第42話
本来ならば、人魚族の王国も、帝国と人狐族の国との戦争が終結した直後に大陸への侵攻を始める予定であった。
獣人の国への本格的な侵略を開始した帝国ではあったが、かの国も、長らく大陸北東部の重鎮として栄えた国だ。それ程の大国が相手となれば、帝国といえども全力を尽くして戦争に挑まなくてはならぬ。
だからこそ、人狐族の国との戦争を終えて、帝国が消耗したところを人魚族の王国がつく。そういう手筈だった。
実際、従来の予定通り、海の軍団を送り込むのはまだ先の話となっている。
“かの勢力”も、つい最近まではそれを見越して王国の動向を見張っていた。
ところが、現在。
突如として発動した〈呪い〉の力が、かの〈神話〉に登場する人魚の血族である少年の存在が。異常事態として、かの勢力にも深刻な影響を及ぼさんとしていた。
森の中を、複数の人影が駆けていく。
肉体操作系の魔術を駆使して身体能力を底上げしている。凄まじい脚力で地を蹴り、常人では到底出せぬ速度で、それでいて、恐ろしく音を立てずに。
一行は、マーマン族の王国の兵士たちに連れ去られた、かの【紅の賢者】の子孫の居場所を探して疾走していた。
二十人ほどの彼等はその大半がヒューマン族で、数人ほど女性が見られる。全員が漆黒の外套を身に纏っている。
縁に金糸の細やかな刺繍が施されたその黒衣は−−以前、港町郊外の神殿で、人魚族の王女と魔導師を襲撃した『刺客たち』が纏っていたものと同じ衣装であった。
そして、風圧に黒衣がはためく度に、その下からは白を基調とした裾の長い法衣が覗いていた。
さて、常識離れした俊足で森の中を駆け回る一行であったが、その中でも、先陣を切って疾駆する二人の速さはずば抜けていた。
ヒューマン族の男と、木の葉めいた形の長い耳を持つエルフ族の女。
エルフの若い女は、エルフ族が美形揃いの種族と言われるのにまさしく相応しい冷ややかな美貌の持ち主であり、群青色の髪をショートに切り揃え、銀縁の眼鏡を掛けていた。眼鏡のレンズ越しに見える黒い瞳は、少しも焦点がぶれることなく前方を見つめている。
やがて彼女は、小さく溜息を付いて、すぐ隣を疾るヒューマンの男に話しかけた。
「……駄目ですね。魔力探知の魔術も上手く発動しませんし、相手の魔力の残滓もまるで辿れません」
「やはり、隠蔽と妨害系の魔術か……厄介だな。フェリス、一応、探索魔法は切らずにかけ続けておいてくれよ」
「分かっております。貴方は敵が仕掛けた妨害魔術の解除をお願いします」
「もう始めてる」
そんなことを話しつつも、速度を落とすとこも体勢を崩すこともなく彼等は疾走を続ける。会話の様子から察するに二人は上司と部下の関係のようだ。
しかし、エルフの女……フェリスは、同胞にして上司でもある男に、どことなく非難するような眼差しを向けた。
「状況が異常事態なだけありましたから、貴方だけを責めるのは間違いでしょうが……こんなことに、敵に【紅の賢者】の血族を奪い返されることになるくらいなら、その前に出来ることがあったのではないですか? 早い段階で少年を拘束するなり……いっそのこと、面倒なことになる前に殺害するなりすれば良かったのに。貴方ほどの実力ならば十分可能であった筈ですが」
「…………」
「……まさか、貴方ともあろう方が、あの少年を憐れんだと?」
されど。
フェリスの問いかけに男は答えず、唐突に、走る速度を跳ね上げた。
「……え、……なっ⁉︎ ちょっ、と!」
「急ぐぞフェリス。敵に〈呪い〉の力を利用される前に、何が何でもソラを取り戻す」
怒涛の追い上げで何とか男に追いついたフェリスは、それ以上の追求を止めて、一瞬だけ祈るように目を閉じた。
「分かっております。全ては、主の思し召しのままに」
「……ああ。主の思し召しのままに」
己が崇拝する神とその宗教に従って、教会の戦士たちが森の中をひた走る。
–−そんな彼等は、“穏健派”と呼ばれる宗派に属する戦闘僧侶たちであった。




