第3話
この世界の大半を占める広大な海。その、日の光を浴びて輝く紺碧の海原の下には、楽園が広がっている。
人魚族と呼ばれる種族が暮らす海底の王国。国土は魔力のドームに覆われ、民は地上と何ら変わらぬ生活を送ることが出来ている。−−尤も、水中でも呼吸できる人魚でなければ、そこに辿り着くことなど叶わぬのだが。
その中でも王都のアクアドリアは、地上の都にも劣らぬ繁栄ぶりだ。美しく整備された街並みが広がり、住民の生活水準も高い。
都市の中心にそびえ建つのは直系の王族が住まう宮殿。この国のどんな塔よりも高く、剛健でありながら豪奢な造りの建物である。奥行きのある大広間はまさしく壮麗の一言に尽き、悪趣味でない程度に装飾が施された壁や天鵞絨の絨毯が敷き詰められた床には、シャンデリア型の魔石灯が幻想的な輝きを投げかけている。
「……でも、毎回来る度、ちょっと華やか過ぎて落ち着かないんだよなあ」
果実酒の入ったグラスに口付けて、ソラは辟易とした口調で呟いた。
あの頃はいたいけな子供であったソラも少し大人びて、眉目秀麗な少年に成長している。鮮やかな真紅の髪と魔力を帯びた水色の瞳に似つかわぬ儚げな雰囲気が、彼の不思議な魅力を引き立てていた。今のソラは黒を基調とした礼服を身に纏っている。
今宵は、王女サラーディアの十五歳の誕生パーティーが行われていた。国中の上級貴族をはじめとして、名の知れた騎士や学者等が呼ばれている。
古くから続く血筋の魔術師として国に仕えるソラも例外ではない。生まれた時から王族に忠誠を誓わされている彼は、陰ながら、非常時の護衛の役割をも与えられていた。
目立たぬよう大広間の端に立って、着飾った人々や豪勢な食事をぼんやりと眺めている。
そうしていると、
「−−よう、ソラ! 楽しんでるかぁ〜?」
「うわっ⁉︎」
野太い声と共に、背後からいきなり抱きつかれた。驚き、体勢を崩しかけたソラの横から、また別の声がかかった。
「久しぶり、ソラ。しっかし、いきなり野郎に抱きつかれるとは災難だったな」
「……な、何だ、トッティとバランか。驚かせないでよ」
豪快に笑う大柄な青年に、すらりと背の高い知的な青年−−トッティとバランは、ソラの数年来の友人だ。貴族の生まれながら気さくな性格で、ソラにもこうしてよく声をかけてくれる。
「こんなところに突っ立ってないで、こっち来いよ。ここの料理は旨いんぞ?」
「いや、遠慮しとくよ。俺は……」
「いーからいーから! 食べ比べでもしようぜ!」
バランが提案し、トッティがソラの背中を押す。ソラは、退屈しないようにさせてくれる二人の心遣いが嬉しかったが……本当は、人の多いテーブル付近には行きたくなかった。
そして。
結局トッティたちに押し出されてきたソラ、そんな彼に向けられた周囲の視線は、決して優しいものではなかった。
「……誰かと思えば。【悪の魔法使い】の末裔か」
侮蔑と嫌悪の入り混じった冷たい視線。そんな眼差しと共に投げつけられた、貴族の誰かが呟いた声。
これまでの人生で何度も投げかけられ、すっかり聞き慣れた呼称ではあったが、それでもソラは溜め息をつきたい気分になった。
やがて、祝宴が始まって数時間が経過した頃。
ソラは大広間からこっそりと抜け出して、近くのバルコニーに足を運んだ。
バルコニーに立った彼は何ともなしに頭上を仰いだが、水面は遥か遠く、ただ荒涼とした闇が広がるばかりである。昼間は国土全体にかけられた魔術のおかげで明るいとはいえ、この海底都市には日の光も星の煌めきも届かない。
実際、生まれて十五年ほどの中で、ソラが太陽を見たのはほんの数回しかなかった。
「そっか。……もう、三年も経つんだった」
−−そう。その数回とは紛れもなく、かの人間族の少女と過ごした夏至祭の記憶である。
「エリルは、元気にしてるかな……」
ほんの一週間足らずの逢瀬ではあったが、彼女との交流はソラの人生の中で最も大切な思い出の一つだった。
賑やかな港町を一緒に歩いて、屋台のものを買って食べて、お互いの話をして。そんな他愛のない出来事の一つひとつが、ソラの胸に温もりを与える。
だが、それと同時に、息苦しさも感ずるのだった。今も心に引っかかっていることは沢山あるのだ。例えば、「ごめん」でなく「ありがとう」を言えぬまま別れてしまったこと。恐らくもう二度と会うことは叶わぬこと。
……そして……今もなおエリルに対して抱く、この、甘味を帯びた切なさの正体が、何なのか分からないということ。
「うーん……ほんとに何なんだろうな、これは」
(……敢えて言うなれば……何か、大切な言葉が喉に引っかかっているのに、どうしても声に出せない感じ……?)
