第46話
前回で帝国編は終了し、聖地編(いま名付けた)が始まりました。
物語もいよいよクライマックスです。
傾斜のある岩場を一歩ずつ歩く度に、足の裏には大地を踏みしめる硬い感触が伝わった。耳元で、僅かに疲労の混じり始めた自分の呼吸音が聞こえる。
足場の悪い地面に気を取られていたエリルがふと顔を上げれば、どうやら周囲の者も彼女と同様であるらしく、人並み以上に屈強である筈の彼等の表情にも疲れの色が滲んでいた。白い法衣の上に漆黒のローブを纏った僧兵たちはさして消耗していないように見えるが、ソラを含む地上に慣れていない人魚族の兵士たちは随分と辛そうだ。特に、王宮育ちの人魚姫など、よくぞ弱音の一つも吐かずに内地までついてきたものだ、とエリルは感心した。
……そう言えば、穏健派の僧兵たちと人魚族の兵士たちが一緒に歩いているという現在の状況は、異常以外の何物でもないのだ。
唐突にそんな現実を思い出した少女の心は、ここ数週間で何度も味わってきた言い様のない不安に再び苛まれた。
ソラが、あの戦場で、帝国史上最大級の悲劇を−−獣人の国と穏健派の宗派にとっては“神の奇跡”を−−生み出してから、数週間後。
ソラとエリルは、マーマンの王国の特殊部隊と教会の戦闘僧侶の一隊に連れられて、この旅の終着点……大陸最奥部の〈聖地〉への道程を進んでいた。
聖地に建つ神殿まで赴き、ソラにかけられた〈呪い〉やかの聖人に関する情報を引き出す。
そんな共通の目的を得た王国と教会は今、一時的な停戦協約を結んでいた。
そして、その力を得た張本人であるソラと呪いを引き出す為に不可欠な存在となったエリルは、本人たちの意思とは関係なしに、両者の保護下に−−支配下に置かれていた。
いくらソラでも、エリルを連れて逃げ出すことなど不可能だった。何より、少年の体内に巣食う【魔女】が彼を逃さないだろう。
もし、かの聖地で呪いを解く手段を見つけたとして、解呪を行うことを周りの大人たちが許してくれる可能性は極めて低い。ソラには自身に押し付けられた力に関する決定権さえなかった。
それに−−
(もし、この監視下から逃げ出せたとして……この世界にぼくたちの居場所なんて、きっと、もう何処にも……)
あの日。【海の魔女】に体を乗っ取られたソラが戦場で響かせた死の唄は、大陸全土を震撼させるものであった。
帝国側の死者は数万人に及び、最強と謳われた帝国軍は半日足らずで壊滅。更に、その死者の中には、自らも出陣し主戦地のすぐ近くまで訪れていた帝国の現皇帝まで含まれていた。彼も兵士たちに漏れず、呪力に肉体を押し潰されて、惨い死に様であったと聞く。
こうして戦は、従来の予測を裏切り、人狐族の国の勝利という結末を迎えたのだった。僅か数日で、帝国側に大き過ぎる犠牲を生み出して。
数多の人命を奪い国の命運をも変えたこの出来事は、歴史に刻まれ、後世に語り継がれていくだろう。それこそ、かの人魚姫の〈神話〉と同じように。
変わりやしないと信じて疑わなかった世界の在り方は、あの日、確かに変わったのだ。決して自分の意志でなかったにせよ、変えてしまったのは他ならぬソラであるし、エリルとてその遠因であった。
かつて、人里離れた森の中の湖で水浴びをした日のことを、エリルは思い出していた。
あの時感じた、あらゆる音が、水が、光が−−世界が、今となってはあまりにも遠かった。それこそ、もう手が届かないくらいに。
−−ところが。
そんな彼女のすぐ隣から、一つの手が差し伸べられたのはその時であった。
色白で筋肉質でもないが、それでも、少年らしくエリルより少しだけ大きな手のひら。
「……ソラ」
ソラが、疲れを見せたエリルを心配そうに見つめて、少しでも支えになろうとその手を伸ばしていた。海底とはかけ離れたこの環境、人魚である自分の方が辛い筈にも関わらず、だ。
「ん。……ありがと」
素直に手を取り、そっと指を絡める。
じんわりと混じり合っていく互いのぬくもりに、直接触れた彼の優しさに。エリルは、胸中に甘酸っぱい感覚が広がっていくのを感じた。
かの姫君を呼び起こし、〈呪い〉を発動させた『条件』が何であったのか、彼女はもう知っている。
本人から告白された訳ではなかった。彼が他種族の者に恋をしていること、その他種族が他ならぬ自分であったことは、つい最近になって王国の兵士から告げられた。
見方を変えれば、世界が変わり果てたからこそ、少女は漸く少年の想いを知ることが出来たのだ。
彼等の理想の愛の在り方を否定する現実の世界を歪めてしまったからこそ−−世界に拒絶され、今度こそ本当に居場所を失くしてしまった二人だからこそ−−皮肉にも、互いに寄り添うことが出来たのも知れない。
だから、この時間を、二人は手を繋いで歩いている。
相変わらずソラはエリルに声をかけられないし、二人一緒でもこの世界の誰ひとり救えない。それでも今ならば、体温を、想いを、気兼ねなく通わせることが出来るのだ。
こんなにも絶望的な状況下にある二人はしかし、今、世界の誰よりも幸福な恋人たちであるのかも知れなかった。




