第48話
バチィッ、と、管理者の頭上で青白い火花が散った。
その瞬間、ソラの視点は暗転し−−気が付くと、彼は見知らぬ場所に立っていた。
「…………ッ⁉︎」
四方を石の壁で囲まれた、狭い通路。
灯はなく、殆ど先が見えない。何処までも真っ直ぐ続くその空間は、薄闇と静寂に支配されている。空気はひんやりと冷たく乾いていて、仄暗いなか吐く息は白く濁った。
「……貴方ひとりを此処まで飛ばさせて頂きました。ご主人様が遺された、呪いに関する研究資料が保管されたお部屋。その部屋が神殿の何処にあるのかという情報と、部屋の中の資料を自由に閲覧できる権利は、ご主人様の血族のみが得られるものですから……」
それではこちらでございます、と管理者は言って、ふらりと歩き始める。
体重をまるで感じさせない歩み。そのぼんやりした無表情も相まって、彼女の存在感は空気よりも薄かった。
儚く、美しく、幻想的な、空気の精のような少女だ。
(此処は、神殿の何処あたりだろう。残されたエリルは大丈夫だろうか?)
疑問も不安もあるが、あれこれ考えても仕方がない。ソラは管理者の後について、夜の海のような薄闇の奥へと足を踏み入れた。
空気の精に導かれ、あたかも海の底から遥か彼方の海面を目指しているような心地で、通路を進む。
……やがて、狭く直線だった通路が急に開けて、広々とした円形の空間に辿り着いた。
ソラたちが通ってきた通路と向かい合うようにして、その広間の奥に両開きの扉があった。不思議なことに、鉄製のそれは長い年月を経た現在も未だ錆びつかず、造られた当時の時代の姿であろうまま存在していた。
「わたくしが案内するのは、此処までです……。この扉の先に廊下が続いていて、その奥の空間が、ご主人様の書架となっております……」
管理者が、白く小さな手を扉の方に向ける。ソラはその巨大な黒い扉をじっと見つめ、それから、こちらを見上げてくる管理者の少女へと向き直った。
ありがとう。
(此処まで連れて来てくれて、ありがとう。俺、きっとこの〈呪い〉を解いてみせるよ。そして、今度こそ……)
しあわせになりたい。
以前、プタリナの街で人知れず呟いたように、彼は唇の動きだけでそう告げた。踵を返し、管理者に背を向ける。最後に見た彼女はやはり無表情のままだったが、ワンピースの裾をちょこんと摘み、お辞儀をしてくれた。
「人魚さん。わたくしは、貴方の幸福をお祈り致します」
扉に手のひらを当てる。ぐぐっ、と力を込めて押すと、扉は重厚な音を立ててゆっくりと開いた。扉が開けきらない内に、するりと身を滑り込ませた。
管理者の言った通り、数メートル程の廊下があった。その奥に空間がある。扉はなかった。
ソラは一人、小走りで廊下を進んで、【紅の賢者】が遺したという研究資料が保管された部屋を目指した。
ーー
背後で、閃光と轟音が爆ぜる。数秒遅れて此方にまで届いた熱波を知覚し、頸がチリチリと痛んだ。
「〜〜〜〜ッ! ……は、うぅ……!」
衝撃波に背中を押され、つんのめりながらも、エリルは足を動かすことだけはやめなかった、やめられなかった。
そして、またもや、近くで魔術の爆発が生じる。血飛沫と悲鳴が上がった。その悲鳴の主がヒューマンのものかマーマンのものかは判別付かなかった。
現在、〈聖地〉である神殿の内部で、王国の特殊部隊と教会の戦闘僧侶たちは戦闘を開始していた。
両者間で繰り広げられる攻撃の応酬。戦いに巻き込まれたエリルは、独り逃げ惑っていた。
流石に神殿を崩壊させる訳にはいかないからか、はたまた、味方が巻き添えを食らうのを防ぐ為か、不幸中の幸いで広範囲破壊魔法は使われていない。だが既に、何人も死んでいる。
エリルとて、こんな所に居続ければいずれは殺されてしまうという予感があった。かつて傭兵として過ごしたどの戦場よりも命の危険を感じて、彼女は、彼女らしくなくすっかり臆病になっていた。
(逃げなきゃっ……!)
