プロローグ
心の底から現実世界に絶望した人間のみが異世界に転送されるという、いわくつきの魔法陣が何処からともなくネット上で拡散し、面白がって実行する者たちが増え初めてから暫く経った頃、ぽつりぽつりと失踪者のニュースが目立つようになった。
ガチで異世界に行ったんじゃねえの?
なんて噂されるも、その真相は謎のまま。だが、この日本は下手な内戦よりも年間自殺者の数が多いストレス国家だ。
仮に消えた人間が別の世界に行けたのだとしたら、別の世界でやり直す機会を得たのだとしたら、この世界で意味もなく死んでしまうよりも、よほど有意義ではないだろうか?
「これで、間違ってないよな……」
ペンを持つ手が震えている。別に緊張しているわけじゃない。スマホの液晶画面に映る魔法陣と睨めっこしながら丁寧に描き込んでいたせいで、腕が疲れてしまったのだ。
独り言なんて絶対に言わない俺だが、魔法陣が間違っていない事を確認するために、指さし確認まで行いながらブツブツと声に出していた。
俺の名前は河島疫病神。疫病神と書いてそのまま「やくびょうがみ」と読む。いわゆる「アレ」の中でも特に酷い部類に入るやつだ。
子供の頃からずっとこの名前のせいで虐められて育ったのは言うまでもない。
……現在24歳、今の俺なら面白半分で弄られていた事は十分理解できる。大学に入る頃には名前で弄られても何とか笑って済ませられる程度には成長していた。
そもそも友達が居なかったからな。
大学の四年間をひっそり平和に過ごした俺だが、就職活動になると状況は一変した。
まず、この名前を執拗に責められてからの人格批判までがテンプレ。大学時代に染み付いた笑って済ませる方法は、社会では通用しなかった。
そんなやり取りを何度も繰り返すうちに、すっかり人間不信になってしまった俺は、ここ二年近くを実家の自室で過ごしている。いわゆるニートというやつだ。
改名の方法をネットで調べたこともあったのだが、面倒事が嫌いな父親は知らん顔して無視を決め込み、母親は少しでも自分が気に入らないと泣き叫ぶ性格なので、相談するだけ馬鹿を見てしまった。
とある面接官が言った「そんな名前で生きてきた自分が普通だと思いますか?」という憎たらしい台詞が何度も脳内で再生され、結局この出来事が最後の引き金となり、俺は自分の部屋から出られない引き籠りになってしまったのだ。
カシャッとスマホのスピーカーからシャッター音が鳴る。描き終わった魔法陣と、力強く親指を立てた自分の手が同時に写るようにして、俺は写真を添付している。
──俺、今から異世界に行ってくるんで──
普段は寄り付かない掲示板の類だが、この世界では最後の書き込みになるかも知れないので、俺は魔法陣の画像が貼られていたオカルト掲示板に書き込みをしていた。
数分待ってリロード、もう数分待ってからリロード、ログは流れているのに誰からもレスが付かない。内心ちょっと構って欲しかったのに、華麗にスルーされてしまったので気分が悪くなった。
三十分ほど待って、ようやく付いたレスは「黙って消えろカス」だった。
言われんでも消えてやるよ。こんな世界には一秒たりとも居たくない。もう、何もかもが気に入らない。
目の前のテーブルに置かれた魔法陣にまで恨めしいと感じながら、こんなもの破り捨ててやろうと魔法陣の紙を手にしたとき、俺の意識がぐにゃりと歪んだ。
「────っ!!」
言葉が出ない!
俺の部屋からは全ての色が消えて、白と黒の視界がマーブルカラーのように混じり合っていく。これは駄目なやつだ!!
かつてこれほどまでに直接的な恐怖を感じたことはない。
あまりのストレスに何処かの血管でも切れたのか? 一瞬で頭から血の気が引いて、心臓が破裂しそうなくらいに脈打つのを感じている。
俺は何故か必死にスマホを手繰り寄せようとしているようだったが、もはやそれすらもできない……。
恐怖を感じる意識はあっても、この場で助けを呼ぼうと考える余裕は無いみたいだ。体がボロボロと崩れていくイメージを感じながら、そこで俺の意識は途絶えた。
一体どれくらい眠っていたのだろう?
