第4話
近くの席で、また酔っ払い達の喧嘩が始まったらしい。杯をぶつけ合う音に混じって、喧騒の声が一際大きくなった。無責任に囃し立てる声と拍手も聞こえてくるが、それだって此処では日常茶飯事だ。
歓喜と悲嘆、怒りと劣情。酒気を帯びて赤裸々になった様々な感情が、酸いも甘いも引っくるめて混ざり合う、巨大な葡萄酒の樽−−それが、“酒場”という存在なのだから。
今宵も猥雑な雰囲気に包まれた酒場、その中のテーブル席にエリルは腰かけていた。
肩の上で無造作に切った癖のある黒髪に、鳶色の快活そうな瞳。しなやかに筋肉のついた健康的な体つき。洗い晒しのシャツにズボンという男のような格好で、腰のベルトには細身の剣を携えている。
彼女は今年で十五。現在は修行のため所属していた傭兵団を一時的に離れ、無所属で活動している女剣士だ。日々、用心棒や冒険者のような仕事をして生計を立てており、今もテーブル席の向かいに座る相手と商談を行っている最中であった。
それなのに−−
「だーかーらー! これ以上報酬の値上げは出来ないっつってんだよ、オレは‼︎」
「いやいや、相場ってやつを知らないの⁉︎ 商人でもないのに下手な値下げはやめてよね、てかあんた聖職者‼︎」
「商談に職業なんざ関係ねーよ!」
とうとう殴り合いを始めたらしい向こうの酔っ払い達にも劣らぬ大声で怒鳴りあう。エリルたちは今、下手な喧嘩よりも苛烈な“値段交渉”の真っ最中であった。
せっかく商談まで漕ぎ着けたのだからこの依頼を断ろうとは思っていないが、厄介な客に関わってしまったことをエリルは内心で後悔する。
そんな厄介な相手は、名をカイトといった。二十代半ばの中背の男で、くすんだ灰色の短髪に同じ色の瞳、どことなく軽薄そうな顔つきをしている。
職業は修行中の【僧侶】だと聞いており、現に白を貴重とした裾の長い法衣を着ていたが、その破天荒な言動を見る限りとても聖職者などには見えない。エリルのことは、これから行う〈巡礼の旅〉の護衛として雇いたいのだという。
その後。エリルとカイトは粘りに粘り、閉店間近の時刻になって、ようやく互いに納得できる報酬額に落ち着いた。それから、改めて依頼の内容を確認する。
さて、カイトが行う〈巡礼の旅〉の概要は、この港町から幾つもの町を越えて、この大陸の北の果てにある聖地を訪れるというものだった。そこに建てられた小さな神殿に、ある一人の聖人が祀られているのだという……。
「あんな辺鄙な場所に神殿を建てるとか、教会も悪趣味だよなぁ」
「うん、それは僧侶が言っていい台詞じゃないってぼくにも分かるから自重しようね。……ところでさ」
エリルはそこで、不意に浮かんだ疑問を口にした。
「依頼には関係ない話だけど。その神殿で祀られてる聖人は、一体どんなことをした人なの?」
対して、カイトは何て事ないような気軽な口ぶりで答えた。
「伝承によれば、『【紅の賢者】と呼ばれる人魚と共に【海の魔女】を殺して、ヒューマン族の国を侵略から守った聖職者』なんだとさ」
−−人魚。
その単語を聞いて、エリルの眉がピクリと動いた。
ソラと同じように、エリルもまた、彼と過ごした日々を忘れたことなどなかった。
だが、ソラと決定的に異なっていたのは−−自分が彼に対して抱いた感情の正体を、彼女なりにしっかり理解しているという点だった。
そして。
(……やっぱり、忘れられないなぁ)
これもまた少年と同様に、少女は今も尚、その感情を胸に抱き続けているのであった。