第40話
濃い緑の匂いと、朝独特の冷気が鼻をつく。続けて、微かに、以前に嗅いだことのある“誰か”の香水の甘い香り。
そんな感覚に睫毛を震わせて、それから、ソラはゆるりと瞼を持ち上げた。
「…………っ」
魔力奪取の魔術をモロに食らった後遺症は重く、恐らくは半日以上経ったであろう今でもソラの魔力はまるで回復していない。おまけに体の節々が痛くて、酷い倦怠感が全身を苛んでいる。
緩慢な動作で横を向けば、未だ霞んだままの視界の中で、草に付いた沢山の露が、頭上の枝葉の隙間から射し込む光を浴びて真珠のように輝いていた。少年は何処かの森の奥で、地面の上に横たえられているようだった。
だが、そうならば、今も頭部に感じるこの心地良い柔らかさと温もりは何なんだろう……?
しばし、覚醒しきっていない脳でそんなことを思ったが、やがて、徐々に気を失う前の記憶が蘇ってきた。
(……そうだ。俺はあの時、トッティたちに捕まって、)
転移魔法で、あの広原から此処まで飛ばされたのだろう。
発動には長めの詠唱と数人分の魔術師の魔力を必要とし、予め特定の魔法陣が描かれた場所にしか転移できない。使用するにあたって色々と不便な点が多い転移魔法ではあるが、それでも、無事に発動できた時の作用は大きい。
現に、あんな戦場から自分を誘拐するのにも成功したのだ。問題は、飛ばされた先の此処が何処なのかだが……。
ひどく寝心地の良いの枕(?)に頬をぐりぐりと押し付けつつ、まだ朦朧とする頭でソラが思考を働かせていると−−
「ソラ、目を覚ましたの?」
「!!!?」
頭上から降ってきた懐かしい声音に、ソラははっきりと意識を取り戻した。
「…………⁉︎ …………っ‼︎」
「……本当に、声を出せなくなっているのね」
少年を心配そうに覗き込む碧色の瞳。徒労の色を帯びてもなお美しい容貌。細い首がことりと傾いて、甘いコロンがふんわり香ると共に、長い珊瑚色の髪がソラの頬にも掛かる。
(さ、サシャ⁉︎ どうして地上に⁉︎)
−−というか、“この状態”って……っ⁉︎
海底の人魚の国の王女にして、ソラの幼馴染でもある少女が、自身の膝の上に彼の頭を乗せて腰を下ろしていた。
要するにサラーディアは、世間一般で言う“膝枕”なるものを行使していた。
そんな事実に漸く気が付いて、ソラが慌てて起き上がった瞬間。ジャラリッ、という金属音が上がると共に、後ろ手に回されていた両手首から肩にかけて鈍痛が走った。
銀色に輝く太い鎖が、ソラの腕に何重にも巻き付いている。どうやらそれは希少な退魔銀製のものであるらしく、少年の細腕を拘束するのみならず彼の膨大な魔力をも封じてしまっていた。倦怠感と痛みの原因はこれだったか。
どうしてこんなことを、と思わず目で訴えると、サラーディアは申し訳なさそうな、哀しそうな表情を浮かべた。だが、それでも、拘束を弛めてやることは彼女には出来ないらしい。
「ソラ。……私、は」
そして。サラーディアが、何かを言おうとした−−その時。
「−−おお、ソラ、起きたのか。ちょうど良いタイミングだな」
ガサガサと背の高い草を掻き分けて、トッティが現れた。その少し後ろにはバランの姿もある。
しかし、それよりも。
「俺達も、ついさっき此奴を見つけたんだ。これで漸く話が始められるな」
「!」
トッティがその逞しい肩の上に担いで運んできたという人物を見て、少年は、今度こそ己の平静を失った。
青ざめた頬に掛かった癖のある黒髪。今は瞼の下に隠されている鳶色の瞳。
ソラのことを好きだと言ってくれた、ソラも恋い焦がれている、ヒューマン族の少女−−
(−−エリルっ‼︎)
「……うぅ……。……そ、ら?」
ソラの心の叫びが届いたのか、エリルがゆっくりと顔を上げた。目立った外傷がないように見えてソラは少し安堵したが、ところが、彼女は今トッティに担がれて体の自由を奪われている。かつて、彼女を容赦なく殺そうとした男達に少女は捕らえられているのだ。
「……あれっ? 君は、この前の……って、これどういう状況⁉︎ ちょっと、やだ、こら、下ろせええっ!」
(やめろっ、エリルに手を出すな!)
互いにもがき、暴れる少年と少女に、茶髪の青年が声を掛けた。
「よーし、ソラも嬢ちゃんも一旦落ち着け。もうこの間みたいに、嬢ちゃんを傷つけるような真似はしねえから」
「−−はあぁ⁉︎ ぼくやカイトさんを殺そうとして、あの日もいきなり槍で刺してきたお前たちが、今さら何を言ってっ……⁉︎」
「だから状況が変わったんだってば。先日、あの廃村で部下たちから、ソラが『嬢ちゃんを守ろうとして』自ら〈呪い〉を発動させたと聞いた。かの姫君を呼び起こし、呪いを発動させる条件は、『異種族の者に対して抱いた恋心』。嬢ちゃんがソラの意中の相手となりゃあ、嬢ちゃんの利用価値も大きく変わってくる」
「えっ? ……ええっ⁉︎ こ、こ、こ、恋心って、」
「五月蝿い。今の状況を簡潔に説明してやるから大人しく聞け、ソラを誑かした人間女め」
トッティの発言の内容に激しく混乱するエリルに対して、バランが冷ややかに言い捨てた。
「此処は、ヒューマンと獣人たちの戦場から数キロメートル離れた森の中。転移魔法で飛んできてから一日ほど経っている。昨日の分の戦はひとまず終わったが、両軍がソラの行方を探し回っている。再び転移魔法を使おうにも魔力を探知されてしまうだろうし……部下たちに周辺を巡回させているが、しばらくはこの場に隠れてやり過ごすことになったんだ。今日の合戦が始まってしまえば相手側もソラを探すどころじゃなくなる、それまでの辛抱だ」
「んでもって、俺達が転移魔法で移動する寸前、嬢ちゃんがソラを追って魔法陣に飛び込んで来たんだよ。そんで嬢ちゃんも転移魔法に巻き込まれて、この森に飛ばされてきたんだ。あくまで巻き込まれた形だから俺達とは少し離れた地点に飛ばされて、探すのにも少し手間取っちまった訳だが」
「……成る程ね。でも、なぜ君達は、あんな戦場の激戦区で、そんな危険を犯してまでしてソラを拉致したの?」
バランとトッティの説明を聞いて、エリルは話の核心に踏み込んだ。
そして、そして。
エリルの問いに答えたのは、サラーディアであった。
「……ソラが、これからの王国に。これから私達が起こす『戦争』に、必要不可欠な存在となったからよ」