眠りから覚めた意識はある。なかなか開こうとしない瞼に力を込めても、体が上手く言う事を聞かない。
深く息を吐いて少し気分を落ち着かせたあと、強張った体の力を抜きながら瞼を開くと、最初はぼんやりとしていた視界が徐々に明確さを増してきた。
体が横になっていたせいだろう、視界に天井はなく、その代わりに見慣れない部屋があった。一面コンクリートの……いや、違う。
どちらかといえば石造りに近い質感のような、それほど広くはない部屋の中で人が動く気配を感じる。
「あ。気が付きましたね」
相手もこちらの気配を感じ取ったのか、俺を見ると足早に近寄ってきた。
白っぽい服と小さな帽子を被った女性だ。やはり俺はあのまま倒れて病院に搬送されてしまったのだろう。
その女性は俺の近くで足を止めると、少し不安げな顔で俺を覗き込む。薄茶色の明るいセミロングの髪に深い緑色の瞳、妙な違和感を覚えたが、俺はまだその違和感に確信が持てない。
見知ったナース服とは違うようだし、顔つきも日本人とは異なるようだ。次々と沸いてくる違和感は、俺を不安にさせるには十分なものだ。
「大丈夫ですよ。大丈夫……」
顔に出ていたのだろうか? 女性の手が俺の頭を撫でてくれた。何だか気恥ずかしかったが、そうされると不思議なもので、ざわついた気分も落ち着いて楽になった。
「落ち着いてきました?」
こくり。
「では、状況を確認しますね」
ゴクリ。
「あなたは日本人で、魔法陣を描いてから、意識を失いました」
「…………(こくこく)」
どうしてそこまで具体的に知っているんだ?
救急隊員が俺の部屋で魔法陣を見て……なんてこじ付けを考えてもみたが、その説は俺の中で拒否された。
この状況に何となく察しがついて、あー……という力の抜けた思考が込み上げてくる。
「大丈夫なので落ち着いて、ゆっくりと今の状況を理解してくださいね?」
「……はぃ……」
一瞬、自分でもどうかと思うような、か細い声が出てしまった。
「ここはオルステイン王国……王都オルステインの外れにある魔術学院の施設です。日本人の貴方にとっては、現実世界とは違う異世界になります」
何とか王国と言われたが、ちょっと頭に入って来なかった。
だが不思議とショックは無い。凄いなあ、本当に異世界に来れたんだなあと、俺は他人事のように考えてしまった。
逆に、目が覚めたらそこはやっぱり自分の部屋で、現実は何も変わってなくて……みたいになる事の方がよっぽど嫌だ。
子供の頃から何度もそういう夢を見て苦しんだので、それだけは勘弁して欲しい。
なかなか力の入らない体を、俺は無理にでも起こそうとした。
これが夢だったら流石に心が折れる気がしたからだ。早く起き上がって、夢ではない現実感をこの身で確かめたかったのだ。
俺が起き上がろうとする意志を汲んでくれたのか、そういえばまだ名前も知らない目の前の女性が背中を支えてくれる。
暫くすると体全体に血が巡り始めたように、徐々にではあるが力を込められるようになってくるのがわかった。
「私は王立魔術学院の導師エミリア、エミリアです」
俺がようやく起き上がると、エミリアと名乗った女性は、上半身にまとわりついたシーツを払いながら微笑んでくれた。
さっきまではあまり余裕が無かったので気にしていなかったが、見た目も性格も個人的にはドストライクな女性だと思う。
エミリアは20歳くらいだろうか? もう少し上かも知れないが、俺は24歳だし……年齢的にも違和感はないと思ったりなんかして……。
いや駄目だ。こんな俺でも高校時代は同級生の女の子に一世一代の告白をしたこともあったのだが、名前が気持ち悪いという理由で断られてから、それ以来俺は二度と女の子とは会話をしなくなり、生まれてこの方彼女いない歴イコール年齢を更新中の身だ。
多分これからもずっとそうなるはずだから、ここで変な気を起こしてはいけない。
俺は高校時代のトラウマを思い出して、だんだん気分が落ち込んで来た。
せっかく異世界に来て心機一転できるのに同じ失敗は二度としたくない。だからここは苗字だけを無難に名乗って置こうと考えた。
「俺は河しま……ん! んっ……っ!?」
先ほど情けない返事をした時も感じたが、自分の声がおかしい。
喉が引っ掛かっているのか、乾き切っているのか、喉を手で抑えながら痰を切るような仕草をしたとき、どうにもならない体の異変に初めて気が付いた。
あるはずの硬いのどぼとけが無いのだ。
確認のために首を触っていると、何だか体格まで小さくなっているような気もする。自分の掌を見たら、まるで子供のように細く小さくなっていた。
これはまさか……頭脳は大人で人生リスタートできる展開なのか!? 強くてニューゲーム、まさにチート、熱い展開じゃないか。俺は夢のような状況に期待して胸躍らせた。
高鳴る胸を押さえてみると、俺の手は胸板の手前にある二つの山に遮られた。
あ……?
俺は両膝をすりすりと擦り合わせながら、うーうーと自分のおっぱいを両手に包み込んで……ああ、けっこうデカい。三十秒くらい唸ってから……考えるのをやめた。
「あーーっ! あーーーーっ!! ああーーーーーーっ!!」
ジッタンバッタン!
ゴロンゴロンゴロン!!
「ちょ! 落ち着いてくだっ……ぐぶぇっ!」
取り乱した俺は奇声を上げながらベッドの上でゴロゴロして、慌てて止めに入ったエミリアを下敷きにしたままベッドの脇へと転げ落ちた。