持ち前の俊足を生かして、さして広くない神殿の広間を走る、疾る。
やがて、以前は倉庫として使われていたのであろう一室を見つけて、何も考えずに中へ飛び込んだ。
戦場と化した地点からはちょうど死角になっていて、すぐに他の者に気付かれるということはなさそうだ。そこはがらんとしていて静かで、己の心ノ臓の鼓動と息遣いがやけに耳に響いた。
壁に背を付けて、そのまま、ずるずると座り込んだ。
「……ソ、ラ……っ」
流石に徒労を感じていた。肩で息をする。恐怖と緊張とに、心ノ臓がばくばくと脈打っている。それでも、まだ、声を出せることはきっと幸運だった。
「……ソラ」
自分の口で呟いたその名を耳にするだけで、ほんの少し、気持ちが安らぐ。
しかし、心細かった。
少年に逢いたかった。
「ソラ、君は今、何処に居るの……」
不意に、部屋の外に人の気配を感じたのは、その時であった。
「…………っ!」
続いて、足音が聞こえてくる。迷うことなくこの場所に近付いてきている。
少女はヒュッ、喉を鳴らして、部屋の唯一の入り口を凝視した。
そして、
「−−その中に居るのは分かっている」
声が、玲瓏と響いた。
「出てこい。ソラを誑かした魔女め」
ぐ、と膝に力を込めて、立ち上がる。少し足を引きずるようにして、言われた通り、部屋の外へ向かった。
部屋の外には一人の男が立っていた。
まだ十六、七ほどの若者だ。すらりと背が高くしなやかな体、青みがかった黒髪。戦闘の最中で所々ほつれ、薄汚れてきているものの、シンプルな装飾ながら質の良い服を着こなしている。
確か……バラン、と呼ばれている人魚族の青年であった。
「……全部、貴様が悪いんだ」
忌々しげにエリルを睨みつけ、吐き捨てるような口振りでバランは言った。
「ソラが〈呪い〉に侵されたのも……俺達から離れて行ってしまったのも。全部、全部、貴様が悪いんだ。貴様さえいなければ、ソラは、昔と変わらずに俺達と一緒にいられたのに……!」
……何て勝手な言い分だろう、とエリルは内心で呟いた。不思議ともう恐怖は感じず、彼女は自分でも驚くほど冷静だった。むしろ、彼の言葉を聞いて冷静になっていた。
(『昔と変わらずに』だなんて……)
−−エリルとソラが出会わなくたって、いずれにせよ、海底の王国は大陸と戦争を起こすつもりだったんでしょう?
もしも、かつて、少女と少年が出会わなくとも。二人が恋に堕ちなくとも。
ソラは王国の兵士として戦場に送り込まれていた筈だ。エリルとて傭兵として駆り出されてていたかも知れない。彼女はヒューマンだから、高確率で帝国側に雇われただろう。
エリルたちが何かしなくとも、この大陸で、戦争は、悲劇は、必ず起きた。
一方で、現実で違ったことと言えば。
本来なら出会わなかった、或いは敵同士になる筈だった二人は、偶然と運命の悪戯が重なって恋人同士になった。
そんな運命はしかし、他ならぬ世界から拒絶された。故に、〈呪い〉の力を与えられていたソラは、新たな神話を生み出すことでこの世界の在り方を変えてしまったのだ。
きっと、突き詰めてしまえばそれだけなのだ。
……それだけ、だったのに−−
「貴様だけは許せない。王国の方針に逆らってでも、貴様は、この場で殺してやる……!」
青年は憤怒の形相で長剣を抜き放ち、少女へと斬りかかった。




