみたが、やっぱりユナの匂いとしか言いようがない。
まあ、薬物を浄化できるくらいだから、手に付いたハーブの匂いなんて簡単に消えるんだろう。俺も手を洗うときは浄水の壺を使おうかな。
ユナとサキさんがゲームを始めて暫く経った頃、ここでようやくエミリアが戻ってきた。
「どうだった?」
「はい、大体の話しは通しておきました。細かい説明はペペルモンド卿が直接するみたいなので、これから皆さんで来て頂けますか?」
「このままの格好でいいかな?」
「大丈夫ですよ。テレポーターの子機は向こうの屋敷に設置してありますから、このまま向かいましょう」
俺とエミリアの話を横で聞いていたユナとサキさんが立ち上がったので、俺は調理場のティナを呼びに行った。
「ティナ、今からおっさんの屋敷に行くけど大丈夫?」
「今から? 大丈夫よ」
ティナは何かを煮込んでいたようだが、かまどの火を魔法で消すと、鍋に蓋をしてからエプロンを外した。
魔法での消火は単純に空気を遮断しているだけだが、これが一番確実だ。熱が冷めるまで効果を持続させる必要があるので、魔術師のティナとエミリアしか使えない方法だが。
俺たちはそれぞれ自分の靴を持って、ガレージに移動してから靴を履いた。
「じゃあエミリアから行ってくれ」
「わかりました」
エミリアは自前の魔法でテレポートした。
「俺たちは順番にテレポーターに乗って行くぞ」
何度かテストはしてきたが、テレポーターの実践はこれが初めてだ。大丈夫だと思うが何かあっては困るので、とりあえずリーダーである俺が先頭に立つ。
テレポーターの親機に乗った途端、瞬きをするように景色が一変する。どうやら俺は会議室のような部屋に移動したようだ。
……悠長に観察している場合じゃなかったな。早くテレポーターの子機から退かないと後ろがつっかえてしまう。
俺がテレポーターの子機から離れると、続いてサキさんが現れた。そのあとにはユナとティナが続いて現れる。
「待ちわびたぞニートの冒険者たちよ。まさかエミリア嬢の友人とは思わなんだが。まあ適当に腰掛けて貰いたい」
久しぶりに見たカルカスは、コイス村で見たような派手な服は着ておらず、今は白っぽい長袖のシャツにステテコのようなズボンをはいて、地味な色のガウンを羽織っている。
見た目は自分の屋敷で完全に気が緩んだおっさんそのものだ。
元がデブでチビでハゲなのも手伝って、贔屓目に見ても領主には見えない。
「お久しぶりです。あれからコイス村は平和になりましたか?」
「うんむ。貴公らのお陰ですっかり平和になっておる。村人一同歓迎すると言っておったから、機会があれば立ち寄ってみて欲しい」
ろくでもない生贄の習慣も無くなって、ようやく普通の村に戻ったというわけだな。
前回は洗濯したいだの、風呂に入りたいだのと言って、まるでトンボ返りのように王都へ戻ったから、またゆっくり見学に行きたいところではある。
挨拶を済ませた俺たちは、カルカスに言われるがまま大きなテーブルの席に着く。
ここは会議室のような部屋だと思っていたが、どうやらこの屋敷の食堂みたいだ。テーブルの上にはグラスや水差し、銀のトレイには色とりどりの果物が積まれている。
「領民が持ってきてくれた物じゃ。好きに食うて良い」
とは言え、皮を剥くナイフもなければゴミ箱もない。ちょっと食べてみたい果物はいくつかあるが、手がベトベトになっても拭くものすら無いし遠慮しておこう。
……と思ったら、エミリアは遠慮なんかせずに好き放題に食い散らかしていた。こういうところで育ちが出るのは恥かしいと思った。
「早速で悪いが説明に入らせて頂く」
カルカスが頬杖を解いて姿勢を正したので、俺たちは全員カルカスに注目する。
「初めはある集落の老人から聞いた昔話しだったのだが、改めて調べてみるとコイス村の南東に位置する岩山の向こうには、良質な石材の採れる採石場があったらしいのだ」
俺は時折り相槌を打ちながら話しの先を促す。
「なにせ産物の少ない土地じゃ。私が任されている間に少しでも開拓を進めたいのでな」
「いいですか?」
「うんむ」
「話の流れから、採石場に住み着いたトロールの討伐だと思うんですけど、トロールの確認はしてあるんですか?」
「私は見ておらぬのだが、採石場の場所と道順の確認を騎兵に行わせたところ、そのような報告があったのでな。兵から聞いた特徴からトロールであると判断した次第じゃ」
