番外編1
プタリナの都市を出て二週間あまりは、稀に現れるモンスターや野盗を討伐しながらの野宿の旅だ。
この辺りの地方には大きな町もなく、小さな村々が点在している。その他は人が滅多に踏み入らない森や山が広がっているばかりである。
大自然の中での旅は、危険で不便で、良いことよりも悪いことの方が遥かに多いかと思われた。だが、決して“良いこと”がない訳ではないのだ。
そう、例えば−−
(うわあ……!)
森の中の獣道、その道が開けた先から現れた景色に、ソラは目を見開いた。
森の中に広がる美しい湖。清らかな水をたたえ、鏡のような水面が白い木漏れ日を浴びてきらきらと輝いている。
その光景を前にして、ソラの全身を途轍もない歓喜と興奮が貫いた。
(……水が、水が、こんなに沢山!)
それは、元来より水中で生きる人魚の、“本能”ゆえの衝動であった。
大陸で生活するにあたってソラは身体を清潔にする努力を怠らなかったし、町の宿屋で風呂に入ることもあった。だが、たっぷりの水に全身まで浸かることは、この地上では一度も出来ずにいたのだ。
目に見えてそわそわし始めたソラにエリルは怪訝そうな表情を浮かべたが、カイトは人魚の本能を察したらしい。彼はニヤリと笑って、
「まだ日は高いが、今日はここで野宿にしよう。……ソラも、水浴びがしたいなら好きにやっていいぞ?」
「…………!」
その言葉に少年は、文字通り、水を得た魚の如く水色の瞳を輝かせたのであった。
「いいかい、カイトさん。もし覗きでもしたら、容赦なく叩っ斬るからね」
「覗かねえよ! オレを何だと思ってやがる!」
「……だらしがなくて欲望に正直すぎるおじさん?」
「オレは! 聖職者! 〈巡礼の旅〉の最中の僧侶! 年はまだ二十六‼︎」
そんな会話をカイトと繰り広げた後、エリルもソラと同様、水浴びをするべく湖に足を運んだ。
彼女が目を付けたのは、湖の中でも森に近い、少し奥まった場所だ。周囲は木々に囲まれ、頭上は樹の枝葉によって塞がれており、外から見えにくくなっている。
エリルは近くに誰も居ないことを確認すると、革製の胸当てとベルト、シャツ、ロングブーツとショートのズボン、最後には下着も脱ぎ去って、一糸纏わぬ姿になった。
少女らしい美しさを損なわない程度に筋肉が引き締まった、健康的な裸体をしている。この旅の初めの頃より、少しだけ胸が大きくなったかもしれない。
服の上からはわかりづらいが、子供と大人の女性との間で揺れ動く、しなやかでありながら儚くもある体つきだ。まるで、彼女の精神の在り方をそのまま映し出したかのような肉体だった。
「……ちべたっ」
ゆっくりと湖面に素足を差し入れる。脹脛から腿を水に潜らせ、腰まで浸かると、波紋が震えながら水面に広がっていった。
それから、ふうと息を吐いて、エリルは木漏れ日の差し込む頭上を仰いだ。
(こんなところまで来ちゃったけど、ぼくは……ソラは、これからどうなるんだろう)
こんな時でも、考えるのはあの少年のことばかりだった。
脳裏を過ぎったのは、あの日、戦いの場で目の当たりにした、知らない女の声で奇跡を起こしてみせたソラの姿。
(あの声が、ソラ自身の声を代償にして押し付けられた、〈呪い〉の力なのかな……)
彼女も、ソラからある程度の事情は聞いていた。
−−それは、昔むかしのお話。
当時のマーマン族の王家は、代々、極めて強大な呪力と呪術の技を受け継いできた。そしてある時代、その中でも天賦の才を持つ姫君が生まれた。
その呪力の本質は、彼女の美しい“声”にあったという。すなわち、姫君の発する言葉が呪詛そのものであり、彼女の〈歌〉には王国の命運をも変える力が宿っていた。
ところが。ソラの祖先に当たる【悪の魔法使い】が、あろうことか、魔術を使って姫君の声を奪ってしまった。
姫君は絶望のあまり自ら命を絶ったのだった。−−最期の最後で力を振り絞り、魔法使いへ強力な呪術をかけて。
その時を以て王族は呪術を永久に失い、ソラの血族は最後の〈呪い〉を一身に受けた。
不要な呪力を押し付けられて、その代償として大切なもの−−ソラの場合は、自分自身の声であった−−を奪われて、人生を破滅させられる。
そんな呪いが今もなお消えておらず、現に、ソラはその呪いを受けたのだという……。
しかし、エリルが知っているのはこれだけだ。
ソラがかの姫君を呼び起こし、〈呪い〉を発動させた『条件』が何であったのかを、彼女は聞かされていない。
(ぼくに出来ることがあればいいのに。ぼくが、彼奴を助けたいのに)
何があってもソラを守りたい。そう思ってしまう程に、エリルは彼に惹かれていた。
あの、強くて凛々しくて、それでいて儚くて優しい少年が、愛しくて恋しくて堪らない。
だから。
(やっぱり……)
やはり、今日こそ、想いを声に出して伝えよう。
ソラに「好きだ」と伝えよう。
根拠のない唯の直感ではあるけども、告白してみれば、何かが変わるかも知らない−−。
「……よしっ!」
告白を決意したエリルが勢いよく立ち上がると、予想以上に大きな水飛沫が上がった。
ばしゃばしゃと騒がしく音を立てて岸に上がり、体を拭くのもそこそこに、素早く衣服を身に付ける。
そうして少女は、少年の姿を探して歩き始めた。




