第8話
「おーい。エリルちゃん、大丈夫ー?」
声をかけられたとほぼ同時に、あたかも水面に浮き上がるかのようにエリルは意識を取り戻した。
【祭壇の間】の床の上で眠っていたようだ。横たわったまま声のした方を仰げば、声の主であるカイトが顔を覗き込んできた。
「……。なんだ、カイトさん生きてたの」
「その冷めた反応ひどくない⁉︎ オレだって津波に巻き込まれて死にかけたのに!」
「え、津波……って……そうだ!」
たちまち、意識を失う前の記憶が甦ってくる。エリルは思わず跳ね起きた。
「ソラはっ……ソラは無事なの⁉︎」
「……ソラっつーのは、そこで寝てる奴のことか?」
はっとして振り返れば、すぐそばに、穏やかな寝息を立てるソラがいた。未だ目覚めず、エリルに寄り添うようにして眠っている。
「怪我してたから、オレが回復魔法で治療しておいた。命に別状はない筈だぜ」
「そうなんだ……良かった」
心底安堵するエリルに対して、カイトが怪訝そうな表情で話しかけてきた。
「なあ、エリルちゃんよ。ちょいと気になってるんだが……あんた、そいつと一体どういう関係なんだ?」
「友達だよ。まさかぼくも、こんな場所で再会するとは思っていなかったけど」
「いやでも、“赤い髪の人魚”って……」
カイトは更に何か言いかけたが、すぐに口を噤んでしまった。
そうこうしているとやがて、ソラの長い睫毛がピクリと動いた。瞼がゆっくりと上がって、未だ覚醒しきっていない水色の瞳がぼんやりと天井を眺める。
「ソラ!」
エリルの呼びかけで完全に目を覚ましたようだ。ソラは起き上がってエリルの姿を確認すると、ホッとしたように表情を綻ばせた。
それから、淡い唇を開いて−−
「−−−−−−−−」
「……ん? ソラ、いま何か言った?」
エリルが首を傾げる中、ソラは大きく目を見開いた。酷く慌てた様子で、再度、唇を動かす。
しかし、“彼の望む音”が空気を震わせることはなく、ただ、掠れた吐息が喉の奥から漏れ出るだけであった。
「…………! …………っ⁉︎」
「−−ソラ。もしかして」
ようやく状況に気が付いたエリルが、驚愕の表情でソラを見つめる。ソラの方は既に顔面蒼白で、首元に添えられた手は小刻みに震えていた。
−−声を、出せなくなっていたのだ。
場所は変わってマーマン族の王国、海底都市アクアドリアにて。
王宮の広く長い廊下を、一人の男が走っていた。
まだ十六、七ほどの若者だ。背はすらりと高くしなやかで、青みがかった黒髪は品良く整えている。シンプルな装飾ながら質の良い服をきっちりと着こなしていた。貴族である。
若者は見るからに慌てている様子で、その端整な顔には、濃い焦燥の色が浮かんでいた。
やがて、廊下の先に見知った人物の姿を捉えて、彼は思わずといったように声を張り上げた。
「−−トッティ!」
「ん? ……おお、誰かと思ったらバランか」
獅子を彷彿させる明るいブラウンの髪、浅黒い肌。年の頃は二十歳前後といったところで、筋骨の引き締まった大柄な体格をしている。バランと似た服装だが、こちらは少々着崩していた。
「トッティ、つい先程、地上から連絡があったんだ。王女の一行が襲われて……ソラが! ソラがっ、行方不明に‼︎」
「……あー……そのことに関連して、俺からも報告があるんだが」
普段の彼からは想像もつかぬほど取り乱すバランとは対照的に、トッティはあくまでも平時と変わらず、陽気に冷静に告げた。
「教会の巫女殿が、強烈な呪力の波動を感知したらしい。−−かの姫君の〈呪い〉が発現した」
今度こそ衝撃に打ちのめされたバランを前に、トッティはやれやれといった風体で言葉を続けた。
「行こうぜ、相棒。国王陛下がお呼びだ」