第39話
「かの人魚が、今は獣人どもの軍に属しているだと⁉︎」
−−帝国軍陣営の最奧部、最も大きな幕舎の中で。
自らも出陣し主戦地の近くまで訪れていた帝国の皇帝は、配下からの新たな報告に驚愕の声を張り上げた。
「【紅の賢者】の血族の実力は本物です! 我が軍も壊滅的な被害を受け、兵たちの士気が低下しております!」
「な、なんだとおォ……⁉︎」
帝国にとって、これ程の危機的状況はなかった。
伝承の英雄の血を引く少年が、自分たちでなく相手側についた−−
それは、此度の侵略戦争を“聖戦”と呼ぶ建前だけでなく、これまでの歴史の中で帝国が作り上げた〈神話〉そのものを否定されたと同義であるからだ。
だからこそ。
「許さぬ! 余は、決してっ、このような事態は許さぬぞ‼︎」
太い体に纏った無駄に煌びやかな鎧をガシャガシャと揺らして、皇帝は喚き散らしたのだった。
「精鋭部隊を最前線へ送り込めッ! 何が何でも、その“赤い魔法使い”を捕らえるのだ⁉︎」
そうして数刻の後、ソラは、苦境に立たされていた。
「〜〜〜〜ッ⁉︎」
横から、背後から、頭上から。死角を含むあらゆる方角から攻撃を放ってくるのは、数ヶ月前、帝国の皇帝みずからの命で、一人の少年を捕らえる為だけに結成されていたという精鋭部隊。
ソラは氷の壁を作り出して全ての攻撃をいなし、その直後には、氷の壁を数十もの槍に変化させて敵軍に放った。ところが、相手も少年の攻撃を難なく防いでは、彼との距離を縮めていく。
魔術と魔術、武力と武力の激しい応酬が繰り広げられる。いつしか、ソラの周辺のみ、帝国や人狐族の国の一般兵たちは近づくことさえ出来なくなっていた。本来ならば敵味方が入り乱れる筈の戦場と隔離された異質な空間の下で、ソラはひとり孤独な戦いを強いられたのであった。
(やっぱりプタリナの一件で、俺は帝国にも目を付けられてたんだ……!)
敵の使う攻防は、全て、“水”属性の魔法を使う魔術師との戦闘に有利なものとされている。実際に刃を合わせて、戦いにくさを実感してソラはそう悟っていた。そしてそれは、以前から相手が自分の情報を得ており、予め対策を講じていた事実を如実に表している。
(どうしよう。このままじゃ、捕まって利用されるか−−最悪、殺される!)
−−それだけは、嫌だ‼︎
次の瞬間。少年は、斜め後ろから飛んできた炎の弾丸を“氷”の剣を振って弾き飛ばしざま、剣を握ったままの方の腕を大きく振りかぶった。
ぱりんっ、とソラの手の中で氷の結合が解けた。溶け出した魔水が、球体へと形状を変える。魔法の水はソラの魔力を、周囲の水蒸気を取り込んで際限なく膨張を続け、僅か数秒の後には、
(−−潰れろおおぉぉっ‼︎)
“津波”と化してソラの手の内から溢れ出し、強大な魔力の奔流を伴って、少年の切り札たる大魔術が解放された。
周囲の味方の軍を巻き込んでの攻撃。無関係の者達を犠牲にしてでも自分の身を守ろうという、ソラにとってはあまりに重く非情な決断を下し、一切の容赦と良心を切り捨てた上での一撃。
しかし、周りの者達にも、敵にさえ、ソラの必殺の一撃は当たらなかった。
「…………!」
ソラの立つ地点を中止にして、地面に巨大な魔法陣が浮かび上がる。魔力の光で構成された文字の羅列が、ソラの放った水流を呑み込んで、彼の魔力ごと“吸収”してしまった。
(魔力奪取の魔術……⁉︎)
戦いの最中で、帝国の精鋭部隊が仕込んでいた特大魔法。相手側の必殺技。
津波を呑み込んだ後も、魔法陣はいっそう強い輝きを放った。地が水を吸い込むように、少年の体から魔力が奪われていく。攻撃魔法を放って魔法陣を消し飛ばそうにも、練り上げた先から吸い取られていく!
魔法使いにとって、魔力とは自身の肉体とも連動して存在するもの、いわば生命力そのものだ。それを奪われて、さしものソラもたちまち息が上がり、手足が痺れ、意識が遠くなる。やがてついに全ての魔力が吸い尽くされたと同時に、ソラはその場に倒れ込んだ。
視界がブラックアウトする寸前、ソラは、己を捕らえんと近付いてくる敵の姿を見た。ソラと遠く離れた魔法陣の外側にいるエリルとユスティリナが、少年を助け出そうと未だ奮闘してくれていたが、もう間に合わないだろう。
自分を助けることが出来る者、助けてくれる者は、何処にもいない。
万事休す、かと思われた−−が。
何処からともなく振り落ちた戦斧が、魔法陣に描かれた文字の羅列、つまり魔術を構成する魔力の流れそのものを『ぶった切って』−−たった一撃で魔法陣を破壊したのは、その時であった。
魔力奪取の魔術が破壊されたことで、魔法陣に奪われたソラの魔力が僅かに回復する。ソラは地に這い蹲ったまま激しく咳き込みつつも、のろのろと顔を上げた。
直前までよりは遥かに鮮明になった視界に、眼前の光景が映り込む。
周辺の戦場と隔絶された、この異様な空間の中でさえひときわ異色を放つ、本来ならばこの場にいる筈のない人物たちがそこにいた。
一振りの戦斧で魔法陣を両断したまま残心の構えを取った、大柄な体躯に獅子の鬣を彷彿させる明るい茶髪の男。
今まさにソラを捕らえんとしていた精鋭部隊の兵士たちを斬り殺していく、すらりとした長身に青みがかかった黒髪の青年。
トッティとバラン。
ソラと同じ人魚族。
……一瞬、助けに来てくれたのかと思った。
でも、確かにそうだけど、そうなのに違う。
「−−ソラっ!」
バランの声がした。昔と変わらない、今もソラの身を心から心配してくれている親友の声。
周囲の全ての敵を斬り終えた若者は返り血に濡れた顔と手を拭いもせずに、急いでソラの元に駆け寄った。
「……ソラ」
少年を抱き上げた腕は、あたたかい。血に汚れていても、その手は壊れ物を扱うように繊細で、優しくソラへと差し伸べられる。
そして。
ソラの頬にそっと手を当てて、バランは柔らかく微笑んだ。
とても、とても優しい笑顔で。
以前、エリルとカイトを殺そうとした時と全く同じ笑顔で。
彼は言った。
「さあ、一緒に海底の王国へ帰ろう」
この二人は、自分を助けに来たんじゃない。
……捕まえに。連れ戻しに来たんだ。
そう悟ったソラが、エリルが立っているであろう方角を振り向こうとするより先に。新たに出現した『転移魔法』の魔法陣が、閃光を放った−−!