どうにも形容しがたい己の感情に少年が首を傾げた、その時、
「ソラ。そこにいたのね」
「!」
不意に背後から声をかけられ、ソラははっとして振り返った。
振り返った視線の先にあったのは、ソラもよく知る少女の姿であった。
丁寧に結い上げられた長い珊瑚色の髪、宝石のような碧色の瞳。華奢ながら女性らしい起伏を持つ体に、細やかな刺繍が施された華麗なドレスを纏っている。薄く化粧した美しい顔には、大人びて上品な微笑を浮かべていた。
少女の名は、サラーディア。親しい者達にはサシャと呼ばせている。
彼女こそが、今日で十五歳となった人魚族の姫君であった。
「どうなさいましたか、姫様。今宵の主役は他ならぬ貴女、勝手に宴を抜け出したとなれば陛下のお叱りを受けてしまいます」
「来賓の方々に対する挨拶は一通り済んでいるわ、少しくらい席を外したってお父様も目くじらを立てたりはしないでしょう。……それよりも」
と、此処で、サラーディアの白い頬がうっすらと紅く染まる。
「私はまだ、貴方の口から聞きたい言葉を聞いていないわ」
「……十五歳の誕生日おめでとう、サシャ。これで俺と同い年だね」
「ええ。ありがとう」
その言葉に、サラーディアはぱっと表情を輝かせた。王女としてでない、年相応の少女としての笑みが端正な顔に広がっていく。その様を見て、ソラもまた相好を崩したのだった。
ソラの連なる一族は、古くから王家に仕えてきた由緒正しい魔導師の家系だ。その忠誠は今代に至ってもなお続いている。
ところが。
当のソラたちは、他ならぬ王族たちから『【悪の魔法使い】の末裔』と呼ばれ、不条理に虐げられる日々を送っていた。王都アクアドリアから許可なく外に出ることすら出来ず、ましてや、地上との交流など固く禁じられている。
その理由を−−【悪の魔法使い】と呼ばれている、己の祖先の話を−−ソラが母親から聞いたのは、彼が十三になる頃のことであった。
−−それは、昔むかしのお話。
当時の王家は、代々、極めて強大な呪力と呪術の技を受け継いできた。
そして、ある時代、その中でも天賦の才を持つ姫君が生まれた。
その呪力の本質は、彼女の美しい声にあったという。則ち、姫君の発する言葉が呪詛そのものであり、彼女の〈歌〉には王国の命運をも変える力が宿っていた。
そんな彼女はある日、地上で出会った異種族の男−−ヒューマン族の聖職者に恋をした。
事情を知った者すべてがその恋を応援した。姫君とその男が結ばれれば、マーマン族とヒューマン族、ひいては海底と地上の絆が一つになるかもしれなかったからだ。
何より……自身の声に呪力を宿した姫君の発する言葉は、民にとって絶対の存在であり、その声に従うことは正義そのものであった。彼女が一言「彼と結ばれたい」と述べただけで、それは揺るぎのない真理となったのだ。
しかし、その思惑は、一人の魔術師の悪意によって踏みにじられた。
その魔術師こそがソラと遠く血の繋がった【悪の魔法使い】である。魔法使いはあろうことか、魔術を使って姫君の声を奪ってしまったのだ。
姫君は、男に愛を伝える術を失い、絶望のあまり自ら命を絶ったという。−−その、最期の最後で力を振り絞り、魔法使いに強力な呪術をかけて。
その時代を以て、王族は己が呪力を永久に失い、魔法使いの血族は最後の〈呪い〉を一身に受けた。
そして、呪いは現在も消えていないという……。
「俺たちは呪われているんですか? それは一体、どのような呪いなのですか⁉︎」
話を聞いた時、ソラは思わず、一族の現当主である母にそう詰め寄った。
対して、十代の息子がいるとは到底思えぬほど若々しく美しいソラの母は、どこか哀しげな口調で告げたのだった。
「この国の中で生きていく限り、呪いが発動することはまずありませんわ。しかし、一度でも他種族と関わりを持てば−−他種族の者に恋してしまったならば−−たちまち姫君の亡霊に付け狙われる。不要な呪力を押し付けられ、その代償として大切なものを奪われて、人生を破滅させられる。そんな呪いなのです」
だから、ソラたちは地上に行ってはいけない。呪われぬ為にも、他種族との接触を避け続けなければならない。そう母は語った。
「昨年、王女を護衛するために、私たちが禁を犯してマーロンを訪れたことを覚えていますか? お前が勝手に町にくりだしていたと聞いて、母さまは本当に心配したのですよ。ソラ、もう、二度とあのような真似をしてはなりません。何かあってからでは遅いのだから……」
『他種族の者に恋をしたら』。
そう聞いた瞬間、ソラの脳裏をよぎったのはエリルの笑顔だった。
だがすぐに、それはないと思い直す。あの時の自分たちはまだ十二歳の子供だったし、あれからもう三年も経ったのだ。
あの時に芽生えて今も胸の内に在り続けるこの感情が、恋心の筈がない。そう自分自身に言い聞かせた。
こうしてソラは、決して声に出せぬこの感情の正体を未だ知らない。本当は答えなど分かっているはずなのに、気付かない振りをして、形容しがたいと目を逸らす。
そうやって、無意識の内に〈呪い〉から身を守っているのであった。
ソラが単独で宮殿に呼び出されたのは、サラーディアの誕生パーティーから数日後のことである。
謁見の間、その奥の玉座に座すのは、この国を統率する老王だ。老いてもなお衰えることのない眼光が、床に膝を付くソラをまっすぐ射抜いている。
国王の険しい表情に、ソラは内心で緊張していた。ましてやこの男が、実は【悪の魔法使い】を忌み嫌っていることくらいソラも気付いているのだから尚更。
「今日呼び出したのは他でもない、そなたに重要な任務を与える為だ」
「……はっ」
声を張り上げている訳でもないのに、老王の声はよく響いた。
「此の度、そなたには、一族の禁を破って地上に上がってもらう。余の娘であるサラーディアの護衛としてな」
「……えっ? わたくしが……地上に⁉︎」
−−そうして。
再び、彼等の運命が動き始めた。