なるほど、下手に手を出して怪我人が出なかったのは幸いだ。コイス村では散々な目にあったみたいだから、今回は慎重になったのだろうな。
「トロールほどのモンスターになると、訓練の浅い兵では太刀打ちできん。今回は初めから冒険者の力を借りたいと考えて、実績のある貴公らを指名したのだ」
地図を広げて説明された採石場の場所は、カルカスの説明通りコイス村のちょうど南東に位置していた。
そういえば王都からコイス村へ向かう道中は、岩山を削り取って作ったような山の街道を進んでいたと思うが、その岩山を越えた辺りにあるみたいだな。
しかし岩山の中心辺りに位置する採石場への道順は、カルカスの屋敷からぐるりと南東へ迂回するようなルートでなければ辿り着けないらしい。
「今日は直接テレポートしてきたから実感が湧かんけど、こうして地図で見ると位置関係もわかりやすい。ここから採石場までは何時間掛かるんだろう?」
「単騎で走れば二時間だと聞いておる。設営の荷物などを運んで行くなら六時間ほど掛かるのではないかな?」
今から準備して六時間では、採石場に着く頃には夜になってしまうだろうな。
「まさか昨日の今日で来るとは思わなんだから、今すぐに出発というのは難しい。今日のうちに準備を整えて、出発は明日の早朝にしたいと思うのじゃが、どうであろう?」
「そうしてください。俺たちも準備してませんし、明日の朝、改めて伺います」
どのみち今日は依頼の話しをしにきただけだ。明日の約束を交わした俺たちは、カルカスの屋敷に来たときと同じように、テレポーターの子機に乗って家に帰った。
家に帰ってきた俺たちは、さっそく明日の準備に取り掛かっている。
まずは背負い袋とテントだが、これはテレポーターの親機の横に並べておく。今の段階ではキャンプをするかもわからないので、毛布も含めて必要になったら取りに戻ればいい。
「防具はどうするんですか?」
「鎧は着けて行こう。今の時期なら上着の代わりになる」
「今回、シャムシールの出番は無さそうだの」
「そうだな。俺もサーベルはやめて、ハンドアックスを持って行くことにする」
ティナの強化魔法を使えばトロールの岩肌くらい造作もないのだろうが、武器の使用者が自分の意志で魔法の効果を解除できないのはやはり危険すぎる。
ティナかエミリアに強化の魔法を解いて貰わない限り、時間切れになるまで剣を鞘に納めることもできないからな。
それとは逆に、戦闘が長引くと途中で魔法の効果が切れる可能性もある。こういう細かい部分での不便さがあるから、魔法といえども万能ではない。
サキさんは魔槍グレアフォルツのほかに、いつものロングソードとダガーを選んだ。
ユナは道具扱いの小さなダガーとカスタムロングボウの二点、リピーターボウは専用の魔法の矢が間に合わなかったので、今回は持っていかないらしい。
俺も今回はハンドアックスのみを持っていく。ティナの方はいつものレイピアを持っていくみたいだ。
カスタムロングボウはユナの分だけを持っていくが、現地に到着次第、全員分の弓を取りに戻る考えだ。今回はカルカスが用意した荷馬車に乗せていって貰うので、なるべく荷物が嵩張らない方が助かる。
「あら? また雨が強くなったわね」
俺たちが明日の準備をしていると、雨音が一段階大きくなった。勝手口に抜ける引き戸を開けると、雨の強さがよく分かる。
「明日の準備はこのくらいでいいだろう。洗濯物は乾いてない感じだな……」
洗濯物はオーニングテントの下だが、風も冷たいし湿り気を帯びている。俺は一人で物干し竿を担いで、先日二階の廊下に移動させた部屋干し用の物干し台に竿を置いた。
あとはいつもの如く、開放の駒で風を当てておけば、俺たちが寝る前には乾くはずだ。
サキさんが家の風呂に入っている間、今日は珍しく俺が馬の世話をしていたのだが、暫くすると家の方からエミリアの悲鳴が聞こえてきた。
また全裸で風呂から上がったサキさんの裸をエミリアが見たのだろう。あの二人も懲りんな。
馬の世話を終えた俺が広間へ戻ろうとすると、調理場では夕食の支度を手伝っているユナの姿があった。
エミリアが面倒くさい事になっていて、こっちに避難したのかな?
俺が調理場から広間を覗いてみると、バスタオルを腰に巻いただけのサキさんが木窓を背にして涼んでいた。
エミリアは自分の席に座って俯いているが、時折サキさんの裸をチラチラと見ては顔を赤らめて下を向くという、一風変わった一人遊びをしている。
「お前らもう、くっ付いてしまえば?」
「この女とだけは嫌でござる」